四章 復讐と正義-6
刑宮を出た足で、李翰は游仙宮へ向かった。
水廌家は詭弁で丸めこめたが、衡交家は李翰の後宮生活上の師だ。朋友であると同時に、最も油断ならない相手だ。どうやって和解話を切り出したものか。
心には、囿苑での毎夜の倒莫談義の記憶が浮かんでいた。あの頃は楽しかった。討伐すべき敵は明快で、朋友は頼もしかった。
朋友は過去に捕らわれている。これ以上壊れてしまう前に、衡交家から復讐心を取り除かなければ。
「どうぞ掛けて、良朋?」
通された室には気どらない点心と飲料が並んでいた。
「準備がいいですね」
「そろそろ来る頃だと思ったからね」
衡交家は後宮の権限を掌握している。どこにでも耳目を持っているのだろう。
少々形が不揃いな淡黄色の粟まぶしの団子が、尚膳監が一流の腕で「気さくさ」を再現した労作だと知るのはたぶん、発注者である目の前の女と李翰だけだろう。
几上のめづらかな明青色の瑠璃杯は、どこか遠い地を思わせる。衡交家は情報に聡く、こういう珍しいものや新しいものを試すのが好きなのだ。
団子を、ぽいと口に入れて咀嚼し、
「良朋、」
と、李翰の後宮唯一の友は黄金比に微笑む。
「このたびはよくも背叛してくれたよねえ」
――それも、よりにもよって、あの泣き虫阿俊に下るなんて。
僕の面目は丸潰れだよ、と衡交家は平素と全く変わらない陽気さで嘆じた。
「背叛など」
「背叛だよ、和解なんて。僕は忠告したはずだけど。八面討好はすべてを失うと。阿俊と僕、どちらの花も得ようなんて、不埒極まりないよ。李君じゃなかったら即刻宮刑に処してるところだ。知ってる? 女子の宮刑ってどうやるか」
李翰はそれを無視して、話を変えた。
「衡交家。莫氏を貘化したのは、あなたですね」
「どうしてそう思うの?」
「そう考えると全てがつながるんです。衡交家は、四年前に自分を失脚させた王と水廌家、傍観者であった有力公主たちを恨んでいた。復讐の機会を狙っていた。突然王が不眠になったのを幸いに、夢を食う貘を差し向け、偽王を心変わりさせ、后候補だった水廌家の勢力を殺いだ。魔魅に捕らわれた莫の性質は凶暴だ。頃合いを見て討伐すれば、英雄として後宮中枢に戻って来られる――」
今思えば、李翰の持ち込んだ倒莫計画を、囿苑に繋がれていた衡交家は、期ととらえたのだろう。
「衡交家は、失脚したとはいえ、後宮にいくつかの目を持っていて、いつ知ったかは不明ですが、把握していた。王は偽物で、庸夫子は恐喝者だと。華公主復辟を目指す衡交家にとって、王の正妻たるにふさわしい良血統を有し、後宮最有力者に台頭しうる庸夫子は脅威。だから、庸夫子の〈急死〉を仕立てた」
王は偽物だ。後宮人の前に姿を現したがらない。ゆえに偽王は脩身家殺しに必ず代理を立てる。
戎家は忠臣。偽王が戎家を脩身家殺害の実行役に立てることは、衡交家の予想の範囲内だった。
むしろ戎家を陥れるために偽王へ提案したのだろう。こうして戎家も失脚させた。笑顔で仇敵を壊滅させていく衡交家は、後宮の流儀を誰より心得た女だ。
「庸君が生きてたことには驚いたな。現場を見てないからわかんないけど、司馬君の殺し方が甘かったのかな?」
脩身家が活屍だと知るのは、現在の後宮では本人と李翰だけだ。断りもなく脩身家殺しに加担させられた李翰は、ささやかな腹いせに、脩身家復活の事情を、衡交家に伝えていない。まあお互いさまだろう。
「でも衡交家は実に抜かりないですね。遺体を損壊した証拠が欲しいと偽王が言えば、将軍は鴆衣の切れ端を持ってくる。回収した鴆衣でもう一度、今度は完膚なきまでに庸夫子を葬り去ろうとした。鴆毒は誰の目にも、豊かな鳥類が生息する地の生まれである脩身家を想起させる」
「それで、李君は何を言いたいの?」
「水廌家は知りました。王が贋物だと。後宮は危機的状況なんだと。衡交家は、それらを伝えようとしてくれてたんですね」
