終章
一月後、大麟の京師。
窃盗者は手首を切られ、間諜の首は市にさらされ、よろずの悪は厳しく取り締まられて、白昼の人攫いなんかもう起こりようがなかった。麟はかつての治安を取り戻していた。
人々は口々に言祝ぐ。
――我らが英雄、浩蕩王が正気を取り戻された。
王を惑わす毒婦が、討伐によって除かれたからだ。毒婦・莫后の遺体は討伐軍により城壁から吊され、十日十晩、人々の怨嗟を一身に受けた。
後宮腐敗の表徴であった莫が誅伐された興奮も醒めやらぬ数日後、高らかに発表されたのは、浩蕩王の婚礼だ。長く独身を通していた王が、いよいよ伴侶を迎えるという。
もちろんお相手も高貴な王族だ。めでたいことに、その女子には、かねてから懐妊の風聞が立っている。
華燭の宴の後、王は傘蓋つきの四頭立ての車で市中を行進した。
十二の吉祥紋と玉をちりばめた典礼用の軍装は軍事強国・麟の君主の威容にまことふさわしく、その隣に座す、王后のしるしである鳳冠(なぜか黒い)をおしいただいたすまし顔の女子と、武と文の好一対であった。
織坊の主人は、黒色の流行を予見して糸を大量発注し、礼部の広報担当は亡国の公主を娶る麟主の懐の深さを国内外に喧伝した。有識者は法と礼の婚姻であると訳知り顔で解説し、また別の誰かは、われらの公主がとうとうやった、徳で王を教化したのだ、と物陰から小さく満足そうに言祝いだ。
◇◇◇
城壁に偽の莫の死体を吊してから、水廌家と李翰が考えた計画はこうだ。
浩蕩王と脩身家の婚礼は、家格の面では最も順当だ。王が莫の誘惑から脱したよい印象づけになるだろう。
やがてふたりの間には継嗣が生まれる――脩身家の妊娠は以前から人々の口に上っていた風聞だから、すんなり通るだろう。
数年後、王は長年の戦場生活とその後の荒淫がたたり、継嗣に譲位する。ほどなく后である脩身家も薨去。
にわかに後見を失った継嗣は危うい立場だ。そこで、先王の義妹であり王家の親戚筋でもある水廌家が、周囲に推される形で、継嗣を補佐して政治を執り行う。
そんな下図があるからこそ、脩身家の王后冊立を、水廌家一門は容認したのだ。
偽王は心を病んでいるので早期に王業を引退させるのは合理だし、本気で脩身家を始末する気でいるに違いない水廌家は知らないだろうが、脩身家は活屍なので死の偽装など造作もない。
問題は継嗣をどこから調達するかに尽きた。
浩蕩王は子を残さなかった。継嗣を用意するにあたり、秘密の漏洩が最大の懸念だ。思い悩んでいたとき、冷宮の中から、衡交家が笑いかけてきた。
「最も正統な後宮の子は誰だと思う? 僕らの中で、唯一後宮で生まれた、正統なる者は?」
それは貘だ。衡交家はそう断言した。
「そういえば、あの魔魅、あれ結局どこから連れてきたの?」
僕も知らない、と衡交家はこの期に及んで陽気に答えた。
「昔から、後宮には妖魅が棲む、と言い継がれてたんだ。でも姿を見た者はない。僕を含め、皆よくある怪談の一つだと思ってたよ」
それが違った、と衡交家は白い眉を撫でた。
「先王崩御ののち、妃嬪の殉死を見届けるとき、僕は見たんだ。刃物を受けたある宮女の体から、紫霞が立ち上るのを。誰もその妖魅を見たことがないわけだよ。人に憑いてたんだ。ううん、あのとき貘は生まれたのかもしれない」
後宮で見た紫霞に興味が湧いた衡交家は、捕え、観察し始めたのだという。やがて衡交家は、この魔魅が夢を糧にしていることを確信した。
「貘はくすしき魔魅でね。それ単体では〈口がない〉。人に憑かないとお喋りできないし、食事もできない。仮に貘憑きを殺した場合、貘は〈口〉を失うのを恐れ、その時点で最も近くにいた者を次の体に選ぶ――数年、貘憑きを冷宮で養って判ったのはこのくらいかな」
莫が頻繁に冷宮に出入りしていたのは、あそこが餌場だと刷り込まれていたからだったのか。
