五章 後宮炎上-3
月光を頼りに、騒乱の大きくなる方へ駆けた。
後宮人は、突然踏み込んできた武装者たちに集められていた。抗いの果ての血だまりがあちこちに広がっている。
今また一人、抵抗する女官に、剣が振り下ろされる――直前、李翰は豹変して兵士に挑みかかった。
「後宮に帯剣して踏み込むとは、血迷うたか!」
喋る大豹の姿は、人を怯ませる――はずだったが、兵には気骨がある。胴体を踏まれながらも戦意を失わない。
「毒婦に飼い慣らされた卑しい獣め、私の屍の先に莫討伐は必ず成就する! 大麟万歳!」
なるほど。どうやら外朝は、王を惑わす莫に腹を据えかね、後宮に禁軍を差し向けたらしい。王は政治を放棄し、二年以上も後宮に入り浸り。討伐の名目としては十分ありそうだ……って、
(莫討伐? 今頃?)
莫は二月も前にとうに無力化されている――いや。庸夫子の急死以来、犯人捜索のため、後宮はずっと封鎖されていた。先日、蘇摩酔い重症者を水廌家荘園領に移送した時も、水廌家は情報を統制しただろう。外朝の兵が封鎖以後の後宮情勢を知るわけがない。説明してあげないと。
「あのー兵士の方、莫氏はすでに倒されましたよ」
「現実逃避はそのくらいにしておくことね」
冷やかな宣告は、李翰の背中に乗った水廌家からだ。
「後宮の塀の外にいる者にしてみれば、後宮への出入は突然封鎖され、二月以上も封鎖されたまま。これだけでも異状なのに、その間、後宮内では火事から戦争まで起きたのよ?」
往来は遮断されていたが、後宮内火災の火柱や騒音といった異常は、外部からでも察せられたことだろう。
「後宮内の治安維持は、戎家・司馬戦の所管。不審な煙や騒音や長引く出入封鎖は、戎家一門の管理能力を疑わしめる。しかもそのころ、司馬戦は脩身家の遺体損壊と継嗣殺しの容疑で投獄され、実家である戎家一門と連絡が取れなくなっていた」
後宮の長い混乱が、司馬戦の資質の問題だと外朝では誤解された。そうこうするうちに、司馬戦が王の子を妊娠した脩身家を切り刻んだという噂が、どこぞの公主の息のかかった宦官あたりから流れてきたかもしれない。確かめようにも否定しうる証拠を持たなかった外朝戎家は、政治上の立場が日増しに悪くなっていった――?
「禁軍を管理する戎家一門の卓越した武力は、いったん不祥事が起これば、そのまま体制を揺るがす危険な力と見なされる。進退窮まった外朝戎家は、王へ取りなしを求めたでしょうけど、王は王で、後宮に籠もりきり――」
後宮人が内訌しているうちに、外朝の戎家一門は、他学から崖の縁まで追いつめられていたのだ。
「もしもそこへ、王から、倒莫の救援要請の密書が届いたら?」
毒婦が後宮を荒らし、苦慮している、助けてくれ、と王が救いを求めてきたら?
「莫びたりの偽王がそんな文を書くわけがないですけど」
「密書が実際は誰から送られてきたかなんて問題じゃない。莫討伐は、外朝戎家にとって魅力的だから。司馬戦の継嗣殺害の嫌疑を完全に払拭するには、別の犯人が必要。外朝戎家は、莫に全ての汚名を被らせる腹なのよ。たとえ莫がすでに無力化されていたとしてもそれは変わらない」
「討伐軍なんて引き入れたら、偽の密書を送った策謀者だって、斬られちゃいませんか?」
げんに討伐軍は、後宮人を無造作に踏み荒らして遠慮がない。
水廌家の手が李翰の毛皮に食い込んだ。
「それで、自分はあらかじめ捕まっておいたのよ。どこより安全な、しかと鍵のかかる場所にね!」
鍵のかかる場所?
李翰は世界が逆転するのを感じた。
討伐軍は、後宮の悪を除きに来た。悪とは何か。戎家出身公主・司馬戦に罪を着せ、冷宮に繋いだ後宮の専横者だ。
とすれば、討伐の線引きは、冷宮の収監者か否か。討伐軍にとって、冷宮の囚人たちこそが、救い出されるべき正義。獄外の者はことごとく邪の追従者なのだ!
