二章 莫谷神-1
朝の光が底辺公主の拼房に差しそめる。
漏刻で日付を確かめると、李翰が入宮してからきっちり五日目。余月の朔日だ。
「時が戻ってる……!」
朝光の中、一人わなないている底辺公主に、後宮人たちが冷笑を向けてくるが、それすら懐かしい。皆あと三十日で血だまりに沈むかと思うと、哀れみと慈しみの心だけが涌いてくる。
(莫至人が乱を起こすのは、今月の末日、余月の三十日……)
いかにして乱を防ぐのか。李翰には腹案があった。
麟の君主たる浩蕩王に、莫谷神の簒奪の気配を訴えればいい。
己の才覚で洪鈞世界を半統一してのけた王が、判断を誤るとは思えない――
「君は儍なのか、小説家。王は莫に溺れ、寝不足で正常な判断力を失ってる。愚直に莫の異志を注進してみろ、半刻後には獄中人だ。莫は胡蝶家。王辺にないときは、蝶に変じて後宮を監視しているという話だぞ」
「星躔家。口からなんか出てるよ」
「うるさい傀儡……ごほごほっ!」
漏刻を確認した足で、そのまま星躔家の居宮――望舒宮を訪なった李翰は、星宿図案の天蓋の下、褥に力なく伏せる星躔家を見下ろしていた。あと、吐血で染まった口元を拭いてもあげた。
「ねえ、星躔家。どうせ時を戻すなら、莫至人が入宮しない未来を選べばよかったんじゃないの?」
星躔家は数回まばたきしたあと、美形を取り戻して言った。
「星の力は偉大だ。人知を越えている。傀儡でも理解できるように言うとそういうことだ」
「もしかすると星躔家はすごい道具を持ってただけの凡夫なのかもしれない。だからこれまで莫至人の乱をどうやっても防げなかった。そうなるとこの凡夫が選んだこの過去は、すでに最善じゃない可能性大だ。人は配られた札で勝負するしかない。頑張ろう後宮」
「介助するていで私の膳を食うな。肉ばかりを食うな」
後宮の肉がとにかく旨すぎるので言葉が思い出せない。
「手づかみで食べるな。音を立てるな。皿の菜を全て平らげるとは、なんて育ちが悪い女なんだ。いいか、これだけは言っておく。もう時は戻せない。今度失敗したら間違いなく死ぬからな」
とにかく肉がうまい。麹で味をつけた炙は、五臓にうまみと油がしみわたり、喜悦に体が痺れる。食用の肉なんて何年ぶりだろう。有力公主って羨ましい生活してるなあ。
「聞いてるのか? 未来を知っていても、最善手を選べるとは限らないんだぞ」
「じゃあどうすれば?」
入宮初日の一度きりしか会わなかったので知らなかったが、星躔家は極端な虚弱体質だった。
最善は虚弱な星躔家の手を何度もすり抜けたのだろう。星躔家は色々な意味で戦力にならないくさい。
その戦力外人物が、肩で息をしながら棚の巻冊の山をかき分けて、その中の一巻を押しつけてきた。
しぶしぶ肉から顔を上げて見れば、それは請帖(招待状)だ。
「浪費も極まった話だが、公主どもは、一回の讌で三度は念押しの請帖を送って寄越すんだ。数日前、前日、当日とな。この、今夕行われる莫主催の讌に出席して、合法的に莫を失脚させる方法を考えて来るんだ。下手を踏むなよ。後宮は巫蠱の壷、住人はなべて毒虫だ。莫はもとより、宮持ちの有力公主にも気を許すな」
「巫蠱の壺ってどんな宮廷料理?」
「巫蠱の壺は呪術の一種だ。壺に複数の毒虫を入れ、喰らい合わせる。最後に残った一匹は、途方もない強毒を得るという」
なるほど、後宮という場所を表すのに適切な言葉だ。
李翰は首をひねった。
「それなら、公主たちの母親――先王の妃たちに当たってみるよ」
良案だと思ったのだが、星躔家からは例の、人を侮りきった表情筋の動きが返ってきた。
「殉死だ。先王が泉下に降った時、妃(=妾妻)以下、当時の後宮人は全て同道している。后(=正妻)も病でとうに鬼籍だ。つまり、現在の麟後宮の住人は、王の代替わり以後入宮した公主と後宮人のみだ」
「そんな、だったらどうしたら――」
「自分で考えろ。私は忙しいんだ」
