五章 後宮炎上-4
刑宮は人ひとりとてなく、めぼしい調度品は壁画に至るまでこそげ取られていた。
偽王の潜んでいた衣裳櫃も覆され、血痕が転々と外へ続いている。
李翰は足に絡む簡冊や布帛を散らして進む。
貴重な裁判記録や、帳簿だろうに……
それを見ていたとき、ふいに浮かぶものがあった。
耕穡家の作った戸部の帳簿の収支が何かおかしい。と思っていたが、あの些細な違和感がいまなら説明できる気がしたのだ。
後宮の支出は莫大。食費、服飾費、消耗品費、俸禄。戸部の帳簿では、それらが毎月ほとんど変わらず推移していた。
毎月ほとんど変わらず? そんなことがあり得ると?
――食費だ。どうして食費の増加が計上されていないのか。
後宮では食料はほぼ自給、昨今の不作によってそれが叶わなくなっていた。備蓄も切れているらしい。
思い起こせば、不作は余月の中旬頃から起きていた。
その前後から城外での買い付けに段階的に切り替えていたとすると、余月、皐月、且月と経つうちに購入費が増大してくるはず。戦国続きで市井の穀物は金銀より高い。それなのに、それが帳簿に現れていない。
また粉飾か?
いや、もっと道理にかなう推測がある。
耕穡家は城外にも圃を作らせており、そちらの作物の収穫は滞りがないのだ。後宮は封鎖されているとは言っても、物資の搬入くらいは行われている。
つまり、城外では今年、農作物の不作なんて、起こっていない。
不作は、不可解なことに、後宮内でだけ起きていた。
思えば――人の諍う気が農作物の生育に影響する、なんて、言っていたのは、耕穡家だけ。人の諍う気で不作になるなら、王城の中も外も等しく不作のはず。二百年近く戦国なんだから――
答えに行き着いた李翰は、喉が締め付けられるような息苦しさを感じた。
「……耕穡家が開発したのは、生物兵器だ……」
「何ですって?」
「後宮の草木だけが急激に枯れたのは、〈天上蜜〉の実用試験に使ったからだ!」
意識を研ぎ澄ませて追うと、耕穡家と偽王の匂いは混ざっていた。
耕穡家が連れ去ったのだろう。
だが、王の匂いは途中で途切れていた。どこかで水にでも落とされたか――と付近を探っていくと、井戸に蓋をしている耕穡家を見つけた。
「――耕穡家! 貴家を逮捕するわ」
鋭く発した水廌家に、現行犯の耕穡家は手に着いた煤を払う余裕まで見せた。
「王を傷つけた罪かあ? 安心しろお、こいつは浩蕩王じゃねえ。兄者の皮をかぶった偽もんだあ。おらっちがいま退治してやった」
王の正体を苦もなく看破された水廌家は、満面朱を注いで叫んだ。
「お黙り女囚。そんなことより耕穡家あんた、蘇摩由来の、作物を枯らしつくす毒で大地を汚染し、菜果を高騰させて利をむさぼるつもりね!」
「だから水廌家には任せておけねえんだあ」
耕穡家は女王の貫禄で断定した。
「水廌学者は重農を掲げてっから期待してたが、口だけだっただあ、結局は賈人ばかりが私腹を肥やし、農耕者は割を食う。それじゃいけねえんだあ」
耕穡家は王というより、蘇摩によって人に罰を下す神のようだ。
「寒村から上京して正式に公主となった日、おらっちが考えたのは、麟を、耕す者が重んじられる国にすることだった。兄者には何度も遊説したもんだあ。だが、ある時から、兄者が使ってる薬の種類が替わった。まるで、処方される人物ごと変わっちまったみたいに」
後宮は自給自足。太医院の生薬も例外ではない。そのため耕穡家は後宮内で使われる生薬の消費量を把握していた――それで異変に気づいてしまったのだ。
「このご時世だあ、王の枉死は驚くに値しねえ。へたに公表されなくてありがてえとすら思っただあ。兄者に子はねえ。余所から新王を迎えれば、長公主のおらっちたちはよくて僻地の離宮行き。もう政事に関われねえ。理想の国を作るまでもう少しだったんだ。皆には感謝してる。貘を含めてなあ。皆がちょこっとずつ時を稼いでくれたおかげで、〈天上蜜〉は完成した」
「よくも――」
「蘇摩は今では、原産地ですら希少なんだと。蘇摩が――月宮草が、どうして数を減らしたか、知ってるかあ?」
と、ふいに耕穡家はそんなことを問いかけてきた。
「栽培してみて理解した、あれは栽培されなくなったんだ。蘇摩の生じた地には、蘇摩以外の草が育ちにくくなる。神草を憚り、百草おのずから退く、なんて謂われもあるが、ありゃ嘘だ。草木ってのは、大抵、青々した色をしてるだろ。色のない草は大きく育たねえ。おらっちは思った。あの色が命なんだ。草木の持つあの色こそが、草木を育む鍵なんだ。
蘇摩に触れると、草木はだんだんと色を失う。しばらくすると、しぼんで枯れちまうんだあ。おらっちはすぐさま、方針を変えた。月宮草復活譚で一山当てるのはやめて、この画期的な除草剤で長く手堅い収入を得る方になあ」
耕穡家は目をきらめかせて言った。この人ほんと貨殖大好きだな。
「おらっちは早速、除草効果向上のため、蘇摩液の濃度を高めることを考えた。香水という、西域の化粧品の作り方を応用して、蘇摩酒を、火がつくほど濃くして、土地に撒いた。半年経とうが草っこ一本さえ生えなくなった。草が生えねえから、鳥獣も寄らねえ。すると土地が痩せる。土が痩せるとますます作物が実らねえ。土は死ぬ。おらっちは思った。これはもう除草剤じゃねえ、兵器だと」
