四章 復讐と正義-5
刑宮に戻った李翰は、不自然に静かな宮内を見渡した。
あの男の姿が見えない。
「偽王はどこに行ったんですか姐姐?」
水廌家は顔をしかめて、肩を震わせた。不穏だ。
「あの男、李妹に会って以来、ずっと衣裳櫃に籠もってんのよ! 脩身家の幽鬼が来る、なんてわめいて。脩身家生きてるのに。とうとう不眠が頭に回っちゃったんだわ、案検が滞って困ってるのよ!」
脅しが効き過ぎたらしい。
「さようなことより妹妹、大儀だったわね。真王殺しの犯人を拘引したようじゃない」
李翰が連れてきた脩身家は、俯いて黙している。
水廌家には、真王暗殺の犯人が脩身家であったことだけを告げた。
脩身家が、衡交家に指嗾された偽王に殺されたことや、戎家がその実行犯であることは伏せた。その事件は脩身家の復活によって、うやむやになっているから、水廌家に説明するとややこしいことになるからだ。
真王暗殺の顛末を脩身家から告げられた水廌家は、滂沱の涙を流した。
「庸子彬、おまえの血を、あの人の骨に注いで贖わせてやる。あの人には墓も作ってあげられないのだから」
水廌家は法の化身だ。たとえ真王暗殺事件が公表できず、犯人を表立って裁くことができないにせよ、いかようにも律をゆがめて脩身家に制裁を加えうる――
ふいに、脩身家の言葉が、小さく室内に響いた。
「曹姐、真可憐」
脩身家はあろうことか同情に睫毛を震わせた。
「妾の未来の夫を毒手にかけておいて何を妄言を」
水廌家の激情を、静かに脩身家は受け止める。罪を暴かれてなお、脩身家は思想家の誇りを捨ててはいないようだ。考えることをやめていない。さらに続けた。
「予は、この忌まわしい麟後宮など滅んでも一向に構わぬのです。そのために罪人となるのなら、予も、予の民たる塢人も、臨むところです。予の死が明らかになれば、それにより洪鈞全土が麟主暗殺の成功を知るでしょうから。最強国の王が斃れたと明らかになれば、この乱世はいっそう苛烈になるのでしょうね」
「罪人は、罪を軽くしようとあれこれ語り出すものね」
「脩身学はいずこの国でも疎まれますが、脩身学者は重宝されて、どの国でも用いられる。何ゆえかわかりますか? 脩身学者とは――塢人とは、国を失い洪鈞全土に散りながら、滅びた国の言語で繋がる集団。
国ごとに言語を異にする洪鈞世界において、共通語で迅速に他国と往来できる人材の価値は計り知れない。麟主暗殺の成功は、各地に散った塢人の繋がりにより、速やかに洪鈞全土に広まることでしょう」
「やはりおまえの嘴は黄色いわ、庸子彬。おまえの学派がどれほど伝達力に優れようとも、おまえに死を与えたあとで、その死を伏せておけばよいだけのこと。誰か、このすまし女の首を――」
「庸夫子に撓法を加えるなら、王の死は小才が公表します」
「なんですって⁉」
李翰の容喙に、水廌家の睛は、憎悪の厚さに涙も枯れた。
「いつから国賊に成り下がったのよ李妹!」
「今は、庸夫子に時を割いている場合じゃありません」
脩身家の首なんか刎ね飛ばしたら、脩身家が活屍だと露見してしまうではないか。すると、脩身家の死と蘇生について説明しないといけなくなって、そのなかには水廌家には話せないことがたくさん含まれる。
だから殊勝なふりをしてすんなり拘引されたんだな、庸夫子……。
脩身家は、李翰が水廌家を止めに回ることを予測しており、愛するものを失って激しく怒り悲しむ水廌家を至近で安全に、とっくり味わいながら、さんざん挑撥したのだ。焚書坑脩の恨みも、ついでに晴らしていると思われる。さすがは国ひとつ背負って刺客をやっていた人物だ。震え上がるほど人が悪い。
水廌家は身を震わせ、やがて耐え難いような息を一つついた。
「いいわ。この混乱が収まったら、庸子彬、おまえの血で罪を贖わせる。公主らしい死は与えない。それまでの命と知りなさい。
――獄を折む。脩身家を冷宮送致に処す。名目は、刑宮に刺客を送り、後宮の治安を乱した容疑での事情聴取のため!」
脩身家は真王ごろしの大罪人ゆえ身柄の確保は必須だ。ただし浩蕩王は存命ということになっているから、別件で投獄したのだ。
刺客のやりとりは後宮の茶飯事、脩身家の体面はさして傷つかないし、刑宮襲撃事件を脩身家の手と見せ、脩身家の失脚を企図した者の機先を制することもできるだろう。
