一章 白昼の略取-4
利用価値なしと判断された者の行き着く場所は決まっている。
女官の嘲笑を受けつつ案内された室では、くるんと巻いた尻尾が見えた。豚がいるってことは、階上はたぶん厠だ。
深夜に突如起こされて出された食事は意識が飛ぶほどまずく、腐っているのでなければ下水か汚泥が入っている。
豚箱からようやく移り住んだ下級公主の拼房では蠍が出て。洗顔すれば、井戸に突き落とされた。
茶話会の招待状は配達途中で抜き取られ、無断欠席扱いを繰り返した李翰の評判は入宮早々、底へ落ちた。
気分は塞ぎ、伸び始めの柳葉さえ黒ずんで見えた。
公主たちからは塵あくたの扱い、宮女や宦官からは嘲笑される。それでも懲りずに脱出活動に励んだが、行く先々では、犯人が仕込んだであろう悪評により、人脈は始めから絶たれている。
毒消し薬の在処も犯人の手がかりも得られず、あまりに誰からも相手にされなくて時の感覚は死んだ。
幸い後宮は敷地だけは広い。散歩が最大の娯楽になっていた。
今日も今日とて水廌家の宮から搬出されていく侍女の死体を横目に、冷艶な風に吹かれるままそぞろ歩く。
はたと、耳が後宮ではありえない音を捉えた。
獣声だ。
そこで、ようやく気づいた。ここは、これまで一度も来たことのない区画だと。
広い草地に、それを囲むように檻が巡らされていた。
近づいてみれば、鳥、鳥、鳥。花束色の冠羽。引きずるほどの長い尾羽。体より大きなくちばし。あらゆる鳥がいた。
麟の宮中には、各国から贈られた禽獣を養う場所がある――そう、講談で聞いたことがある。これは、囿苑だ。
巨大な易は大口を開け、小鳥に掃除を任せる。額に白い模様のある豹は、日溜まりで丸まっている。
猛き獣は邪気を払うという。
そのせいか、沈んでいた李翰の心は、少し活力を取り戻す。
と。檻の中が動いた。今度はどんな珍獣が?
期待の目を向けると、その檻の中にいたのは、足を鎖で繋がれ、蹲踞(三角座り)する陰溝色服のみすぼらしい女子だった。
「ここは囿苑だものな。囿人(管理者)がいるのは当然だよな」
と、通り過ぎようとしたときだ。
背後からやってきた宮女たちに塵のごとく掃箒で押しのけられた。宮女たちはそのままその掃箒を、檻に投げ込んだ。
「鬼囿人、いえ、衡交家大先生、掃除、よろしくお願いしまっす」
(衡交家だって? こんな陰気な衡交学者、見たことない!)
市で最も話し上手で、人好きする見目の者を見つけたら、それが衡交学者だ。巧みな外交によって国力を増強することを説く、人づきあいを至上とするはずのあの学派が、これか?
李翰はあらためて、檻の中の鬼氏とやらを凝視した。
虚ろな目はどこを見ているともしれず、丸まった肩は強烈な陰の気を放つ。瓢箪から、陰溝をさらに煮詰めた色の液体をすする音が輪をかけてしんきくさい。
宮女に青菜のくずを頭からふりかけられても、されるがまま。
「衡交家大先生、藜をこんなに食べちゃってー」
退廃の麟後宮、宮女の質は劣悪だ。
否、下克上が茶飯事の戦国後宮では、むしろこのような毒こそ上等に分類されるのだろう。
陰気な衡交家をひとしきり弄んだ宮女たちは、思い出したように李翰に眼を向けた。
「小説家先生も、気を付けて下さいねえ。こんなとこにいると、獣相手に演説ぶつようになっちゃいますよお」
「こらこら。それはさすがに失礼だって」
と、隣の宮女が同僚をたしなめた。
「別に気にしてませんから……」李翰は力なくかぶりを振った。
「ふふ、何勘違いしているんですかあ? 衡交家に失礼でしょうって話ですよ。あいつあれでも昔は宮持ちで、華公主と呼ばれてたんですから。豚舎暮らしの誰かとは格が違いますよお」
反応の鈍い李翰に見切りをつけたか、別の生贄をつるし上げる楽しげな声とともに、宮女たちは遠ざかっていった。
李翰は衡交家の頭から青菜の皮を払ってやった。
「気にすることないですよ。青菜は安いし健康にいいし」
衡交家のうつろな目は、愚にもつかない慰めを続ける李翰へ焦点を合わすことなく虚空をさまよう。もちろん返事なんてない。
明朗活弁が商売の衡交学者をここまで叩きのめすとは、後宮とは、心底魔境だ。
――こんなとこにいると、廃人になっちゃいますよお。
耳ざわりな笑声が、耳から離れない。
晴れない気分で岐路に着く。途中、水を飲もうとつるべを取ると、また誰かに背中を押され、意識が黒い井底へと落ちて行った。
◇◇◇
「お祝いを申し上げます!」
なんとか拼房に戻った李翰を待ち受けていたのは、満面の笑みの宦官だった。
宦官はだいたいにこにこしているものだと入宮して学んだが、このにこやかさは見たことのない種類だ――と李翰は変化の気配を察知した。それは的中した。
「光栄に思われませ、小説家の李公主殿下。貴家はとうとう遊説の機会を得られました」
「これだ!」
おもわず李翰は叫んでいた。そういえば自分は諸子百家のはしくれだった!
