一章 白昼の略取-3
「さて、李氏におかれては、これよりご随意に後宮内を遊説されるがよい。そのためにまず、この麟後宮の流儀を、ちとお伝えしておこう」
李翰の緊張をよそに、悠然と莫が茶杯を傾ける。
「かつて公主たちは、淑だの寧だのすこぶるのんびりした称号で呼ばれておったそうな。じゃが、麟公主たちは、おのおの確固たる思想を持つ。それゆえ各公主は、それぞれの所属学派の名で呼ばれておる」
干戈の音止まぬ春秋の巡りの中で、人々は間断なく思考した。
それが不安定な明日を生き抜く唯一のすべと信じて。論は撃ち合わされ、止揚され、幾筋にも分化し――とうとう時代は、諸子百家の全盛を迎えていた。
王たちが国境線を争うように、諸子百家は思想上の覇権を巡って遊説する。後宮においても例外ではない、ということか。
「例えば、あの意思のはっきりした碧眼の女子は、水廌家じゃ」
「あの大富豪が、曹氏? 大貴族の?」
李翰は声がうわずるのを感じた。
水廌学といえば麟における国学。法による国家統制を至上とする。国家の支持を受けた学問の権勢は、国土の四分の一を占める治外法権の荘園領によって現される。
代々、麟王家と婚姻を繰り返す生来の特権階級にしてみれば、最弱思想家の存在は、まさにお目汚し。あれほど熱心に、李翰に罵詈雑言を投げて来たのも頷ける。
続いて、莫の如意が窗下を示す。
「あちらで白馬と話をしておる女子は戎家じゃ。戎家の主義は尚武。幕下の娘子軍は軍紀厳粛。後宮の頼もしい守護者じゃ。みな畏敬を込め、司馬将軍、と呼んでおる」
主人に代わって白馬が嘶いた。室内で馬って、貴人には普通なのかな。
「お次は耕穡家じゃ。主義は重農。ゆめゆめ耕作地を迂闊に歩むでないぞ、苗を踏んだ者は水汲み千回の刑じゃ」
さきほど膊を掴んできた陶器色の肌の女子は、庭園の水場を利用して熱心に葱の皮むきをしている。
そういえばこの庭園、異様に土の面積が多い。庭園じゃない。耕作地なのだ。庭樹も実用的な果樹ばかりだ。
室内で馬に乗ってるやつがいる後宮の花園が、農地に転用されているくらいでは、李翰はもう驚けない。
時に、と莫は茶杯を置いた。
「李氏、爾は後宮の機能を何と心得ておる?」
「王寵を競って愛憎事件を多発させ市井の小説家に飯の種を提供して下さることです」
「爾の学派もなかなかに業が深いの」
ふぉふぉ、と莫は笑う。
「王家の血統維持――それも、後宮の重要な存在意義ではあるじゃろう。なれど、拙老ら長公主の課題ではない。兄上である浩蕩王はお独り身で、お子も無い。ゆえに拙老ら妹どもが陰ながらお支えしておる」
「お支え、とは?」
「麟後宮は、第二の外朝(政治区画)じゃ。各公主に役務が振られておる。外朝の六部になぞらえ、内六部と呼んでおるな」
六部といえば、国事を司る六大機関だ。
序列の順に吏部(人事)、戸部(財政)、礼部(教育、祭祀の管理)、兵部(軍事)、刑部(裁判と刑罰)、工部(土木工事)からなる。
その後宮版ということか。
「刑部の尚書(長官職)には水廌家。戸部尚書には耕穡家。兵部と工部は業務重複が多いゆえ戎家が両尚書を兼務。反対に、礼部は業務量が多いため脩身家と星躔家が二人で尚書に当たっておる」
向かいに掛けたすまし顔の少女が非の打ちどころのない礼を返してきた。箱を斜めに切ったような形の冠に黒尽くしの衣服。市でもよく見る脩身家の表徴だ。
となると、隣のすらりとしたほうが、星躔家か。白くもの憂げな指に、奇妙な夜空色の石の指環が光っている。
礼法にこだわる脩身家と、天文を観察して予言を行う星躔家は、礼部の長に適任だろう。
