五章 後宮炎上-5
李翰はかつて、衡交家の思想を嗤った。
「徳」による統治なんて実現しえぬと。衡交学者らしくない理想論だと。
理想論なんかではなかったのだ。衡交家の言う〈徳〉とは農作物独占による揺るぎない生命管理のことだった。
衡交家は、先王に重用された。ゆえに実子であり継子たる浩蕩王とは、不仲だったという。脩身家によってもたらされた浩蕩王の死は、衡交家にとって僥倖だったわけだ――と李翰は眉根を寄せた。
「浩蕩王にかわる正統な麟主として、同じく先王の血を引く耕穡家・桑盈升を立てようとしたんですね。だから官学で政治影響力がある水廌家出身公主・曹俊録の存在が妨げになった」
「阿俊も桑君も王器には違いない。ただ、桑君は血統の他にも、阿俊にないものを持ってた。桑君にあって阿俊にないもの。それは、理想の国を実現するために〈天上蜜〉を製造してのける、ためらいのなさだ。桑君はきっといい王になる。僕がついてるからね」
「そんな強引な手法で得た王位が、なめらかに機能するわけがない」
「最小限の犠牲で乱世を終結させること、それは李君も願ってることじゃない? 誰でもいいから洪均どうにかしろ、って毎日思ってるんじゃない?」
心裡を当てられて口ごもった李翰に、黄金比の笑顔がするりと染み込む。
「洪鈞統一の兵器を開発した桑君の功績は、一代で四国を併呑した浩蕩王のそれよりもさらに大だ。〈浩蕩王〉はもう二年も政務を放り出して、民心を失ってる。そろそろこの英明な妹に王位を譲っていい頃合いだよ」
衡交家は、袖から錦の裏貼りをされた絹布を取り出した。
震える墨文字が、衡交家が今言ったとおりの文言をなぞっている。井戸に突き落とされる前に書かされたのだ、あの惰弱の偽王が!
偽王を偽王と明かせない以上、その文書は王の意思だ。
洪鈞世界は二百年乱世。簒奪された王位は無数。民に、李翰に、もはや感傷はない。
むしろ、簒奪するほど意欲に溢れてるんだから、前王より巧みに麟を統治してくれるかもしれない。あの恐怖の農業徳治も案外敷いてみるとそれなりに走るものなのかも。社会を一歩進める方法は、いつも突拍子もないものだ……
「そうだよ――その眼だよ良朋。人の皮をかぶった獣の眼。それだよ。囿苑で初めてまみえたとき、僕が気に入ったのは。君は僕の最好の理解者で、新政権に欠くべからざる要人だよ」
衡交家の差し出した手を、李翰が取りかけたときだ。
「何が、農業朝貢体制よこの猴! 貴家の所行は、ただの外来種持ち込みと環境汚濁よ!」
正気に返って振り返ると、やっと追いついた水廌家が、肩を怒らせ、両足を開いて立っていた。
「阿俊は今日も溌剌だなあ」
「よくって? 李妹の心の弱さは仕様なの。罪悪感が空なの。心が豹なの。妾は戦国の民はみな心の弱い豹だと思うの。生来残忍で、他人を追い落として生きているの。妾が法となって導かねばならない存在なの。法は妾の愛で、天下は妾の家なの。天下の民は妾の家族なの。妾の大切な妹につけこまないでちょうだい」
衡交家は黄金比の笑顔で水廌家へ向き直った。
「残念。どうあっても、新政権に協力してくれないと。ならば、開戦だね」
言い終わるが早いか、衡交家の腕がぶれた。
李翰が水廌家の襟を銜えて跳び退るのと、毒塗り鏢が地を抉るのは羅一枚の差もない。
二者のはざまへ娘子軍がなだれこみ、衡交家を守る壁として散開する。
娘子軍の目は、幻覚を見ているように混濁している。しまった、蘇摩酩酊者を、すべて排除できていなかったのか――あるいは、あらたな被害者か? どちらにせよ、李翰にできるのは、繰り出される槍をかわすことだけだ。
衡交家が走り去っていく。娘子軍を早急に片づけなくては逃げられてしまう。李翰が反撃に転じようとしたとき、
「李妹、待て!」
水廌家から制止がかかった。
吶喊の勢いを殺す肉球が摩擦熱で焼ける。その臭いを感じながら李翰は吼えた。
「なぜ!」
「後宮人は、みな妾の家族よ! 傷つけるなんて許さないわ!」
李翰は、水廌家の常軌を逸した人情家ぶりにあきれ果てた。
「何を甘いことを! だから後宮の主になれないんだよ!」
と李翰が一息にまくしたてようと、肺を膨張させたときだ。
視界に、揺らぐ赤光が映った。火だ。娘子軍はこれみよがしに松明を振り回してきたのだ。ふざけるな、火だと? 懼れるものか。獣でもあるまいし――? あれ?
「ちょっと、妹々! どうしちゃったのよ!」
考えるより先に全身に委縮が奔る。ああ、獣って本当に火に弱いんだなあ……。槍が繰り出される。それでも脚が動かない。
「――貘! 貘ったら出てきなさい! 聞いてるの! 出てきて加勢なさい、こんな時にどこ行っちゃったのよ!!」
水廌家の悲鳴が聞こえる。しかし幸運は起こらない。
(こんなことなら、水廌家の首根っこを齧ってでも衡交家に帰順させておけばよかった!)
