五章 後宮炎上-2
耕穡家の拘留期限の日出時まで、あと三刻。
空は淡く白みはじめていたが、結局、月宮草は手に入らなかった。
李翰と水廌家は、じき浴びることになる敗北の朝光を、処刑の合図のようにうなだれて待つしかなかった。
「耕穡家があれほど沈着していたわけです。すでに証拠隠滅も済ませていたなんて」
というか、圃の整地、手伝ってしまっていた……
「許せない、妾が望んで手に入らない物が、この世にあるなんて!」
十代遊んでも使いきれない個人資産を持つ水廌家は、顔が紫で衣裳が不調和なばかりか、全身から紫霞をたなびかせている。不眠で貘の浸食度がまた上がっている。
李翰はおずおずと切り出した。
「姐姐の荘園領に人をやってみては? 水廌学派の荘園領といえば治外法権。公主の使用済み襪から、盗賊王の秘宝まで何でも揃うらし――ニャン!」
李翰へ投げつけられたのは鞭でなくて簡冊だ。
開けば、固有名詞の列挙。佐使薬に分類される劇薬の名も見える。これは……?
「荘園内の市に持ち込まれた全薬種の記録よ。ないの。月宮草の持ち込み記録はない。過去五十年分の荘園の月宮草の取引を浚ったけれど、一件たりとも存在しなかった……」
森羅万象が取引されると言われる水廌家荘園。そこで流通していない品なんてあるのか。
敗北の陽ざしは慰めめいて暖かい。日出の刻限だ。この件の捜査は終了する。
主人の無念を酌んだ侍女たちが、押収化粧品の山を室内から運び出していく。五色の瓶が朝日に照り映えてゆらぎ、床石に虹をかけるそのなんと美しいことか。
中身は全て同じ、人を惑わす毒薬だというのに。
中身は同じ――?
その瞬間、李翰の中に解明の光がよぎった。
「姐姐、小説家の中にはこんな奴がいるんです。そいつは恋愛物の脚本を書いているのですが、雑な性格で、主人公男女の名と、身分を変えるだけで新作として売り出すんです。でもなぜか、そこそこ客が呼べるんです」
水廌家は脈絡なく始まった李翰の怨言をじっと聞いていたが、やがて意を得たように頷いた。
「そういえば、妾も月宮草なんてものには、古書伝承と、耕穡家の圃でしかお見にかかったことがない。成程、そういうことだったのね――」
◇◇◇
「さあて、今日はどんなねだれごとを用意してきたんだあ?」
きょうも封禅の儀式を行う神さびた山のような大物感を放つ耕穡家に、李翰はたった一つだけ単語を告げた。
「蘇摩」
耕穡家は、お、というように相好をくずした。
その様子に、入宮して初めて、李翰は耕穡家の懐に入ったような感覚を覚えた。李翰は推測を確信に変えながら、続けた。
「耕穡家、あなたは伝説の月宮草を復活させたと言った。あれはいつわりですね。月宮草は大麟では絶えて久しい。詳しい形状を誰も知らないのを逆手に取り、あなたは大胆にも宮中で、月宮草と称し、別の作物を育てていた。西域由来の草木――蘇摩を」
「なるほどなあ」
「蘇摩草はそれ自体は無毒ですが、草を絞って出た液を発酵させたものは特別な酒になるそうですね。飲用者は、非常な高揚感に満たされる。原産地では、神酒と呼ばれて神聖視され、特権階級しか口にできないとか。それはもはや酒と言うよりは、ある種の覚醒薬だ」
「はずれだあ」
と、耕穡家はおかしそうに首を左右に振った。
「月宮草こそが蘇摩なんだ」
伝承を調べるほどに、月宮草と蘇摩草には類似点があった。と耕穡家は語った。
「月宮草には、麟王を生んだ女の伝説があるだろ。一方、蘇摩酒の守り手たる食香神夫婦は、結婚と妊娠の神でもあるんだあ」
「そんなの単なる偶然で――」
「類似はまだある、蘇摩は現地の支配階級である司祭たちの占有物だった。神を高ぶらせるこの液体は、祭式に使われる神聖な供物だったんだな。同じ時代の洪鈞でも、祭祀者をこそ、王に据える時代を迎えていた――たまたまの一致だと思うかあ?」
耕穡家は腕を広げて見せた。こうして見ると、筋肉だって少しも落ちていない。
「おらっちはこう思う。西域と洪鈞世界は地続きだ。ずっと昔、西の地を追われた者たちが、蘇摩の種を洪鈞に運んできたんだあ。新天地で、新しい国を作るためになあ。それが数百年の時を経て、月宮草と呼ばれるようになり、遺構から出土した。どうだあ、人の見果てぬ夢と歴史の悠久を感じねえか?」