李翰は屹立する陰気な冷宮を見上げた。罪人を繋ぎおく檻は、そのまま犯人を、討伐の戮殺から隔てる要塞に変わっていた。
たぶんそれが、諸子百家にとって最高の賛辞であると知りながら。
安全圏でこの惨劇を見ているだろう人物のいる冷宮に向かって。
水廌家は血を吐くように発した。
「この、策士……!」
◇◇◇
救いのないこんな夜は、とっとと逃げるべきだ。それなのに。
「何としても後宮から兵を引かせる。それでこそ、この策を練った者の学問よりも、妾の学問が勝ると天下に証明できる」
名門めんどいな。小説家でよかった。
李翰は迷わず逃走を選ぶ。宮墻まで走ってから、良く考えると自分も後宮から脱出すると毒が回って死ぬことを思い出した。
「こんなことなら夕餐の肉をおかわりしておくんだった!」
後宮に兵が踏み入ることは、通常考えられない暴挙だ。どうしても踏み入るのであれば、罪は必ず功で上塗りしなければならない。
功を求める討伐兵は、莫の行方を捜索する。じき、莫を名乗っていた魔魅が、今度は別の公主に憑いていると聞き及ぶことだろう。
水廌家は首を狙われる。水廌家の乗騎である李翰も。
「妾は首をくれてやる気はない。もちろん李妹の首もよ。腹をくくりなさい」
水廌家の曹氏と戎家の司馬氏は麟政の二大勢力。片方が脱落すれば、国は思いのまま。水廌家出身の公主が後宮を傾けた魔魅に憑かれている、なんて知らせは、戎家一門には名誉回復と政敵失脚を同時にこなせる天与の機会に映るはずだ。
「策謀者は戎家一門を徹底的に利用し尽くすつもりよ」
追い詰められ、利用された戎家一門が、その事実を逆利用しようする足掻きさえ、策のうち。悔しいが、策士は数歩先を行っている。
「まずは司馬将軍の身柄を確保よ」
「質子にするんですね」
「司法取引よ。司馬一族の官禁品密輸の罪に手心を加えるかわり、討伐軍を引かせる」
だが、司馬戦が蘇摩を密輸した証拠を探している余裕がない。その不正資金で開発したという兵器の実物を押さえられれば、揺さぶりようもあるが。
「司馬将軍が不正資金で作った兵器とは、何なんでしょう?」
「それを突き止めるのが、李妹の爪と牙じゃない!」
◇◇◇
討伐軍は、後宮の制圧を優先させているらしく、冷宮へはまだ兵が回っていなかった。
冷宮最上階に辿り着いた水廌家と李翰は、愕然とした。
独房の中で伏した戎家・司馬戦と愛馬の周囲は夥しい鮮赤色だ。
「っ、先を越された……!」
司馬戦は今や後宮平和の鍵。司馬戦が死ねば、戎家が指揮する討伐軍は、さらに猛って後宮を蹂躙する。李翰と水廌家は、まだ策士に追いつけていない!
檻を握り潰して、牢内に踏み込む。血海に足下が滑る。
「お気を確かに! 将軍! 司馬将軍ってば!」
戎家は薄く瞼を開いた。しかし、すぐに閉じてしまう。業を煮やした水廌家が叱り飛ばした。
「将軍! 貴家の兵のせいで、後宮は壊滅状態よ! このまま斃れたら、貴家の一門を陥れた者の思うまま! それでもいいの⁉」
「……なんだと……?」
水廌家の叱咤で、戎家の混濁した睛に鮮やかな憤怒が点った。
「娘子軍で飽き足らず、我が一門までもを利用しようと言うのかあやつは……」
「教えて下さい、将軍の開発した兵器とは? そしてあやつとは?」
死にゆく者の決死の力か、赤い手がしかと李翰と水廌家の腕を掴んでいた。
「恥を忍んでお頼み申す。〈天上蜜〉を焼き捨てくだされ……!」
「〈天上蜜〉?」
「この二百年乱世を終結させる神威の兵器だ」
戎家は、死魔を追い払うように言葉を連ねる。
「ある時、絶滅草木の復活に協力してくれ、と耕穡家に請われたのだ。原産国から種を取り寄せてくれと。耕穡家は後宮の財務管理人だ。利の多い取引のはずだった。その草木が兵器開発に用いられていると知ったのは、ずいぶん後のことだった……」
「えっ、蘇摩が新兵器の材料なんですか?」