槍は正確に、李翰の目に向かってくる。柔らかい眼球から刃が脳に達すれば、さしもの豹も息絶える。李翰は首を動かすことすらできずその瞬間を待った。
槍が体を穿つ。
穿たれたのは李翰――ではなく、その眼前で揺れる黒衣。
穿たれた黒衣の肩越しに、緩慢に倒れていく兵の首筋には、銀色の繊光。針にやられたのだ。
「愚かな弟子よ、大事ありませんか」
懐かしいすまし声とともに、脩身家は黒い吹箭(=吹き矢)をおろして黒襌衣の袖をととのえ、粛然と近づいてきた。
「夫子こそ大変なことになってますよ? 腹に槍が刺さって……」
「天、徳を予に生ぜしならば、賊人、予を如何せん」
――問題ありません、死なない。
活屍の脩身家は、最高に頼もしげなすまし顔で、腹から槍を引き抜いた。かよわい吹箭などで相手がばたばたと倒れたのは、針に毒を塗ってあるからだろう。ん、毒?
「鴆毒は回収したはずじゃ……?」
「子はきっとご存じないでしょうね。麟の火に焼かれる前の塢は、まこと鳥の国だったのですよ。常緑の雨林に千万の花鳥。それはそれは美麗な地――」
それ、前にも聞いたような……
「といっても、箭鳥はとうに絶滅しており、予の前には、絶滅前にかき集められた箭鳥の毒を含んだ針がありました――」
この人一体、故国から何十種の毒を持ちこんで来たの?
李翰は期待に胸を膨らませてたずねた。
「ということは! 夫子の故国が鳥の国ってことは! すなわち夫子は鳥の専門家! 〈天上蜜〉を運び去る鳥を、後宮へ呼び戻す秘策があって駆けつけてくれたんですね!?」
白眼の脩身家は言った。
「鳥を操る? 蝕の日時を一日違えず当てられるこの時代に、鳥を操る? 鳥と会話でもするのですか? 滑稽の極みですね」
人にすまし顔を向けていい時といけない時がある。今は後者だ。李翰は場を弁えないすまし顔にカチンと来て豹毛を逆立てた。
「何のための鳥要素なんだよ庸夫子! 設定破綻じゃないか!」
「まこと、子の心は虎狼そのもの。再教育の必要があるようですね」
豹は半狂乱で活屍に飛びかかり、活屍は無言で皓歯を剥き豹の頸に食らいつく。
「ぎゃっ!」「っ!」
二者を、鞭が乱打した。娘子軍とひとり格闘する水廌家が、髪を振り乱し、悪鬼の形相でこっちを見ていた。
李翰はひとまず水廌家と脩身家を背中に乗せて逃げ、安全を確保した。
◇◇◇
「土地を枯らす劇薬、ですか。もとよりそう説明すればよいのです」
事情を把握した脩身家は、すまし顔で言う。
「よいですか。これは刺客業も軍隊も同じですが、戦力たりうる毒とは、飼い慣らされたものでなければなりません。毒は、常にその解毒剤と一対で動く」
毒遣いの脩身家の目が、少し楽しげに輝いた。
〈天上蜜〉の威力を制御するために、衡交家と耕穡家は対処剤を所持しているはずだ。それさえ押さえてしまえば、ふたりの王位簒奪計画は破綻する――
「どこにあるんだよ〈対天上蜜〉剤は!」
討伐軍から隠れながら、またしてもはずれの扉を開けた李翰は悲壮な声を上げた。
「夫子も探してくださいよ!」
脩身家は最初から探す気すらなく、自国を滅ぼした麟国の後宮が燃える壮観を肴に、血の匂いで腹を満たしている。機嫌がよすぎて良い声で古典を吟じてすらいる。
さっき李翰と水廌家を助けてくれたのは、浩蕩王暗殺の件で手心を加えてもらったことに対する脩身学的返礼だろう。ほとぼりが冷めたら、死体に紛れて後宮を出て行くに違いない。
「夫子ってば!」
「無駄よ」水廌家の乱れ髪には煤が降り積もっている。「よしんば対処剤が目の前にあっても、門外漢の妾たちには判別不能。既に搬出して国内の要所に配備されているかもしれなくてよ」
熱波と煤煙が肺を灼き、疲労がかさましていく。
近づいてくる討伐軍の足音から逃れるように、物陰から物陰へ、捜索を続ける。後宮は一歩裏手に入ると迷路だ。角を曲がる。右へ、左へ。
だがやみくもに走るだけでは禍を避けることはできない。とうとう追っ手に挟まれてしまった。
背には瓦礫と炎。退路がない!
再び炎に足がすくみ、目の前が紫になる。え、紫?
「ふぉふぉ、お困りのようじゃのお」
ひとしきり紫の暴風が吹き荒れると、追っ手は、残らずなぎ倒されていた。
「貘! 今までどこにいたのよ!」
水廌家が紫霞の魔魅に涙声で苦情を入れているが、この変事、悪夢を食らう貘にとっては至上の夕餐だろう。美味しすぎるのであちこちつまみ歩いていたに違いない。
「しばらく見ぬうちに、随分愉快なことになっておるのお」
「いやあ笑うしかないですよね」
「笑うと言えば、あの、笑顔がただならぬ女子と、たくましい女子が、王殿に何かを運び込ませておったぞお」
王殿――王の後宮での寝所か。
今回の討伐軍の入城の目的は、王を救うため。破壊の火は、あそこだけは避けていく。
そうか、〈対天上蜜〉剤は王殿にあるのか!
「拙老はくちくなった。食後の運動に取りかかるとしようかのう」
「魔魅なのに、後宮の存亡を気にかけてくれるんですか?」
「しかり。拙老にとって、麟後宮とは魚にとっての水に同じ。どれほどすさんでもよいが、失っては拙老も生きられぬ」
こうして、好好爺然とした魔魅が戦列に加わった。