同席の水廌家は、冷ややかなまなざしのまま取り合わない。
耕穡家は李翰に視線を移した。
「小説家、おめえにならわかるだろう? これは催料だあ」
耕穡家はどっしりとした土色の目で見据えて言った。
「国は税でできてる。橋を渡すにも税、施療院を置くにも税、戦や賊から領土を守るにも税。百姓はみな税を納める。後宮人だって国民だ、徴税の対象になるべきだ」
「だからって後宮を酔いつぶすことないじゃないですか」
「後宮戸部に就任以来、おらっちは財政緊縮に努めてきただあ。それなのに、公主どもときたら、年中、絹を着せ替えて食い散らかすだけだ。おらっちは花っこをむしって圃に変え、後宮運営費用に充当してきた。それが一度の茶会で吹き飛んだ時、おらっちは、倹約を説くのをやめた。気づいたんだあ、後宮人は、こらえ性のない生き物。だったら、それを利用させてもらったらええんだってなあ」
「それで戸部の販売物に蘇摩酒を混ぜはじめた?」
「蘇摩酒と化粧品の親和性は抜群だったあ。面白いように売れただあ。蘇摩が枯れてからは、在庫の奪い合いだったなあ。何でもするから化粧品を譲ってくれって殺到してなあ」
「衡交家も酩酊者だったってことですか……」
「あれは最も役に立つ顧客だったなあ。後宮を引っ掻き回してくれた。おかげで今日までおめえらは、おらっちに気づかなかった」
李翰は、出会ってから、どす不気味色の飲料をすすりっぱなしだった友のことを思い出した。あの飲料は……。
「なあ豹っ子よ、聞かせてくれえ」
李翰は知らず、豹変して耕穡家の腕に食いついていたらしかった。
耕穡家は動じた様子もない。牙が、抜けない。耕穡家が筋肉に力を入れたことにより、逆に捕らえられていた。分厚い掌が、豹の頭を覆うように降ってくる。
「銭のかかる奴から、銭を回収して何の不都合がある?」
静かな大地を思わせる声は、どこまでも正しく頭蓋に響く。
「おらっちは、生産性のない奴が嫌いなんだあ」
頭骨が軋んで音を立てた。握りつぶされる。
そう思った瞬間、紫霞が弾けた。これまで黙していた水廌家だ。
「――実に愚かだわ耕穡家。たかだか金銭で解決するお手軽な問題で、妾の後宮を踏み荒らしたというの!」
耕穡家は水廌家に視線を投げやった。市井出身の耕穡家は、たとえ己の眼前で李翰が人を喰らっても、きっとこんな侮蔑の色を浮かべたりはしまい。耕穡家の逆鱗に、水廌家は触れた。耕穡家の喉から聞いたこともない低い声が漏れた。
「吠えるでねえおひめさま。おらっちは母親こそ農婦だが、この後宮でただ一人の、先王の直系血族だ。華公主位争奪戦だあ? 好きにやってろ。おらっちはそんなお遊戯には興味がねえ。おらっちは、王族として、税収の確保という当然の役務を果たしただけだあ。ここはおらっちの城なんだからな」
外見こそ農婦のような耕穡家は、しかし誰よりも麟公主たる自負に満ちていたのだ。
水廌家は妖気で室内を紫色にして厳命した。
「誰かある! この後宮の最大敵を、冷宮にしかと繋ぎおけ!」
◇◇◇
人の想いは、余人の想像の外だ。
あの中立の耕穡家が、かように過激な意志の持ち主だったとは。
その事実は、李翰と水廌家をしてしばらく言葉を失わしめた。
思いに浸りつづけることはできなかった。耕穡家が去った戸部は混乱を極め、かつての主人の非凡さを、事態の収拾者に思い知らせる。
水廌家率いる刑部と李翰は、戸部の通常業務を肩代わりし、同時に事件の事後処理に忙殺された。
後宮の支出は莫大だ。後宮人の衣食住、どれも庶民が一生使うことのない桁数で連なり、毎月ほとんど変わらず推移している。
あれほど後宮の浪費抑止に心を砕いてきた耕穡家が、この全く代わり映えしない数字を毎月記入するとき、何を思っていたのか。
感傷を振り切り、作業を続ける。桁数に目が慣れてきた頃、李翰はあることに気づいた。
「おかしいな、どこか収支が合ってないような……」
「何を眠たいことを。後宮財政は万年赤字よ。耕穡家が違法作物の栽培に手を出すくらいだもの」
答える水廌家の腕は、八本くらいに見える。今や後宮の決裁事項がすべて、唯一機能する省庁である刑部に持ち込まれてくるのだ。
