二章 莫谷神-2
「参りました」
声援と石音は次第に落ち着き、最後の組が、投了を宣言した。
十六人の宮女は、勝者と敗者に分かたれた。八人目の敗者が決定したとき、莫が軽く如意を揺らした。
それを受けた戎家は、武人らしからぬ逡巡をにじませて進言した。
「――華公主、やはり再考してはいただけぬのか」
「兵は凶器《不吉なもの》、と、我が胡蝶学派では申しまする。その表徴のごとき兵部などを、司馬将軍にお任せしておくのは、やはりご負担の様子じゃなあ」
左遷をほのめかされ、戎家は意を決したように命を下した。
戎家の脇に控えた一団が動いた。鋼の剣を腰に佩いたこの女人たちは、宮女からえりすぐられた後宮の治安維持部隊・娘子軍だ。
娘子軍は紀律正しい動きで舞台中央まで来ると、胸前に構えた鋼の剣を、斜めに振りかぶった。
八つの首が飛びこんだ讌席は、たちまち叫喚の巷と化した。
罐は酒をまき散らし、盆の破片はまた新たな悲鳴を生んだ。転んだ誰かに躓いてまた別の誰かが倒れ、敗者の血で赤く濁る池で鯉が狂い跳ねる。
「天籟かな、天籟かな」
頭痛を催す八方からの鳴号に、莫は満ち足りた様子で目を細める。
游仙宮では飲食するな――星躔家の忠告の理由はこれか。
血にあてられて吐くからか。随分ご親切なことだ。李翰は肉を喰らい続けた。自分の皿が終わると隣の皿に移った。主人を失った皿はいくらでもあった。
途中で肉が山芋で作った代替品だと気づいて、気分が異様に沈んだ。登仙を本望とする胡蝶家が、肉魚を出すわけがなかった――
と、その時、硬質な声が場を制した。
「莫姐姐、この趣向は些か、後宮の品位を損なうものかと存じます」
黒づくめの脩身家だった。
脩身家はこの讌の手配者であり、また礼法の実践者として座視していられなかったのだろう。
「後宮は人為が過ぎる」
莫はおっとりと喉を鳴らした。
「無為なる自然においては、弱者は淘汰される。この悲鳴は万物との同化をあらわし、この血霧は清浄なる無為の境地をあらわす。みなさまはまさに宇宙真理に触れておるのじゃ。さよう思われぬか?」
「脩身学ではこう申します。知これに及ぶも、仁もてこれを守る能わざれば、これを得ると雖も、必ずこれを失う――いかに優れた学問思想とて、仁徳によって維持するのでなければ、手に入れた地位を必ず失うもの。どうかご賢察を」
衆人は沈黙し、讌の主人の出方を窺っている。
莫は愉快そうに肩を揺らした。
「ふぉふぉ、あいかわらず脩身学者には戯言が通じぬ。賢妹がた、ご安心あれ、舞台の宮女どもは罪人じゃ。敵国の間諜を衆前で処断しておる。それだけのこと」
内六部序列最高位の吏部尚書たる莫にそう言われてしまえば、礼部尚書の脩身家とて口の挟みようがない。
脩身家が目を伏せ、嘆息して腰を下ろしかけた時だ。
「罪人ならば裁判を受けさせなさい!」
眼界の端で神獣紋の裾が揺れた。水廌家だ。碧眼が尋常でない怒りに燃えている。
「敵国の間諜など、裁きに掛ける必要もなかろうに」と、莫。
「それを決めるのは刑部尚書の妾よ! 越権は許さない!」
さも意外そうに、ゆるりと莫は目を細めた。
「さてもさても、今夕は随分な霍乱。酷薄な鏖殺公主にして麟法の顕現たる水廌家・曹氏が、罪人どもに肩入れとは。売国の徒におもねっておられるのか? であれば、これこそ深く詮議せねばならぬ事例ではありませかのう」
水廌家は青ざめて言語を失った。臆したのではない、たぶん水廌家の怒りは青い炎なのだ。しかしその苛烈な炎をもってしても、莫を焼くどころか、冷えた讌席を暖めることすらかなわない。
「臥榻の側ら、豈に他人の鼾睡を入れんや」
――この莫谷神は、指図をなにより好みませぬ。
莫は王寵を頼みに国を傾ける毒婦。巷間の風聞そのままだ。初対面の時、莫の本質が見えていなかったのは李翰のほうだったのだ。
蝶の羽音は支配の音。衆人は身動きさえできない。
誰か、誰でもいい、息もできないこの莫の支配に穴を開けてくれ。誰もが願い、誰もが俯き顔を背けるだけ。禍がなんとか己だけは逸れてくれるのを、ただ祈るように。
水廌家の白んだ拳の中で、団扇の柄が折れるのと、水廌家が退席するのは同時だった。
「不明点に関するお問い合わせは以上のようじゃな」
徹底的な静寂の中で、莫はうまそうに息を吸った。
「遊戯を続けるとしましょうかの。戸部からは後宮の蕩尽が目に余るといつも突き上げられておりまする。どのかたも、大胆にお賭けになり、後宮財政にお力添えくだされ。ゆめゆめ、中座などなされますな。敵国間諜への同情心厚し、などという悪評判、いかに拙老とても揉み消せませぬでな」
盤上の石音の一つ一つは、命が散る音だった。
投了の恐怖に盤を蹴って逃走した宮女は膾となり、劣勢を覆せぬとみた宮女は舌を噛んだ。宮女は十六人から八人になり、四人になり、二人になった。
十五個の首が桃花の上に転がったとき、ようやく讌は息を吹き返した。勝者は決まり、惨劇は終わったのだ――
「勝ち残った者には、報奨をくれてやらねばの」
ようやく見えた救いの光は、莫の声で再び閉ざされる。
「拙老ども胡蝶家の夢は、有にして無なる存在になること、俗っぽく申せば、不老不死じゃ。学派内では様々な手だてが編み出されてきた。わけても拙老の注目は錬丹。これは手ずから練った金石薬(金属や鉱物からなる薬)でな。服すれば、五穀絶ちも導引も必要なく、たちまち仙と化す。勝者にはこちらを贈呈しようではないか」
莫の手元へ、罐と觴が一組届けられた。
莫は袖の中から布にくるまれた丸薬を取り出すと酒をそそぎ、よく溶かしたあと勝者へ賜った。
十五人を殺して勝ち上がった宮女は、今もって放心しており、左右に支えられるようにして杯をおしいただき、あおり、激しくもがき倒れた。
「おや、配合の割合が悪かったかのう。いかんせん、研究途上でな」
席上は再び極寒のしじまに突き落とされた。
この場には音も莫ければ、わずかのぬくみも莫い。莫谷神とは無の権化だ。不興を買った者はことごとく無に帰する――
「華公主は海容なり!」
突如、機微に聡いひとりの宦官が、高い声で言祝いだ。
五体を損なわない刑死は、本来貴人にのみ与えられる特権だ。
この宦官は、莫が国賊ごときに毒を賜わったことを海のように慈悲深いとほめそやす。沈黙していた後宮人は、それぞれ身の振り方を思い出したらしく、次々に唱和に加わった。
華公主は海容なり。海容なり。海容なり。
――麟後宮は狂っている。
莫の好好爺然とした笑声だけが、紫霞たなびく游仙宮に長く響いていた。