脩身家が引かれて行ったのを確かめて、水廌家は吐き捨てた。
「これが最大限の譲歩よ。満足、妹妹?」
「いいえ? だって、今の譲歩って、脩身家の分の要求ですから」
「なんですって?」
「小才の口止め分も譲歩してください。和解していただけませんか衡交家と」
水廌家は巻いた睫毛をゆっくり上下させた。水廌家の銀鞭が李翰の頬ではじけて燃えるような痛みを生んだ。
「気が触れていたと認めなさい。それならこれで許してあげる」
「和解してください、衡交家と」
李翰は繰り返した。
「おまえ……」
水廌家の激情が大きく膨れ上がった時、
振動が宮を襲った。罅の入った壁から金泥が剥落してくる。
いや、振動ならずっと続いている。後宮はただいま戦争中で、刑宮は刑宮官以外の全後宮人から敵視され、包囲され、兵糧攻めの最中だ。刺客が送り込まれるくらいで済んでいるのが異常なのだ。
李翰も無計画に和解を提案したのではない。
偽王に脩身家殺害を指嗾したのは衡交家だ。ということは、衡交家は王が偽物で、脩身家が恐喝者だと知っている。
しかし今に至るまでそれを吹聴していない。衡交家とて、この秘密が後宮の存亡に関わる危機だという認識があるのだ。
後宮人は後宮から離れては生きられない。これは不文律だ。衡交家だって後宮を壊す気はないはずだ。
つまりそれこそが、後宮の安定を求める水廌家との、妥協点になるのではないか。互いが後宮に差し迫る危機を知った今なら。
「鬼締と和解ですって? 必要なのは誅殺よ。あの女が華公主就任以来、どれだけの命を屠ったか知ってるの? 姦婦と言うより姦怪よ」
同意する。ただ、水廌家と衡交家という二勢力が安定的に存在した状態が、麟後宮にとっては良好な状態ではないかと李翰は思う。
莫といい、衡交家といい、一人に権力が集約したために、後宮に血の雨を降らせてきたのだから。
「小才に言わせれば。後宮の連中は皆、他者の血肉をむさぼる毒虫です。それでも姐姐にとって後宮は家で、後宮人は家族なんでしょう、この巫蟲の壷の底しか、生きる場所がないんでしょう? 衡交家だって同じです、小才がなんとしても場を設けますから、和解といかないまでも一時休戦を結んで――」
言葉を途中でつぐむほどに。
これが人ひとりに向けられたものかと思うほどの。
水廌家の憎悪だった。これまでのどんな不機嫌な水廌家の声にも、義姉妹に向ける愛があったのだと今更に気付いた。それに李翰がどれほど寄りかかっていたのかも。
それでも。李翰は中立を引き継いだ。衝突を恐れているわけにはいかない。
「姐姐、どうかお願いします」
渾身の力を込めて頭を下げた。その身が凶悪な豹紋に包まれる。
「でなければ、この場で姐姐の首を噛みちぎり、衡交家に差し出します。小才は後宮が落ち着きさえすれば、上に立つ者は誰でもいい」
「有趣、やってごらんなさいよ」
水廌家は銀鞭を構えてくる。
決裂だ。
やはり李翰程度の能力では、説得は不可能だったか……。
百家最弱なので、李翰は早くも中立を掲げる心が折れていた。
中立って損ばかりだな。後宮の混乱を修めないと、皆人もれなく殉死なのに。意地を張っている場合じゃない。水廌家のわからずやめ。
銀鞭で打たれた頬が猛烈に痛い。痛みで意識が白濁してきている。頬の痛みが限界に達した時、李翰の中で何かが切れた。何もかもどうでもよくなり、けだるく柱に身を預けた。
「……姐姐には失望しましたよ」
「何ですって?」
「姐姐は必ず、後宮の姉妹を一つに束ねてくださるって信じてました。でも、期待しすぎてたんですよね。姐姐には重すぎる天命だったっていうか」
「待ちなさいよ、何だかわからないけれど妾もっとやれるわよ」
「いいんです無理しなくて。人にはそれぞれ器ってものがあるので。これから小才は、派閥を立ち上げて自力で後宮に平和をもたらします。ああ、些末なことなので言ってませんでしたけど、小才、人の時は人望皆無ですけど、豹になるとなぜか皆、狸、狸! と嬉声を上げて抱き着いてくるんです。たぶん水廌家より衡交家より好感度高いです。今日から後宮人の心は小才のものです。ではごきげんよう」
水廌家はとうとう銀鞭を降ろして叫んだ。
「嫌! 後宮人は妾の家族なのよ! 家で飼ってる大きな狸も妾のものよ! 他の誰のものでもない!」
後宮愛ゆえに、水廌家は和解に応じた。