「でも、蘇摩酩酊者たちの証言を総合すると、耕穡家は、顧客の能力や身体、人脈を財とみなして的確に現金化してるんですよ。ざっと見積もっても、戸部は支出より収入の方が多いはず」
何それ、と水廌家は顔をしかめた。
「どこかに耕穡家の資金が流れてるってこと?」
戸部は帳簿を自在に操る。素人が全力を挙げて調べたくらいで、後宮を蘇摩酒漬けにした辣腕戸部尚書がたやすく尾を出すわけがない。
不都合な事実はすでに灰と化し、耕穡家は巌のごとく黙秘中だ。
「全くしぶとい女ね」
水廌家は憎々しげに紫霞を吐いた。
「姐姐が貴族ぶった発言で耕穡家をむやみに怒らせたからですよ」
「ああでも言わないと、中立気取りのあの女が本性を出しそうになかったもの。それに妾、後宮唯一の王族直系のくせにあくまで腰が低いあの性分が、前々から気に入らなかったのよ」
「姐姐って、すこやかに性格悪いですよね……」
「大体、あの女、月宮草――いえ蘇摩の種をどこから入手したのよ、絶滅種なんでしょ」
「古代の祭祀構から出土したって……」
「祭祀構、ね。あの時は喋らせておいたのだけど、妾も荘園持ちだから知っているわ。種は古いほど発芽しにくい。さらに麟の風土では、蘇摩は一回絶滅してる。育ちにくい気候の上に、発芽が難しい古代の種。これが正常に育つと?」
「耕穡家が栽培に用いたのが、出土した種ではないというのなら、どこから仕入れたと? 何でも揃う水廌家荘園の市?」
「言ったでしょう、妾の荘園には過去五十年間、蘇摩の種は出入りしてない。持ち込まれたのは乾燥した枝や花ばかりよ。蘇摩と同等以上の薬効を持つ草木は麟にいくらでもあるから、あえて生育の難しい蘇摩を、異国から取り寄せる利は薄いんでしょうね」
「姐姐。さっきから何が言いたいんですか?」
水廌家は憂わしい青の双眸を虚空に遊ばせた。おぼろな災禍の予兆を追うように。
「何百年も栽培が絶えている蘇摩草の危険性について知る者は、大麟にはほぼ皆無。農業の研究家である耕穡家が望めば、容易に後宮に持ち込める。耕穡家は更に用心して、国内の祭祀坑から発掘した幻の月宮草だと偽った。ここまでは盤石よ。でも耕穡家はここで困難に直面したはずよ」
蘇摩は西域原産。種は大麟国内では流通していない。手に入れるすべは交易だけ。
「西域交易の路程には、砂の海と氷の山脈が横たわると聞く。それを越えられる技術を持つのは、国内でも限られた、西域と境を接する麟西地域の者だけ」
耕穡家は、西域交易につてのある誰かに種の調達を依頼した?
「質問よ、麟西地域出身の公主は誰?」
◇◇◇
「耕穡家も考えたわね、戦国後宮で、どれほど金銭を割いても苦情が出づらいのは、軍事費だけよ。それを見越して、戎家と通じ、兵部に資産を蓄えていたのね」
帳簿によれば、兵部は毎年歳費を消化していることを理由に、毎年予算を拡充されている。また、戎家個人の出納を洗うと、実家からの仕送りとして、年の半ばに何度も、戎家個人に巨額の送金がなされていた。有力公主ともなれば、一門からの送金は珍しくもないので見逃していたのだが、これらが耕穡家の隠し金に相違ない。
「でも奇妙です、耕穡家も司馬将軍も質実剛健。上に立つ者の鑑みたいな暮らしでした。刀剣や馬を大量購入した記録もないし、浪費とは無縁に見えました。それなのに、後宮運営費数年分に匹敵する莫大な額が、溶けたように消えてる」
激情家の水廌家の顔には、表情がなかった。
「……妹妹、軍の最大の支出は、兵器よ」
「ですから、刀剣の大きな購入記録はないですよ?」
そうじゃない、と水廌家は無表情のかんばせを上げた。眼の色が肌まで染み出してるんじゃないか。そんな血の気の引いた唇が動く。
「耕穡家と戎家が、極秘に新しい兵器を開発してたんだとしたら?」
にわかに、李翰の野性が働いた。
何か臭う――そう感じた時には、窗に取り付いていた。
灰色の靄状のものが立ち上っていく――炊飯の煙か? まさか。もう胸焼けしそうな刻限だ。感覚を澄ます。異常な悲鳴と喊声、羽ばたきの音、蹄の音。
そして血臭。
「もう、今度は何が起きたのよ!」
水廌家は悲鳴を上げた。




