一章 白昼の略取-5
「戻ってこい! 目を覚ませ!」
耳元でしきりに声をたてられて、李翰は重い瞼を上げた。
月下に浮かぶ、すらりとした輪郭には見覚えがある。たしかこの人は――
「気が付いたか」
星躔家の涼しい目元が、安堵でやわらいだ。
落ち着きのある低めのその声を聞いた李翰は逆に、速度を上げて後ずさった。
「男かよ!! 星躔家って男子なんですか!! どうして男子が後宮に――!?」
「声を落とせ! 兵どもが私たちを探して血眼になっている」
そんな、あの屍山血河は夢じゃなかったのか?
「なにが起こって……?」
「手短に君の愚問に答えよう。まず私の性別はまぎれもなく男であり、且つ、麟後宮の長公主の一人だ」
「公主? 公子のまちがいじゃないの」
「麟国では、継嗣の兄弟姉妹は血縁非血縁にかかわらず、戸籍上すべて、長公主として処理される。麟は基本的に男子相続ゆえ、これにより無用な後継争いを避けているんだ」
「貴人の考えることは謎だなあ……」
「次に、現況について答える。これは事変だな。目下、後宮人を惨殺中の兵の旗に莫家の縫い取りがあった。莫谷神による簒奪だ。君に会うまでに命のある公主は見なかった。後宮の出入門は封鎖されている。私たちも見つかり次第、同じ末路だ」
「そんな……ではどうしたら」
やにわに、星躔家の袖口が動いた。
冊書? なぜそんなものを? と思う前に、星躔家はそれを李翰へ突きつけている。促されるままに紐解くと、どの行にも同じ文字が連なっていた。
「渡航費……?」
何だそれは。船になんか乗ってないぞ。
「信じたくないだろうが君は入宮以来、三十五回も死んでいる」
思わず見上げると、星躔家はにこりともせず付け加えた。
「おっと、違うな、つい方才も死んだから、三十六回だ。小説家、君、後宮に来てから、突然意識が途切れたことが多々あるだろう。あれ一回一回きっちり死に絶えているからな」
この人、だいぶ戦国後宮脳だな。言ってることが皆目わからない。なんだか瞼が落ちてくる……
「寝るんじゃない! 百家最弱の小説家はおつむも弱いな。私は星躔家だぞ」
「知ってますよ、星の運行から過去未来を視る学派でしょう」
「やれやれ。門外漢に説明してやるのも面倒だが仕方がない。いいか、星躔家の過去・未来視とは、天に横たう時の河に星槎を浮かべ、実際にこの目で見てきたものなのさ……って寝るんじゃない!」
「ふわわ、すいません」
「さすが最弱思想家、心理的負担が高まると猛烈な眠気が襲うようだな。そんな君にも理解できるよう端的に言う。私は・星の力を用い・時を君が息絶える前に戻してやったんだ。三十五回も。違う、三十六回もだ。そろそろ利用料を請求させてもらう」
李翰だって薄々わかっている。
神を守るために沈めておいた部分に、死の記憶が揺らいでみえる。菜羹(野菜スープ)に入っていた毒の味も、井戸に頭から落とされた激烈な感覚も、臓物に刀剣がねじこまれる冷たさも、生々しく残る。
それなのに今、身には擦過傷の一つさえない。それがどういう意味かということは。
「しょうがないな、時の渡航費って幾らですか? ぶっ!」
こころみに簡冊を最後まで追った李翰は噴いた。星を観測しすぎると人は単位が天文学仕様になるらしい。
「あのう、もしもですねー星躔家。もしもですけどー」
「何、払えない?」
星躔家の指輪が不穏に光った。
「払えないなら傀儡だ」
「なにそれ人に使っていい単語じゃない気がする」
「君は今日からこの星躔家・辰霊景の傀儡だ。私の意のままに動く木偶だ。髪一本、微笑のひとかけらでさえも私の所有物だ」
「え、小才のこと好きなの?」
「素直な傀儡は好きだ。命令は一つだ。莫を止めろ」
「どういう意味ですか?」
「私が思いつく限り私がどう動いても、今夜、莫の乱により麟は滅ぶ」
黒とも赤ともつかぬ水たまりが、視界でいくつも揺れている。
「遺憾ながら、私は世界を変えるのに向いていなかった。そこで私は、私に代わる適任者を立てることにした」
星躔家は、当初、有力公主を棊にしようと考えた。だが、有力公主らは莫の監視下にある上、それぞれ私欲でまみれており、星躔家の計画は頓挫した――らしい。
「だが私はついに最適者を得た。小説家、君だ。百家最弱で誰にも注目されていない」
「それで人を使って何度も小才を殺し、時間渡航費で契約縛りにした?」
「私はそんなに暇じゃない。尚書権限で少々書類に手を加えて市井から君という人材を確保し、入宮後に多少の悪評を流しておいただけさ。莫や他公主に、君が有用な人物だという印象を与えないために。この私、辰霊景だけの雇婦にするために。
想像の外だったのは、弱者を見ると食いちぎりたくなる後宮人どもの性質が、軽く一線を越えてくるものだったってことさ」
こいつ、〈莫后〉より手が黒いんじゃないか?
「私とて、いたずらに請求額をかさませるために君を見殺しにしていたんじゃないさ。最善の時期を見極めていたんだ。機会は、あと一たびしかないゆえ――」
星躔家は白い手の甲を李翰に向けた。
指には不思議な夜空色の指環が光っている。
「星砂鐶。我が星躔学派の精粋だ。星砂鐶ひとつにつき、一度だけ時を戻すことができる。これは最後の一点だ。最善の時期と最高の人選で望みたかった」
「小才、このあいだも創作で相手の脳を震盪させてしまいました。百家最弱思想家中の最最弱です。期待されても困ります」
「案ずるな、実は偉大なる星の力で、君に特殊能力を付加しておいた。究極的危機に陥った時、真価を発揮し、君を助けるだろう」
「悪魔の論理だ……」
命を拾える究極的危機は、究極的危機ではない。つまり永遠に、そんな機会は来ないという答えに至る。愚にもつかない気休めに、李翰は前途の暗さを予見した。
「君が次に目覚めるのは、入宮五日後の朝だ。この時点で、既に君の後宮での利用価値は無に準じ、それが後宮中に知れ渡っている。そこから三十日後の夜、つまり本日――余月の末日だな――に、莫が乱を起こす。それまでに莫を無力化するんだ。いいか、くれぐれも兵権だけは莫に渡すな」
星躔家の言葉とともに、指環が砕け散り、李翰の意識は閉じた。
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