五章 後宮炎上-7
「西域の神話によれば、蘇摩とは、草木の神にして月の神だ」
辰霊景は莫を助け起こしながら言った。
月とは何か――天体だ。星なんだ。洪鈞には、星との対話を生業にする思想家がいる。それは。
「さあ妹よ、地上に撒かれた蘇摩毒を浄化してくれ!」
声に応え、星躔家・莫谷神の衣が翻る。鼻をくすぐる仙人っぽい匂い。
真なるしもべの復活に、星たちが揺れて言祝ぐ。
莫は、指先を星々を編むように組んで、天にかざした。
「星躔の徒、莫谷神。敢えて皇穹の万神に告げん――」
莫の中指の星色の指輪が光を放つ。
「――周天の度数・四海の広狭・日月の遅疾・九道の乗るところ・昏明の脩短・五緯の盈縮・四七の凌犯・帚孛の出づるところ・辰極の動かざる・望舒の内鑑して寒き・宇宙の万象すべて爾らの知るところなり・いま洪鈞に土殃有り・速やかに至りて・木石虫獣を傷なわざらしめ・殃いを攘いて内外を澄清せしめよ!」
誰も動かなかった。あろうことか、人々の睛の中で、星々が光の筋を引いて天を回転し始めていたのだ。
天地が光で繋がった果てなき星海の中、地上の光を吸い上げた月神は雲に隠れ、頬を柔らかな滴が打つ。零雨は穏やかにあたりを湿らせ、闇の中でさかる焔を、細い煙に変えていった。
火焔の熱が引けば、清浄な風が大地を満たす。
霊景は、懐中から布に包んだ白い花を取りだし、つまんで落とした。あれは月宮草――いや、蘇摩だ。思い至った直後、地に落ちた白花は、夜目にもあらわにしなびて消えた。
莫は一同に告げた。
「月神の計らいにより、洪鈞の大地は浄化された。この地は、二度と蘇摩毒の影響を受けず、また二度と蘇摩草を育まぬ」
「悪は潰えた。終わったんだ、全ては。さあ妹よ、故郷へ帰ろう」
辰霊景の言うとおりだ。
本当におしまいだ。
実のところ、既に会話なんかしてる場合じゃなかった。真の終わりの時は、全ての手を尽くしたあと避けがたく訪れる。
李翰が辰霊景の襟を掴んだところで、とうとう現実は牙をむいた。
もうずいぶん前から、李翰らは討伐軍に囲まれていた。
討伐軍は末端なので、蘇摩が浄化されたことにより、主人である戎家一門の野望が潰えたことを知らない――と李翰は冷たい汗を流した。
弁明は無駄だろう。
討伐軍が討伐対象の言を聞き入れるとも思えないし、討伐軍は禁域に踏み入っている手前、後宮を正しにきたという名目を絶対に遂げたい。しかも既に、毒婦の莫は〈発見〉された。莫を囲む公主たちは莫と親しげだ。討伐軍は、莫とその追従者を値踏みし、どの公主から刃にかけるか血なまぐさい算段をしている。
早くも同胞と見なしているのか、背後からはうらめしげに哭く、幽鬼の声まで聞こえてくる。
鬼哭は迫る。うめき声に似た低い音で。
いや、これはうめき声そのものでは……?
声へ首を回すと、片足を廃材を巻いて固定した水浸しの青年が、苦痛に顔をゆがめ、阿修羅の形相でこちらへやって来るところだ。
討伐軍の誰一人として青年の歩みを妨げないのは、橙黄色の衣を纏うそのただ一人を救うために、今夜の討伐軍が編まれたからだ。
遅れて登場したこの青年こそが、今夜の後宮人の命運を握る。
廃人に片足を踏み込んでいるとはいえ、青年――覇王の替身の身体能力は、井戸に突き落とされるという突発的危機にも、自身を救いおおせていた。命を拾ったら、次は貘だ。替身は貘なしでは生きられない。貘がいなければ半狂乱で捜すし、貘が危機なら貘を救う。替身にとって貘とは、つねに長公主たちの姿をしている。
ゆえに替身は、長公主たちを救う。すべては自分のために。
替身は一世一代の迫力で、王よりも王らしく討伐兵に命じた。
「――そなたら、見たか! 先程の星光が逆行する瑞兆を。これぞ、孤の後宮を脅かす者が取り除かれた証しである。そなたらの忠義、孤は忘れまい。追って莫を引き渡し、相応の褒賞を取らすゆえ、今宵は速やかに兵を引くがよい!」
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