「大王はご多忙であられるなか、こたびわざわざ新公主の挨拶を受けられる機会をお作りくださいました。聖恩に感謝し、存分に遊説なさいませ」
宦官は笑顔で、後宮おきまりの注意事項を付け加えた。
「よろしいですか、くれぐれも寵をたのみに、大王にねだり事などいたしませぬよう――」
◇◇◇
「助けて陛下! 後宮から出して! 何でもします!」
夕刻、湯に三度も浸かり、香り粉をはたかれて。練り絹の深衣を着せられると。
暗殺防止のため袋に詰められて王殿まで運ばれ、袋から出された瞬間、李翰は満身の力で叩頭し、ねだり事をしていた。
これが廃人の未来から逃れる唯一の機会。これを逃せばあとはない――!
李翰は不敬罪も辞さない構えだった。
だが、返事は待てども来なかった。
おそるおそる目を合わせない程度に顔を上げると、戦国女子の心を鷲掴みの隙のない美丈夫が、胡坐をかいていた。
「もしもし、陛下? お助けをば……」
王は無言で半身を李翰のほうへ倒してくる。
鍛錬の行き届いた躰は重く、支えきれずに李翰は仰向けに褥に押しつけられていた。
「しまった! 〈遊説〉って夜のおつとめの後宮隠語だったのか! 脱ぐ様式の!」
王の、形の良い唇からもれる吐息が、李翰の耳をくすぐってくる。
肌寒い春の宵に、人の温みがじんわりとしみてくるが、反対に李翰は震え上がった。
落ち着け。これはきっと驚くには値しない。莫をみろ、王寵で華公主となっている。たぶんこれは麟後宮の常識だ。後宮から出たいなら、さあ腹を決めろ――
李翰は己の頬を強く抓った。
(――待て待て、状況に流されるなしっかりしろ!!)
王の情けなんて受けたら、それこそ後宮から出られない。この混沌後宮で一生飼い殺しだ。
まだ小説家として一作も成していないのに!
李翰は無二無三、力を振り絞って、覆いかぶさってくる王をはねのけた。
王が床に転がる音がした。
(ああ……不敬罪確定した!!)
棒打ちか。斬首か。一応公主身分だから、毒とか白絹を下賜されるのかも……?
返事がない。最も怖いやつだ。
圧に耐え切れず、不敬ついでに視線を上げ、竜顔に対峙する――
「これはひどい!」
李翰は思わず声を上げてしまった。
いったい、何日寝ていないのか。王の目は、目の下の黒眼圏と、睛が同じ色をしている。納期に追われる超絶人気小説家ですら、こうはいかない。
「あのう、陛下? もしもし?」
揺すってみると、王は唸りながら床をまさぐりはじめる。枕を探しているのか? と思い至ったときには、李翰の膝にちゃっかり王の頭が乗っていた。それきり応答がなくなった。
(話にならない……)
今年は麟の年号でいうと浩蕩王の十年だ。
浩蕩王は齢二十で即位後、戦国八雄のうちの四か国を併呑、西方の後進国だった麟を強大な軍事国家に押し上げた。冬は戦場を駆け、夏は戦争をふっかけるための国家間調整に明け暮れた。
城に戻れば戻ったで、後宮には莫を筆頭に、野心に満ちた諸子百家が群雄割拠。
それが十年も続けば、政治はもとより、李翰のような閏公主の陳情が耳に入る状態じゃないらしい。
李翰は王を膝から払おうとしたが百家最弱のため動かせず、膝枕の姿勢のまま漫然と夜を明かした。
◇◇◇
朝の光を浴びて、固まった筋肉を伸ばしていると、李翰は向けられた視線に気づいた。
王殿の庭から、年齢不詳の鶴氅姿の女人がこちらを見つめていた。
莫は李翰の視線に気づくと、ふぉふぉ、と得体の知れないじじい笑いをひとつ、去っていった。
遅れてその笑みの意味に思い至った時、李翰は慄然とした。
李翰は王と朝まで過ごした。
〈莫后〉の男と朝まで過ごした。
李翰のどんな弁解も意味を持たない、圧倒的事実だった。もう戻れない。不穏なものを感じたが、もはやどうなるものでもなかった。
一切の刁難が止んでいた。女官は設計だけで一年かかりそうな凝った甜品を、聞くだけで震えあがる産地の茶とともに、頼んでもいないのに一刻(十五分)おきに捧げ持ってきた。その合間に新しい衣裳のための採寸係が出入りし、聞いたこともない肩書きの人から礼品が届けられ、終日にぎやかだった。
運が向いてきた予感を覚えながら、その夜、李翰は新しい天蓋つきの褥に沈み込んだ。
夜半のこと。自分の咳で目が覚めた。
一面に、靄がかかっている。
喉に貼りつく重い風の不快さがたまらず、外へ飛び出すと、累々と後宮人が倒れていた。
月光を映した水たまりたちは、あまねく濃緋に濁っている。煙が四方から上がっている。
生気を探して最も近い刑宮に駆け込むと、かっと見開いた碧眼に蛾が止まっていた。胸は鮮紅色で染め抜かれていた。
隣の礼宮では、黒づくめの脩身家の首が奇妙にねじれていた。
煙だけでない息苦しさをこらえてさまよえば、耕穡家も、戎家もみな血だまりに沈んでいた。
こんな時には、不要な五感は働かなくなるものらしい。
振り返ると、兵士が鮮紅色の剣を振りかぶっていた。たぶんわめき声をあげていて、口角に泡を飛ばしているのだが、聴覚は全く働いてくれない。
自分は既に死にはじめているのだ。
胸を貫く鉱石の衝撃を感じたのを最後に、李翰の呼吸は止まった。