知らず、李翰は震えていた。
耕穡家への恐れはつねにあった。だがその理由がいまわかった。
耕穡家とは、天と地のあわいに存在する全ての生命の敵だ――
「実りは財。実りは生命。作物の収量の管理者は、全てを掌握する。豊かさも、兵の強さも、生存が許される人口の上限もだあ。おらっちは、史上初めて、その管理者になる」
李翰は想像した。〈天上蜜〉を散布された敵国の大地は割れて砂と化し、食料は枯渇する。
数年は狩猟や交易で持つかもしれない。だが財はたちまち流れ出て、人が去る。禽獣の死に絶えた林野と魚が消えた河川は、沃土を海へ送らない。東は生気のない海、南は密林と瘴気の沼、北は凍土。西方との貿易には麟の土地を踏まねばならない。
事実上、戦国の世は終了だ。
「早晩、洪鈞の諸国は、食料を求めて麟に臣従し、朝貢してくる。麟はその返礼品に、農作物の種と天上蜜に汚染されていない土地を下賜してやる。どんな名剣でも争いは止められねえ。昔から言うだあ、人の心を制するには、その胃袋を掴むんだ。これが耕作者がもっとも重視される社会。農業朝貢体制だ」
これ以上最悪な胃袋の掴み方があるだろうか。
いや。まだ望みはある。耕穡家をねじりあげて〈天上蜜〉の場所を吐かせる。〈天上蜜〉は後宮で開発されたが、後宮は最近ずっと封鎖されていた。ならばまだ宮中にある可能性が高い。それを回収すれば。それはどこだ、ああ、うるさいな、何の音だろう、頭上から聞こえるのは。
李翰の頭上には、相変わらず火災の煙がたなびいている。煙?
天を仰いだ李翰の睛は、ついに真実を捕えた。
なんてことだ。耕穡家の長話はただの時間稼ぎだ。
空に響く羽ばたきが今更にうるさい。煙と思っていたものは、鳥の大群だ。戦慄に豹毛が太く膨れ上がる。
早く止めないと、大変なことに――!
駆け出す李翰の背中に、耕穡家のどっしりした声がかかる。
「みな、耕作者のありがたみを知ればいいだあ」
◇◇◇
「西域の聖典・最古の韋陀によれば、蘇摩を天界から持ち帰ったのは鳥なんだそうだよ。翼を備え自由に国境を越える鳥たちほど、〈天上蜜〉を運ぶのにふさわしい者はいない。そう思わない?」
囿苑にいた最後の鳥を飛ばし終えたその女は、悠然と振り返った。
その睛は紅く澄んでおり、酩酊者にありがちな混濁は見られない。
李翰は、臓腑は感情で焼け付くのだと知った。憎悪という言葉の意味を、いまこの時、焼けただれる臓腑をもって知った。
「冥獄に落ちろ、鬼締……!」
「嬉しい。やっと僕の名を呼んでくれたね、李君」
遅かった。李翰は足から砂になっていくような脱力に襲われた。
耕穡家と衡交家は、鳥類を媒介にして〈天上蜜〉を散布した。全ての鳥籠は空。蘇摩は無差別に地上に降り注ぐ。どうしたって回収しようがない――
「運命を感じるね、李君。君と知り合ったのも、囿苑だった」
囿苑になんか、行かなきゃよかった。とは李翰は思わない。
時を百度戻しても、百度、李翰は衡交家と手を結ぶことを選ぶ。それがあの時の最善だったからだ。
けれど、衡交家にはいかなる感情も向けてはいけなかった。衡交家はその感情を利用する。突然後宮に押し込まれて、よりどころを求めていた李翰の心を見抜き、転がした。
「途中から気が触れていたのは小才のほうだったんですね。あやうくありもしない友情で情死するところでした」
「恥じることはないよ。僕ら衡交学者は人と人とのつながりを研究してる。人をいかに思い通りに動かすか、ずっと考えてる。誇っていい。最近はずっと李君のことだけを考えてた。李君は豹だから、うまく意図した時期にお別れして冷宮に送ってもらえるか、文字通りの命がけだったよ。興奮で脳が融けるかと思った。人の涙は飽きるほど見たけど、豹の涙は初めてだったよ。気づいてた? 僕があの時楽しくなりすぎて途中で昏倒しちゃったの」
なんて甘かったんだろう自分は。
衡交家はある程度、あのあふれんばかりの狂気を、悪意を、理性の管理下に置けるのだ。狂人が演じる狂悖の演技なんて、見抜けるわけもなかったが、そこを見抜けなければ、後宮では生き残れない。
衡交学者を衡交学者たらしめるものは、均衡感覚。衡交学者を名乗る者が、蘇摩に溺れるわけがない。正気を失うほど何かにのめりこめるわけがない。
どこの世界に、友愛のもつれで刃傷沙汰に走る衡交学者がいるだろうか? 復讐心から心を病み、次々に敵対者を冷宮送りにする衡交学者がいるだろうか?
衡交家が起こした復讐劇と。華公主権限で行った、不当逮捕をはじめとする後宮粛清のすべては――この夕べのために。
理想の後宮運営に必要な人物だけを冷宮で保護し、この血の夜をやり過ごさせるために。
火炎に翻る衡交家の、陽気な柄の捺染衣を、李翰は睨みつける。
衡交家の感情とは、本人の好む捺染装そのものだ。
型紙を付け替えるだけで、同じ仕立ての衣が、全く別の印象のそれになる。そんな捺染の気軽さで、衡交家は狂気と友愛を着こなす。
どんな型紙を乗せても、衣自体の仕立ては変わらないように、変転するあらゆる感情の下で、風のような衡交家の本質は、いささかも揺るがない。