戎家は語る。蘇摩の別名を、西域では〈蜜〉とも呼ぶのだと。天上蜜という名はそれに由来しているらしい。
「それがしとて武人でござる。国防を担う優れた兵器の発明は喜ばしい。だが、武人には武人の節義がござる。あの兵器は――天意に悖る。それがしは開発中止を訴えた。だが、耕穡家は応じなかった。そうこうするうちに、それがしは、かりそめに潜入したはずの冷宮に繋がれてしまった……」
「なにゆえ妾に話してくれなかったのよ、刑部なら罪を暴けたわ!」
「――耕穡家は戦場にはおらぬ類の魔性だ。調練の落後者は、決まって戸部製品の愛用者だった。それに気づいて使用を禁じた時には、娘子軍全体に広がっていた。蘇摩には依存性がある、と、その時になってあやつはあの飾り気のない声で言い放ちおった」
後宮は自給度が高い。耕穡家の作物を口に入れずに暮らせる者は稀だ。
「どれほど酩酊者に治療を施し新兵と入れ替えてみても、後宮で暮らす以上、蘇摩に酔う兵は後を絶たなかった。耕穡家は、それがしが口外すれば、娘子軍への蘇摩の供給を絶つと通告してきた。安易に絶てば、死に至る薬種だ。やむなく――」
兵部は事実上、戸部の管理下にあった。
「惨ね。部下を人質に取られ、管轄部署を事件の実体隠しに利用されるとは」
刑官の水廌家の声はどこまでも冷たい。
「だけど貴家にもまだできることはあるわ、司馬将軍。今なお後宮を蹂躙している、ご一族の討伐軍に伝えなさい。後宮から除くべき病巣は、耕穡家・桑盈升だと」
それが減刑の条件よ。という言葉に戎家は縋るように頷いた。
「それで――将軍。〈天上蜜〉はどこに?」
「戸部の化粧品製造所でござる。もとよりあの地は〈天上蜜〉開発庫ゆえ。〈天上蜜〉開発の蘇摩濃縮過程で出た、精神高揚作用を含む水を外に流すわけにはいかぬ。そこでその余り水で化粧品やら健康食品やらを作っておったのだ」
李翰は息を呑んだ。
「その周辺、火災で燃えちゃいましたよ!」
戎家は刮目した。
「ではもう、〈天上蜜〉は完成しておるぞ……!」
あの火災は、違法化粧品の製造行程隠しなんかじゃない、兵器開発の証拠を跡形もなく隠滅するためだったのか――!
「移走先の心当たりは? 〈天上蜜〉の威力とは?」
「――貴様ら! よくも我が一門の大切な小姐を!」
しまった、詰問にのめり込みすぎた。
討伐軍の一団が駆け上がってきた。血海の惨状を目にした戎家一門からなる討伐兵の表情が、憎しみに黒く歪んでいく。
「誤解です、将軍を傷つけた犯人は別の誰かです!」
問答無用に、憎悪の鉄剣が振りかぶられる。
肝心の戎家は後事を託して安堵したのか、重たく閉じた瞼は開かない。こんなときに!
李翰は水廌家の襟首を銜え、その場から逃げるしかなかった。
討伐軍が冷宮最上階まで達しているとなれば、階下の全ての房は解放済み。収監されていた耕穡家の姿も既にない。
耕穡家を捜して駆ける後宮のありさまは終末的だ。
燻られて汗が噴き出す。庭木まで枯れ果てた後宮は、どこも絶好の火種だ。
「耕穡家め、許さないわ! 妾の後宮をこんなにして!」
「姐姐、耕穡家は〈天上蜜〉を誰かに売りつける気なんでしょうか」
「激怒した時に演じるのは難しいものよ。妾が焚きつけた時に見せた耕穡家の王女たる自負、あれは真実と見ていい。ならば、売買より、使用を選ぶ。〈天上蜜〉が話通り、乱世終結の兵器だというのなら、使用者は、洪鈞全域を初めて統一した者として、千年語り継がれる偉大な存在になれるのだもの」
偉大な存在?
はて? 我々は、なんか偉大にしとかないといけない人物の存在を忘れてないか?
「――ぬかったわ」
水廌家が血相を変えて李翰を揺さぶった。
「急いで刑宮に戻って頂戴、偽王が危ない!」
「うっ、耕穡家が偽王を抱き込んだら、専横し放題……」
「もっと悪い! 耕穡家は〈天上蜜〉の開発を功績に、自らが龍座に登る気なのよ!」