「偽王の不眠症状の話を聞いた時、これだ、と思ったよ。貘を近づければ王は必ず依存する。貘憑きは夢を食べるだけのぼんやり屋。間接的に後宮を管理するのはたやすい。さっそく莫君に憑依させた」
衡交家たちは莫のことを、薬学に通じた胡蝶家だと思っていたのだから、蘇摩の件を嗅ぎつけられる前に潰しにかかったのは道理だろう。
王寵を得て行動範囲を増し、質のよい夢を常食するようになった貘の成長は破竹だったという。
「僕らとしては、〈天上蜜〉完成までは、貘はあのまま暴れていてくれていたってよかったんだけど」
衡交家は心底楽しそうだ。
「貘は夢を喫する。夢とは何だろうね。僕はこう思う。夢とは人の知識と経験、思いの塊だ。貘は智恵を食べてたんだ。後宮人の智恵をその身に揃え、人型を取れるようになった貘は、誰より後宮人らしい。すなわち最も正統な麟の後継なんじゃないかな」
悪びれもせず衡交家は笑う。この気質は、死んでも治らないだろう。げんに毒と白絹を持ってきた李翰に向かって、最高の笑貌を向けているのだから。
「ねえ、最期に聞くけど、鬼締はこれでいいの?」
衡交家は耕穡家と共謀だった。
しかし獄中にいるのは衡交家だけ。
耕穡家は、公主身分を剥奪される処分で済み、すでに庶人として王宮を追放された。衡交家が、全て自分が指嗾したことだ、と偽の自白をしたからだ。
「桑君は麟王族唯一の直系。王位争いに負けたからって、血を絶やさせるわけにはいかないよ」
「へえ、鬼締に国家への忠誠心があると思わなかった」
「浩蕩王もね、僕みたいな性質だったよ。僕らみたいなのって、社会から歓迎されないじゃない? でも後宮では息ができる気がした。それですごく気が合ってね」
考えてみれば、鬼締は浩蕩王と過ごした期間が最も長い。兄妹みたいなものなのかもしれない。囿苑に入ったのは、いまいち後宮運営者として頼りなかった水廌家を鍛えるために、王と示し合わせたことだったのか……?
李翰は想像してみる。
衡交家は不測の事態に備え、王に事後を託されていた。
王亡き後、次王たりうるのは耕穡家か水廌家。王が死んだ時点で、資質の高い方を残せばいい。それだけのことのはずだった。だが、偽王が現れた。王位を彼から、世論が納得いく形で奪わなければ、浩蕩王が望んだ次王候補である耕穡家・水廌家のどちらも王になれない、という問題が生じた。そこで衡交家は耕穡家に助力した。そして耕穡家が簒奪に失敗した時のために、李翰には水廌家の味方をさせた?
また、衡交家が、ただの暗殺でいいところ、あれほど残酷に脩身家の身を切り刻ませたのは、浩蕩王への手向け――?
「険しい顔してる。妬いてるの?」
「……さっさと死んじゃえ、鬼締」
衡交家が手招きするので、李翰はもう少し檻に寄った。
李翰の頬に伝う雫を、衡交家の舌が掬い取った。
「美しい顔貌になったねえ、李君。李君は後宮人に向いてる。僕はここでおしまいだけど、李君はこの華やかな冥獄を、心ゆくまで楽しんでいってね」
ところでお願いがあるんだけど。と、鬼締は耳打ちしてきた。
「ねえ、白絹を選んだら、李君が絞めてくれるんだよね。興奮するなあ」
「早く毒を飲んでくたばりなよ」
「僕ね、怖いってよくわからないんだ。恐怖がどういうものか、たくさん試してみたけどわからなかった。ただただ楽しいだけだった。だから後宮一怖がってくれる李君のこと、大好きだった」
「早い段階で、うすうす、だろうなと思ってた」
「僕は、僕を縊らなくちゃいけない李君の、恐怖の顔を見ながら死ぬ。それって僕の考えうる、最高の死に方」
どこまでも噓つきな鬼締は、紅い花みたいな血だまりに沈んだ。
◇◇◇
あれから後宮は、随分静かになっていた。
戎家もまた、辰霊景の証言により罪を暴かれ、後宮を去ることとなった。
けだし、莫は散布された天上蜜を、実際のところ、解毒なんてしていないのではないだろうか。
あの、星が旋回する夜は、辰霊景お得意の薬種を使った集団幻覚だったのでは?