これまで朗らかに話していた衡交家が口をつぐんだ。
李翰は衡交家に向き直った。
「衡交家、和解を。初めからそのつもりだったんでしょう? 水廌家は官学ゆえ、他公主を排除するようにはたやすく行かない。和解が落としどころだと考えてたんでしょう?」
「うーん、どうしようかな」
「衡交家のことが気がかりなんです。衡交家の後宮統治は、友の目から見てももう限界です。今言った一連の事件が外へ洩れたら、どうなると思います? 後宮人は貘から与えられた忍苦を忘れていない。その貘を生み出したのが衡交家だと知ったら、いかに衡交家でも破滅ですよ」
衡交家は、もうこらえきれない、というように噴き出した。
「僕が破滅するときは、李君もただじゃすまない。李君が喋ると思えないけど」
「笄を交換したのを忘れたんですか? 冥獄へ落ちるときは一緒です。つまり、冥獄へ落ちる決定権は衡交家だけじゃなく、小才にもあるんですよ。むろん、今より幸せな方向に向かう決定権も」
衡交家は、驚いたように目を開き、それから、はにかんだ。
「成長したね、李君。僕は後宮人として、もう君に教えることは何もないのかもしれない」
李翰は衡交家の背中に手を回し、抱き寄せた。李翰は衡交家のことを、もう怖いとも、魔物だとも思わなかった。
友情のあいだに言葉は要らない。
やがて衡交家は静かに首肯し、和解を受け入れた。
◇◇◇
数日後、水廌家と衡交家が、兵部兼工宮にしつらえた席上で、会談を行った。
会談はごく短時間で終了した。
和解を申し出る水廌家の頭上に、衡交家が手元の酒を黄金比の笑顔でぶちまけたのだ。
「和解は不要。僕は求める。曹俊録――汝の首を」
後宮は戦時へ逆戻りした。
上流階級が何より重視する体面を、衆前で踏みにじられた水廌家からは殺意の視線を浴びせられ、一瞬平和の幻想を見せられた後宮人からは石を投じられ、李翰はまた豹毛が抜けた。
李翰が思うに、平和とはある種の冗長性だ。
冗長性のない世界で戦争は起きる。それが二百年乱世だ。この現代だ。ゆえに李翰は、百家最弱ながらに中立を引き継いだ。
百家最弱だからこそ、乱世を終わらせたい。
曇天の下、李翰は再び衡交家のもとを訪れた。
◇◇◇
衡交家は、黄金比の笑顔と青瑠璃の茶器で出迎えた。
「ごめん嘘ついちゃった」
「衡交家はそういうやつでしたよ。どうして忘れてたんだろ……ううん、信じたかったんだと思う。承知してくれるまで何度でも言います、衡交家。水廌家と和解をしてください」
「李君のお願いでも、それは聞けないな」
「衡交家、衡交学の枢要は、均衡と調和じゃなかったんですか? あなたはかつて失ったものをほぼ全て取り戻したんです、復讐はとうに終わってるんですよ」
「李君のこと、僕は心から良朋だと思ってたんだよ? 君もずいぶんひどい女だよ」
衡交家の視線は微妙にずれていて、話が噛み合わない。
注がれ続ける茶が、器からあふれ出している。李翰は挑むようにそれを掴んであおった。
「水廌家への怨みはいったん脇に退けられませんか。あの人は今、後宮を救うべく奔走してるんです。この辺で矛を収めて下さいよ!」
青色には鎮静効果がある、冷静に交渉したい相手と会うときに使うといい。そう教えてくれたのは他でもない衡交家だ。
この茶器の青さが衡交家の正気を取り戻してくれるようにと願った。いたずらに几上を流れてしたたり、今しも冷たく李翰の膝を濡らすそれが、とどめようのない後宮人の狂気だとしても。
ねえ李君、と衡交家はどこか酔ったような声で言う。
「曹俊録だけは、だめだ。過去には僕を失脚させ、いま僕から朋友を奪う。曹俊録には徳がない。僕の目が紅いうちは、あらゆる手段でもって、曹俊録の命を狙い続けるだろう」
この人はいつからこんなことを言うようになったのだろう。くだらない。徳だって?