星躔家は煩わしげに手元の鈴を鳴らした。
「頭部の働きが嘆かわしい傀儡に言っておく。莫の居宮――游仙宮での飲食は控えろ。それから、時の星海を遡ったことは他言無用にな。効果が解除されてしまう。あと、お手々はちゃんと洗え。以上」
鈴の音に応えて、侍女が入室してくる。後ろに女人を伴って。女人は気恥ずかしげに星躔家の顔を見ている。
「どうぞかけて」と席を勧める星躔家の取ってつけた美声たるや。
そういえばここ、星躔家の臥室なんだっけ。
それを思い出すと、猛烈に腹が立ってきた。
「忙しいって女かよ! 虚弱体質のくせに自重しろよ星躔家!」
「うるさい。碍事だ、さっさと消えろ」
傍若無人な雇い主だ。それでも、市に帰りたければ、麟後宮が滅ぶのを食い止めなければ。李翰は行動を開始した。
◇◇◇
夕景を映す湖(游仙宮のなかにある!)のほとりでは、宮主たる莫を最上段に、公主が左右に居並ぶ。
宮持ちの有力公主をはじめ、二百名の中・下級公主とその侍女がめかしこんで集えば、そこは爛漫の艶野だ。
游仙宮の門前で、星躔家の吐血による欠席を伝えると、
「またですか」
と、もう一人の礼部長官たる黒づくめ、すまし顔の脩身家が、静かに歎じた。
「宮中催事は礼部の要務。まして莫至人の讌は、本日朔日と二十日。開催日が毎月決まっているのですから、星躔家も、日程に合わせて身体管理を行う努力は可能では? いえ、子に言ってもせんのないことですね」
星躔家の病弱は衆知らしい。礼部だけ尚書が二名である理由は、およそ察せられた。
「それにしても――小説家。子は、なおも後宮においででしたか、早急に公主の位を禅譲なさるがよろしいかと」
脩身家も変わりがない。
その限りある儚い命の耀きに李翰は慈愛の眼差しを注いだ。脩身家は怪力乱神に出くわしたように二三度瞬きし、
「人にして礼なくんば、胡ぞすみやかに死せざる」
なんだか難解さで包んだきっつい暴言を吐かれた気がするが、この人も三十日後に殺されるのかと思うと、何を言われても慈しみしか湧いてこない。
席に着いてしばし。目の端で錦の波が翻った。
神獣紋の絢爛な裳裾を、流れる砂金さながらにさばいて近くの席に腰を下ろした水廌家は、すずろわしげに視線を巡らしている。どうしたのだろう。
「話しかけないで百家最弱」
口を開く前に拒絶された。
水廌家もあいかわらずだ。李翰は水廌家にも慈愛のまなざしをそそいだ。水廌家の心は李翰の即席愛では溶けなかった。
というより、水廌家は様子がおかしい。
宮廷では席次は厳格だ。尚書職の有力公主である水廌家が、何の役職も持っていない李翰のそばの席に位置取りすることはありえない。水廌家の癇癪を恐れて誰も指摘しないようだけれど。
やがて月が昇り、時は満ちて。
脩身家の指揮のもと、編鐘が奏でられる。厳密に調整された十六の青銅鐘は、礼法に則った正しい音階を奏で、俗気を払い去る。
「諸子百家の賢妹がた、本日はよく拙老の招きに応じてくだされた。木の葉のようなささやかな讌ではありまするが、どうぞごゆるり、自宅のように過ごしてゆかれよ」
莫の挨拶とともに、讌が始まった。
食前酒が現れただけで、李翰は興奮で鼻から出血した。
「何てことだ、これ淥蟻じゃないか!」
洪鈞の酒は醸し酒。白く濁っている。発酵の泡が蟻のように浮かんでいるのが美酒の証拠だ。 それだけでも庶民には手の届かない品なのに、この泡ときたら、蟻どころか砂粒のようなきめ細やかさだ。
次に現れた前菜には驚愕で腰が抜けた。皿の上の立方体の中に、透明な色の層が組み合わさり、春野が描かれていた。
「まさか、これは水晶細工!」
「こちらは石花菜なる海藻を煮詰め、吉祥食材と合わせ、三十層に固めた品でございます」
海は麟人の憧れだ。しかもこの輝き、石花菜とは海洋の貴石の一種に相違ない。これは食べていいのか? 飾っておいた方がいいんじゃないか?