だとすれば今頃、辰霊景たちの学派と、各国の協力者が、天上蜜対処に当たっているのかもしれない。
あるいはあの指環は本当に時を戻すことができて、辰霊景は何度も時を遡行して最善を探しているのだろうか。いずれにせよもう彼とは会うことはないこの世界の李翰は、この生をやり遂げるしかない。それはほかの公主たちも同じだ。
「それがしは、国を用意したかった」
冷宮での負傷が癒えぬうちに、二度と戻れぬ遠国に降嫁が決まった戎家は、去り際そう言った。戎家が冷宮で血まみれで倒れていたのは、一緒に収監されていた馬の蹄鉄か何かを研いで作った刃で行った、自作自演だったのだろう。事態を攪乱して時間を稼ぐための。
「国?」
「決して女子が戦乱に巻き込まれぬ国だ。世が乱れれば、女はすぐに拐かされる。政略によって婚姻させられる。それは洪鈞が統一されても変わるまい。女が弱いからだ。それがしは弱者の国を――女人国を作ろうと思った」
「弱者の集まりなのに、決して戦乱に脅かされない国。そんなものが?」
「そのための〈天上蜜〉でござった。あの凶悪兵器は、一度威力を見せつけたのちは、所持を公表するだけでよい。〈天上蜜〉は天災に並ぶ脅威。無効化できるのは女人国のみ。となれば他国は、あえて女人国の国境を侵すまい。〈天上蜜〉とは、抑止力だったのだ」
戎家は新しい麟の形について考えていた。
女子を鍛え、交易によって資金を蓄え、登極後の未来に備えていた――のかもしれない。
あとわずかで龍座に届いたはずの手は空を切った。
けれど、去りゆく背中は、新たな地平を切り開く者にふさわしい厚みと威厳を保っていた。
◇◇◇
刑宮に帰った李翰が、鬼締獄死の報を伝えると、墨を桶単位で消費して事後処理に当たっていた水廌家は息をついた。
――ちょっと歩かない? と、水廌家は李翰を庭園へ連れ出した。
耕穡家が去り、土色の耕地は再び後宮らしい花叢に戻りつつある。
「これで、内六部全ての権限が妾に戻ったわ。かつて妾が入宮した頃のように」
「何かまだ懸念があるんですか? この頃また少し服がどぎついですよね」
「妾は、手元に揃った内六部の六つの印章を見るたび、頭をよぎることがあるの。この回復された権力は、鬼締が各公主から奪い戻したもの。鬼締はどこまでも妾の教育係で、今回の一件のすべては、妾の不徳から起こったのかもしれない」
水廌家の悔悛の声は、しかし、李翰の意識の表層を無感動になぞるだけだった。李翰は別のことを考えていた。
罪を暴くという廌の能力が、水廌家が公言するより遥かに正確なのだとしたら。水廌家の後宮愛は。姉妹愛は。どこまでが真実だったのだろう?
水廌家は、鬼締と李翰の共謀関係をとうに察知していて。
でもすぐには裁かなかったのは、王位闘争の方が重要だったから。
水廌家は正義と情熱を装い、李翰に最大限協力させ、自らの龍座を確たるものにし。しかるのち李翰に、朋友の鬼締を殺させた。
李翰が鬼締の処刑に反対すれば、水廌家はそれを口実に、李翰も罪に問うつもりだった。鬼締はそれが読めていたから、自ら毒をあおった。
水廌家に姉妹愛なんか、そもそも存在したのだろうか?
あの、血と惨劇を好み、狂気的な嘘つきで、李翰を苛むのが何より楽しみだった鬼締――あんな悪魔に幼少から育て上げられた水廌家が、真に人情家だとでも?
李翰はこの、一見感激気質の女が流す、涙の温度がもうわからなかった。
麟後宮は巫蠱の壷。
李翰と水廌家は、巫蠱の壷の底に残った、最後の二匹。
壷中の毒虫たちは、最後の一匹になるまで喰らい合う。
鬼締という毒虫は笑いながら死んだが、それは水廌家の謀略から李翰を救って満足したためじゃない。自分の死後も、弟子たちが殺し合うことを想像して、楽しさで笑いが止まらなかったのだ。
鬼締の友愛の深さは、死してなお残る悪意。
李翰は、かつて毒虫に贈られた笄をそっと撫でた。
いいだろう、曹俊録。
受けて立とう。
麟後宮は巫蠱の壷。華やかな冥獄。
ここで生きる覚悟をくれた毒虫たちのかわりに。
心ゆくまで楽しもう。記録に綴ろう。
命尽きるまで。
李翰の膚には、鬼締と同じ紅い花が咲いていた。
了
最後までご覧いただきありがとうございます。
最後なので、2点お伝えしたいことがあります!
麟国を脱出した脩身家が別の国で無双する百合短編が、『文芸ムックあたらよ 第二号・特集:青』(EYEDEAR刊)に「葬礼業者の弟子」というタイトルで収録されているので、そっちも読んでみてね! 「業者の弟子」は、あたらよ文学賞の受賞作なので、わりと面白さが担保されてると思います。(※「葬礼業者の弟子」の現在の著作権・出版権は私にあります、『壷中の蠱女』ともども、オファー大歓迎!)
もうひとつはこれです。
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めでたくかしこ




