五章 後宮炎上-1
水廌家襲撃犯である下級公主二名は鴆毒で果てた。しかし、その前に別の毒にも中毒していた。
「血水から何が出たって言うんですか……?」
水廌家は嘆息し、こめかみを押さえた。
「決まってる。佐使薬の一種よ!」
水廌家の顔が紫のまだらにもなるはずだ。事態は最悪らしい。
洪鈞では、土塊から龍鱗まで、天上天下の存在物は全て何らかの薬用となる。と言われる。
薬には君、臣、佐使の三種の別があり、これを、国を統治するように、三種釣り合いよく服用するのが、もっとも理にかなった服薬法と考えられている。
佐使薬に分類される薬種は、三分類中もっとも効果が劇的ではあるが、長期服用すると体を損なうとされる危険な薬種だ。中には、極めて依存性が高く、高揚感や幸福感、幻覚をもたらし、正気を奪う薬がある。国を損なうとして、麟はその種の薬種の製造販売に厳罰を当てている。いわば官禁の品だ。
「なんて名の薬種なんですか」
「それが、本草書のどの薬種とも合わないの。どんな形態で体に取り込まれたのかも不明。妹妹は豹でしょ、鼻が利く。嗅いでみてよ」
水廌家は無造作に手元の布を開いた。
中から出てきたのは、赤黒い染み。刺客の血だ。
李翰はしぶしぶ布に顔を近づけてみる。無性に高まる肉食欲求を振り払い、血臭に意識を澄ます。たしかに通常の人血とは、微妙にことなる雑味がある。
「あれ、この匂いは……」
「匂いは?」
「ふつうの匂いです!」
「この危急に妾を玩弄するとは、よほど鞭が欲しいようね!!」
「ぎにゃあ!! 違う違う、ふつうの後宮の匂いなんですってば! いまも漂ってる!」
冷艶とでも言おうか――すがしく雅やかな香り。
「悠長な。妾は人生の半分、後宮に住んでいるからなじんじゃってわからないけれど、何もない所に香りが立つわけがないでしょう!」
もっともだ。入宮初日から後宮はこの匂いなので、李翰はこの匂いが後宮臭だと思っていた。
そういえば、この冷艶な香りの源は何だ?
李翰は、検分のため、刺客たちの使っていた私室に入らせてもらった。
後宮臭の濃くなるほうへ歩を進めると、瀟洒な奩があった。公主なら、誰もが一つは持っている。開けば案の定、装身用具の一式だ。
奩を開けたことで、匂いはさらに強まった。
鼻に意識を集中して捜索すると、目の前に現れたのは使い切った化粧瓶だった。
◇◇◇
「戸部出荷の化粧品に、官禁の佐使薬の成分が? たまげたなあ」
深淵を抱く河は静かに流れるし、十万戸をなぎ倒す風暴の中心は、意外と無風だ。墨跡も乾かぬ拘引状を突きつけられ、刑宮に連行された耕穡家は、どっしりとした様子で受け答えた。
あまりに堂に入っているので、尋問官の水廌家のほうが不当拘留しているみたいだ。それでも水廌家は、この人にしては気長に、尋問を繰り返す。
「妾を襲った襲撃犯は、戸部化粧品の顧客だった。まだ無関係だと?」
「それは悲しい偶然だなあ。戸部を代表して謝るだあ」
銀鞭がはじけて几を粉砕した。貘に浸食された水廌家の凶暴性は日毎に増している。
「妾の後宮を佐使薬漬けにしておいてよくもぬけぬけと!」
「落ち着けえ、水廌家。何だか顔が紫っぽいぞお」
「お黙り農婦、証拠は挙がってるのよ!」
水廌家の剣幕で、接収された化粧瓶群が揺れる。瓶に刻まれているのは、〈戸部謹製〉の文字。ここから高濃度の精神高揚作用のある薬種が検出されたのだ。
水廌家が取り乱すのもわかる。これは最大級の非常事態だ。
「麟後宮は化粧品を含めて、自給率が高いのよ。身だしなみを整えることは後宮人の義務。〈戸部謹製〉の化粧品から無縁な者といったら、よほどの病人か、廌の契約によって侍女の生活全てを管理している妾の刑部一党くらいのものよ」
汚染の被害の広さは想像もつかない。佐使薬の依存性は強い。法で取り締まっても、根絶できないのが現状だ。
「でも姐姐、権柄ずくで化粧品を回収しようとすれば、それこそ暴動になるかも……」
後宮人は、度重なる災厄に見舞われ、ただでさえ気が立っている。回収は慎重に行わなくてはならないが――一体どうしたら?