――いや、ちがう。衡交家はぶれていない。
李翰が衡交家の本音に対して、常に耳を塞いでいただけだ。異なる思想家と同じ夢を見るには、それが必要だったからだ。
にわか仕立ての中立は、端から崩れて、友の凶気を押さえようもない。どんな言葉を投げても、相互理解に到達しない。
だが、思えばそんなものは初めからだ。衡交家と李翰は思想で合致した友人ではなかった。目的のために共寝し同じ夢を見た。
この夢は、絡まった後宮人の思惑の糸が、偶然結んだ紅く甘い悪夢。この夢は、紡いではいけないものだった。
それに気づいてしまったら、夢は覚める。ふたりが互いの違和に目をつむりながら、紡いできたかりそめの夢は。
手の隙間から大切なものがこぼれていくのを感じる。けれど、再び引き寄せる術を知らない。夢が終わる気配は雨の足音に似ていた。
「欲しい物は何? 室いっぱいの花? 甘いお菓子? それとも新しい宮? 次は君に何をあげたら、僕は君をとどめ置けるだろう」
そんなことを訊く女ではなかったのに。
なぜかつてのように、圧倒的な悪意で、揺るぎやすい李翰の心身を縛っておいてくれないのだろう。それならまだ、衡交家とともにあることもできるのに。そんな能力すら失ってしまったのか。
衡交家には貰ってばかりだった。李翰はむしろあげたかった。過去から解き放ってあげたかった。
勢いを増す雨は、李翰の返答をかき消した。衡交家も聞き返さなかった。友情の間には言葉は要らない。それが終わる時でさえ。その時初めて、この利得ずくの友人関係にも、通じる情が確かにあったのだと、李翰は知った。
失って知った。
静かに衡交家は立ち上がり。告げる。
「李君――ううん、李翰。君の背叛に、僕は最上級の友情を以て応えよう」
衡交家の指の間には、四本の鉄製投具が握られていた。
全身に法悦の紅い花を奔らせ、衡交家は最後まで黄金比の笑貌を崩さない。
「李翰、友情の最上級の姿を知ってるかい」
「え?」
「情死だ」
そう来なくては。李翰は声を立てて笑った。吼えたのかもしれない。剥き出した牙に温い塩水の滴が伝う。
茶器の青は、友を確かに冷静にした。飛び道具なら常人でも豹を殺しうる。鏢は、直接手を下すことを好まない衡交家が最も得意な得物だろう。
李翰は祈るようにもう一度吼えた。何も起こらない。獣に破邪の力があるというなら、なぜ大切な人の正気くらい取り戻せないんだろう。半獣ゆえにか。かりそめの友ゆえにか。
気付けば、几を蹴って声を荒げていた。
「徳なんかで! そんな理想論で! この殺し合いの世界がおさまるわけない、絶対に! 合理と均衡の衡交学者が、そんなことも忘れちゃったの?」
「衡交家衡交家って、李翰。君は一度も、僕の真名を呼んではくれなかったね。ほんとうにひどい友だったよ」
決別の言葉とともに、衡交家の袖が翻る。指先から放たれた鏢が風を切った。
抜かりない衡交家のこと、おそらく刃先には毒を塗ってある。
どこで間違ったのだろう――いや、もう自分を偽るのはよそう。ここに帰結するのは、きっと囿苑で手を繋いだあの時に、わかっていた。
対立する思想は潰して喰らう。
もはやそれだけが思想家に通底する感情だ。偽りの友情すら失った衡交家との最後の繋がりだった。
眩暈のような哀しみと喜悦の中、李翰は瞑目し、豹に変じた。