酒肴は味覚だけではない。沈鯉は真珠の鱗を翻し、柳香が肺を潤す。花葉の群雲は觴の上でうららに揺れる。季節を生かした洒脱な演出は、上流階級の余裕そのものだ。
李翰が肉を食べ続け、讌が二刻(三十分)ほど過ぎた時だ。
「春という季節は穏やかでよい。なれど、いささか無聊じゃ。賢妹かたがたにおかれては、ひとつ、余興はいかがかな」
ゆるりと莫が片手で合図すると、たちまち座の中心に、八つの盤が並べられた。
莫の側にかけた脩身家が不審げな顔をしている。ということは、この余興とやらは、脩身家たち礼部の手配でない、飛び入りの趣向らしい。
「優れた公主は教養深きもの。ここはひとつ、なみいる諸子百家のいずれが知恵者か、競い合うてみるのはいかがかな。勝者には褒美を取らせよう」
「褒美とは?」すかさず、どこかの公主が質問した。
「拙老は後宮の管理者じゃ。こたびの勝者を、今宵、王におすすめしよう」
讌の面々はとたんに失笑した。
「遊説の斡旋かよ。陛下、莫の寝物語しか聞かねえし」
「一夜でも離れると、あの愚王、剣を振り回して侍従を追い立て、莫を探させるとか」
「宦官に賄賂渡して王殿に入れてもらった子、美人で有名だったのに、一瞥もされないどころか、夜中に夜着一枚で追い出されて、莫を迎えに行かされたらしいよ」
「私、もう二年も、お声がかりがないよ」
「私も。来る後宮間違えたよー」
険悪になった讌席を玩味するように、莫が喉を鳴らした。
「賢妹がたは冷たいのう。渾身の笑言じゃったのに。さて、戯れはこのくらいにして、まことの奨品をご紹介しよう。拙老は華公主。後宮の諸省庁を束ねる。勝者には後宮内での官職を。顕位の者には、さらなる加増を。それぞれ確約しよう」
一転、場は色めき立った。
麟後宮は諸子百家が集う。
自家の学問を広めるのも、まずは後宮内での地位を確立してこそ。後宮内政に職を得ることは、王寵に期待しない後宮の、栄華への最短路だ。公主たちはこぞって参加を表明した。
「権威の濫用だわ」と、水廌家が憎々しげに吐き捨てた。
「参加する公主は、これぞ勝者と思う宮女から梅が枝を購いませ」
そろそろと、舞台に現れたのはそれぞれ色の異なる人造の梅枝を抱えた十六名の宮女たち。李翰の知っている顔もある。
宮女たちは設置された八つの盤に、それぞれ二人ずつ、対面して座っていった。
なるほど、代理闘争か。公主間で直接才を競わせると禍根を残すので、代理人たるこの宮女たちを争わせる。今回は、公主らに、この盤上戯の勝者を当てさせる趣向なのだ。
「梅花一枝は一万銭じゃ、一人何本でもよいぞ」
莫の小柄な姿が、公主たちが梅枝をむしり取る白い手の波間にかき消える。
ただ一人、動かない公主がいる。団扇の奥の顔は、硬く蒼白だ。
「おや、よもや臆されたかな」
莫の挑撥にも、水廌家は動かない。誰より血の上りやすそうなあの曹氏がだ。李翰は覗きこんだ。
「いかがなさったんですか、ご気分が――ギャッ!」
李翰の額に団扇がめりこむのと、水廌家が、
「その宮女に百万銭分! 梅枝、百本を賭けるわ!」
と、ある宮女を示して宣言したのは同時だった。
「ふぉふぉ、興が乗ってきたのう」
莫の如意が揺れると、宮女たちの盤上戯が始まった。
軽やかな石音が、声援を煽る。