「最後に、この莫谷神が吏部の尚書じゃ。尚書職の公主は、特別におのが宮を与えられ、その宮が各部の官衙を兼ねておる」
後宮の支配層に位置する有力公主。
それがこの場に集う六思想家の共通点のようだ。
「小才は、この後宮でどのようなお勤めをすれば?」
李翰の問いに、そうじゃのう、と莫がゆるゆると首を傾けた時だ。
身をかがめながら宦官が入室してきて、莫の前で中腰になった。
「華公主殿下に申し上げます。大王が遊説をご所望でございます」
「おやおや、かように日も高いというのに?」
間延びした莫の返事の中にあるのは、まぎれもない優越だ。恬淡としているようにみえて、莫も後宮人であるらしい。
この女人は楽しんでいる。声が掛からなかった他公主の反応を。でなければこの癖のある公主たちの中で、ひとりだけ〈華公主〉なんて呼ばれはしない。
たぶん華公主とは尊称だ――麟後宮で最も栄耀を誇る公主にだけ与えられる。
宦官は、恭しい姿勢をさらに縮めて訴えた。
「お急ぎを。大王は、華公主殿下のお越しを今や遅しと熱望されております。お待たせ申し上げると臣どもは斬られてしまいます」
「陛下の撤嬌にも困ったものじゃ。賢妹がた、拙老は先においとまするが、甘いものもたん用意してあるゆえ、ゆっくりしてゆかれるがよい」
扉が閉まる前に、莫はふと振り返った。
「これから仲良うしようぞぉ、小説家の李妹」
◇◇◇
莫の姿が見えなくなると、会話は途絶えた。
公主間の関係は良好とは言い難いようだ。性状が違いすぎるものな……。李翰は気を利かせて話題を振ってみる。
「こんな日の高いうちからお声掛けとは、王はよほど莫至人(胡蝶学者の敬称)を気に入られて――っ!」
鼻先をかすめたのは銀製の鞭だ。柄には神獣のぬいとり。
直撃したら骨折は免れない。
実際、辺りに鮮血が飛び散った。
真紅に染まったのは哀れな侍女だ。主人たる曹氏はなおも飽き足らない。侍女の首に、銀鞭が巻きついた。
「おまえ、よくも婢の分際で、妾に耳障りな音を聞かせたわね!」
李翰は思わず気が遠のいた。これが住む世界の違いか。
この水廌家・曹氏ときたら、李翰の口をつぐませるためだけに侍女を笞打ったのだ。李翰に直接言葉をかけないことによって李翰の存在を認めないのはもとより、水廌家にとり、侍女の命はその程度の軽さなのだ。
鞭が振り下ろされるたび、伏して赦しを請う侍女の声は細る。最後には動きがなくなり、運び出されていった。
「いやだ、服が汚れたわ。湯の準備は済んでいるんでしょうね!」
水廌家は新しい侍女の背を踏み台がわりにして八人担ぎの輿に乗ると、一同を一顧だにせず返り血の裾を翻して退出していった。
「あーあ、鏖殺公主にも困ったもんだなあ」
嘆息に振り返ると、耕穡家も葱束を抱えて席を立つところだ。
「あのう、水廌家はいつもああなんですか?」
葱をきしきし言わせて、退屈そうに耕穡家が振り返る。
「ああ見えて曹小姐はこの場の公主中で最古参なんだ。それなのに、華公主ではねえ。以下お察しだあ」
「でも、いくら実家が顕門だからって侍女を打ち殺すなんて」
これは李翰の失言だった。
侍女を平然と殺める義姉妹を止めすらしないこの連中に、この戦国に、人倫を持ち出すなど寝言もいいところ。
失言の代償は地を揺するようなすこやかな笑声だった。
「莫姐はおめえから学べと言ったが、小説家の論ってのは、からきし役に立たねえなあ! 無用の学だあ! 生産性のないやつ、おらっち嫌いなんだな!」
葱束を抱えて退室していく耕穡家を放心状態で見送っていると、こめかみをただならぬ風がかすめた。
おそるおそる目で追えば、壁に矢が突き立っている。蹄の音が遠ざかっていく。将軍の帰路を塞いだ李翰が悪い……のか?