呼吸さえ止めて考え込んでいた水廌家は、やがて顔を上げ、従者を呼ぶ鈴を振った。
音もなく現れた腹心の侍女に、水廌家はしれっとこんな話をした。
「おまえ知っていて? どこぞの公主が密かに飼っていた殺人蜘蛛が逃げ出したそうよ。蜘蛛の毒は糸にあって、軽いから風に乗って広がるそうなの。毒に中っても自覚症状は皆無、けれど三日以内に死に至る。もしこの話が広まってしまったら、後宮は大混乱ね」
侍女は得たりとばかりに一礼して下がった。
半日ばかりで後宮は、存在しない殺人虫に震撼した。
ただの蜘蛛に絶叫し太医院に殺到する後宮人らに、頭から足まで完全に覆った刑宮派遣の殺虫部隊は崇敬の視線をもって迎えられた。
部隊は、恐怖で正常な判断力を失った後宮人を、手際よく、臨時待避所たる刑宮へ誘導していった。刑宮は避難者にちょっといい軽食と休息場所を提供し、無料の〈蜘蛛毒簡易検査〉を実施した。
一方、殺虫隊は、無人になった後宮人の居室から、速やかに化粧品を回収していった。
収容者全員から採取された血水は、すみやかに刑宮地下の検査室に回される。解毒の名目で体よく隔離した佐使薬中毒重症者を乗せた車が向かう先は、城外。治外法権の水廌家荘園領だ。
護送された者の中には、衡交家失脚によって刑宮に身柄預かりになっていた娘子軍の顔ぶれまでも含まれていた――
という、刑部の好感度上昇と後宮平和の維持という、わりと大事業を片づけた徹夜明けの尋問で、その尋問の相手がこのように憎らしいために、四日寝ていない水廌家の顔は真紫だ。
水廌家は、これ以上被疑者とお喋りすると疲労から貘化してしまうと判断したらしく、紫の手で李翰の袖を引いた。李翰は促されて尋問役を交代した。
よもや耕穡家を尋問する日が来ようとは。
耕穡家は中立で、良識派だと思っていた。耕穡家という毒虫の棘は、見えづらく、気付いた時には臓腑に深く刺さっている。
「耕穡家、今日はお取り巻きがいないようですね。いえ、最近ずっと見ないですね。なにゆえですか」
「小説家も残酷なやつだあ。おらっちの口から言わせるのか? 衡交家の粛清で……」
「ご冗談を。あなたのお取り巻きは、粛清など恐れない。お取り巻きが去ったのは、昨今の不作で化粧品の材料が尽きたためでしょう」
李翰は想像する。後宮の俸禄は市井のそれより格段に厚いが、〈佐使薬〉は売り手の言い値。依存者はすぐに財産を巻き上げられてしまい、あとは耕穡家の意のままに動く私兵だ。
同じ中立を掲げても、耕穡家のそれは容赦がない。耕穡家は李翰の愛する冗長性の天敵だ。小説家の対極者だ。そして百家最弱の対極概念とは、最強を意味する。
耕穡家は深々と頭を下げさえする。
「すまねえ、戸部はただ良品を作ろうとしてただけだあ。化粧品の佐使薬化は、事故なんだあ、化粧品の素材なら、おらっちの宮に調合表が残ってる。好きなだけ調べてくれえ」
李翰は言葉に詰まった。そうなのだ、ここへ来るまでに、戸部化粧品の製造材料の分析は終了し、そのどれもが人体に影響のない草木ばかりだという報告を受けていた。
「――もう結構。今日の尋問はただの挨拶がわりよ! 明日はこうはいかないわよ!」
形勢悪しと、水廌家は追及を切り上げさせた。
「刑宮の飯はうまいから、もう数日はいてもいいぞお」
耕穡家に手を振られて見送られる始末だ。完全に負けている。
翌日も、翌々日も、耕穡家からは有力な自白を得られなかった。
水廌家は、日増しに服の趣味がどぎつくなっていった。
「姐姐、心労が美意識を食ってますよ」
水廌家は無言で、万に一つも調和しない取り合わせの色柄の袖を李翰の太い首に回して、黄色と黒の毛皮に力なく顔を埋めてきた。
「後宮律では、三品以上の位にある有力公主を拘留できる期限は十日なの。後宮は事件多発の地だから、いちど拘留期限が過ぎたら、この件で引っ張ることはできないの。耕穡家は尚書ゆえ二品。あと二日しかないの。何も証拠が出てこないの。このままじゃ耕穡家への罰は、業務上の過失罪と減俸、被害者に薄い補償金を出させるくらいで済んじゃうの!」
それは服がどぎつくなってもしかたないの。
李翰は尾をぱたぱたさせた。
「耕穡家の言のとおり、化粧品の佐使薬化は、偶然の産物なんでしょうか」
「刑官の報告によれば、回収した化粧品の〈佐使薬〉濃度は、顧客ごとに異なっていた。使用歴の浅いうちは薄く安価に、体の異変に気づいた頃には熱狂的な顧客となっている。恐ろしい偶然ね」