断言できる。
このまま放置されたら、この宮を出て三歩で死ぬ。
すがる思いで、退出する脩身家を捕まえる。
「脩身家! 脩身家は仲良くしてくれますよね! 脩身学は愛の学問ですもんね!」
冠から沓まで黒づくめの脩身家は居住まいを正して向き直り、
「小説家は城談巷語し道聴塗説するの徒なり。遠くに致すには昵むを恐る。是を以て君子為らざるなり」
歌が上手そうな美しい発音でどギツい拒絶を放ってきた。
「儍が伝染るから小説家とは関わらない? それ、愛じゃないよね? 身を修め、人を治めることが、幸福と平和をもたらす――秩序平和人間愛。それが脩身学者でしょ?」
「徳なき者は人にあらず。子におかれましては、すみやかに公主の位を禅譲なさるがよろしかろうかと存じます」
禅譲……? この単語、ふだん使いする人を初めて見たよ……。
「禅譲――徳のある者に位を譲る。これは考え得る最高の徳です。子が一日も早く徳に開眼されますよう衷心よりお祈り申し上げます」
誘拐からの殺人現場目撃、人格否定、お祈り、と続く滅多打ちに、百家最弱の神は肉体を支えきれない。
李翰は床へよろめいた。
と――肩を分厚い腕で力強く支えられた。
「気に病むことはねえ、小説家! 脩身家のやつは自分以外、みんな徳なしだと思ってんだ! 君子を気取るなら、まず自分が公主を降りて故郷に帰ったらいいんだあ?」
李翰を支えてくれたのは、退出したはずの耕穡家だ。
なるほど、方才の生産性云々の暴言も、李翰の失言で緊張した場を和ませるための深慮だったのか!
脩身家は不徳の連中に軽蔑の一瞥を寄越し、脩身学者の礼法である音楽を喉から美しく奏でながら去っていった。
対してこの、耕穡家の、李翰に対する友好的な視線はどうだ。
後宮に来て初めて、人の温かみに触れた百家最弱の目元は熱くなる。
涙で滲む視界にぬっと現れたのは、情愛には程遠い小瓶である。
「小説家あ! さっき顔見て気づいたんだが肌荒れが酷え! それでおらっち、ええものを持ってきたあ、保湿にはこれだあ!」
耕穡家は〈戸部謹製〉と彫られた綺麗な小瓶を自慢げに紹介した。
「この、百草からなる化粧水は! 後宮で完全限定栽培された草木のみを厳選使用した! 弊部自慢の一品だあ!」
「わあ、いいんですか、感謝です」
「今なら春期限定あしらいの奩(化粧箱)もつけて、入宮応援絶対安心価格で、初回限定、九千九百八十銭! もう分割払いでいいだあ!」
市で干し肉が千束買える値段だ。
絶句している李翰に、訳知り顔で耕穡家はうなずいた。
「なんちゅう思慮深さだ! そうそう、こういう、水を多分に含む化粧品類は、高いばかりでこれからの季節すんぐに腐る。やっぱり市井出身者は慧眼だなあ!」
「どうして小才の主食が黄巻で、橋の下暮らしだと?」
「疑いようがねえだあ、喋り方も身のこなしも、おらっちと同じで土くせえ。そんな同胞のおめえにこそ伝えてえ。
今日ご紹介するこの品は、徹底した製造工程の清潔指導によって防腐効果従来比三倍、薄荷の採用により肌爽快感五倍、春黄菊がもたらす透明美肌効果は美白部門で六期一位、女子御用達・月宮草の招福効果で喜びの声多数、宮中支持率九割(戸部調べ)獲得に成功したあ!
これ一本で保湿と日焼け止め、化粧下地効果を完備、目利きの小説家にこそ使って欲しいお品だあ! もう分割払いで構わねえ!」
耕穡家はさぞ優秀な戸部尚書に相違ない。
初めに李翰の腕を掴んだ時、懐の銭の音を聞いたんだろう。生産性のない李翰の、なけなしの生活費すらをも巻き上げるこの行動力、もう誰も信じられない。
李翰が貧相な語彙で断りを入れていると、ふと視線を感じた。
首を回すと、星躔家が席に着いたまま、じっとこちら見ていた。
星躔家とは星見の予言者。
その口が、おまえ死ぬぞ、と動いたような気がして、李翰に残っていた最後の社交性は完全に折れた。
もう一刻たりともこんなところにいたくない。
李翰は游仙宮から走り出た。
逃げ場所などどこにもなかったのに。