今思えば、後宮人が無気力無感動だったり、娘子軍が統制を欠いたりしてたのは、〈佐使薬〉切れの、禁断症状だったのだ――
「もう一点、不審な偶然がある。余月に起きた、あの火災よ」
脩身家の急死からまもなく起きた、あの火災。
「妾はずっと、莫が火をつけたのだと思っていたわ。だけど化粧品騒動が起きて戸部への捜索をかけた時、化粧品の製造販売に関する資料と道具は、ほとんど押収できなかった。製造区画だけが火災でごっそり灰になっていたからよ」
「あの火災は、化粧品の違法製造を隠蔽するために、耕穡家が?」
水廌家は険しい顔でうなずいた。
「耕穡家の容疑は真っ黒よ。だけど、耕穡家がわざわざ燃やさず残しておいた化粧品材料表の中に、違法草木はなし。たいした姦才よ」
「色づけに臙脂花の絞り汁、美肌効果に春黄菊、保湿に椿油、香りづけに香草百種――か」
李翰は押収した化粧品の山を打ち眺めた。耕穡家の販売戦略は外装から始まっている。瓶は透明な色石で、細密な花鳥のあしらいは並べて集めたくなる誘惑に満ちている。
李翰は化粧瓶を傾けて内容液を手の甲へひとたらしした。
「妹妹! 貴家まで中毒したらどうするのよ」
「人豹が中毒するのは木天蓼だけです」
水廌家の渋面にかまわず指で広げてみると、薄くむらなく広がり、肌に清涼感が広がる。
――この、百草からなる化粧水は! 後宮で完全限定栽培された草木のみを厳選使用した! 弊部自慢の一品だあ!
――徹底した製造工程の清潔指導によって防腐効果従来比三倍、薄荷の採用により肌爽快感五倍、春黄菊がもたらす透明美肌効果部門で五期一位……
なんて耕穡家は売り込んでたっけ。
水廌家は、みるみる乾いていく、いわくの化粧水を忌々しげに睨みつけていたが、ふと得心が行ったように口元をゆがめた。
「へえ、この〈佐使薬〉――酒精だったのね」
「えっ? 匂いしませんけど。これ酒なんですか?」
「酒特有の匂いを隠すために、百草なんて埒外な数の香草を混ぜてるのよこの化粧水。化粧品は混合液よ、様々な成分が含まれてる。香料、色素、薬効成分、保湿剤……中には水や油では溶けきらないものもある。そういう時は、酒を用いるときれいに混ざるの。酒は腐敗を遅らせ、使用時には独特の清涼感を肌にもたらす――」
「でも、こんなに透明な酒なんて見たことないですよ」
莫の讌で見た、最高級の淥蟻だって白濁していた……
「酒の密造者の裁判で耳にしたことがある。洪鈞では普通、酒は白濁しているものだけれど、濃度を上げていくと、こんなふうに透明で、肌のぬくみで消える液体になるのですって。その技術はまだ麟では確立されてないという話だったけど。とにかく、この百草を溶かすのに使ってあるのは濃度の高い酒よ」
異常に純度を高めた酒――これが後宮人を狂わせた〈薬効〉。
「耕穡家は、この酒を何から作ったのかしら?」
酒は、穀物や果実などを醸して作る。
酒は人を高揚させる。もし、醸されて酒になるときに、その効果がきわめて強く出る草木があるとしたら?
化粧品の〈薬効〉がこの酒精分だとするなら、材料は一般的な穀物じゃない。入手が容易な草木なら城外でも〈薬効〉が問題化しているはずだ。鼻を近づけてみたが香料がきつくて判らない。ただ、
「耕穡家は言ってました、化粧品には後宮産の素材を使ってると」
「後宮産が切れたら、城外の市で調達すればいい――それとも、市では揃えられなかったってこと?」
市では調達できない草木。李翰はあらためて化粧品の材料表を眺める。すると一つの名が浮き上がってきた。
「月宮草――」
古代の遺構から出土した古代の種を、耕穡家が再生させたというあの草木。あれは、後宮外では見たことがない。材料表は、月宮草が香料目的で使用されていると説明している。だが真の用途は、酒として醸して使うことだったのだ。
月宮草酒。これが〈後宮の匂い〉と薬効の正体なんだ。
「すぐに月宮草を醸して検証しましょう! 化粧品と同じ薬効が現れれば!」
耕穡家を糺せる。
李翰は意気揚々立ち上がった。意気揚々なのは李翰だけだった。凭几に片肘をついたままの水廌家が、冷め切った視線を投げてよこした。
「それで? どこから調達してくると?」
李翰は、ぞっとして窗外を見た。
殺伐の風吹き荒れる廃園には枯草の一本すらない。来年に向けた土地改良の名目で、耕穡家が草木を根こそぎ引き抜き、均し終えてしまっていた。
「月宮草は、すでに後宮のどこにもないわ」




