四章 復讐と正義-4
「不仁なる者は以て長く楽しみに処るべからず。麟後宮が年中血染めなのは、住人に徳が足りぬせい。それを抑えられぬ刑部はさらに不徳なのでしょう。水廌家の曹姐は、禅譲を考えてはいかがでしょうか」
訪れた礼宮は、執務区画から侍女の服に至るまで、徹底的に白く塗り替えられていた。黒一色だった時代が思い出せないくらいに。
李翰は、白い脩身家に用件を告げた。
「刑宮で水廌家を襲った二名は、服毒して果てました」
「またひとつ後宮の闇が深まりましたか。礼部へは、見舞金の要請を? あいにくですが、礼部の印章は、衡交家に接収されてしまいました。予は既に尚書ではありません」
「言い直します。襲撃者の二名は鴆毒を服して果てました」
成程、と脩身家はいつものすまし顔でうなずいた。
「それで尚書でもない予の前に現れたのですね。名は体を表す。予の故国・塢は、その字のとおり、鳥の産地ゆえ」
「ご慧眼です」
「鴆は、予の故国でさえ幻の鳥でした。予も未見です。戦争によって、塢の土地は麟の領土となりましたが、相変わらず捕獲したという話は耳にしません」
脩身家はそうよどみなく答え、出入口を指し示した。
「予は、非礼を嫌悪します。礼にかなった振る舞いを演じながら礼に背く。さような者の声を聴いてしまった予は、これより耳を洗わねばなりません。予を殺めた獣よ。そろそろ退出ねがえますか」
「待ってください。夫子。あれから小才は犯人を捜しあてたんです。夫子を殺めたのは――麟主ですよ」
白衣の脩身家はいつものすまし顔。
しかし、眼窩の闇が不穏に揺らいだのがわかった。節制心の強い脩身家が抑えきれない感情とは、どれほどの密度のものだろう。
「荒唐無稽だ、と笑わないのですね夫子。お心当たりがおありでしたか」
「恥ずかしながら、大王とはしばしば口論するようになっていました」
「話は変わりますが、庸夫子は、いつから脩身家に?」
「三歳で筆を持った時からですね。脩身学は塢国発祥の学問、塢王族はみな、脩身学を修めます」
脩身家はいつものすまし顔で滔々と答えた。
「脩身学の祖は塢人ですが、脩身学自体は、戦国に愛を説くという時代を先取りしすぎた学説のあまり、どの国に遊説に行っても容れられなかったと聞き及びます。麟では焚書坑脩までされた」
「いかにも、脩身学は常に苦難とともにありました」
「学説が自国で受容されていれば、他国まで遊説に行く必要はない。脩身学は塢で生まれたものの――実際、塢王室には受け入れられていなかったのでは? 塢王室が脩身学を重視していたという話はいつわりです」
脩身家はすまし顔のまま答えない。
「これは想像ですが、夫子は、塢の滅亡後に……あるいは直前に、必要にかられて脩身学者におなりになったのでは?」
「なにゆえさように思うのですか」
「鴆の羽の色が何色なのかは不明ですが、脩身学者の表徴色は黒。どんな色だろうが、黒く染められぬ色はありません。それに、脩身学の祖が塢人である事実は好都合でしたね。夫子は疑われることなく、鴆の羽毛を糸にして織り上げ、黒色に染めた襌衣を――毒の衣裳を、容易に宮中に持ち込めた」
脩身家が奇妙に表情をゆがめた。教師が、特別出来の悪い子に対してそうするように。
「曹姐姐を斃すために、予がそのように手の込んだことをすると?」
「いいえ。毒の衣――鴆衣を持ち込んだのは、別の者を葬るためだったかと。ご存知ですか、今回の刑宮への刺客と、同じ死様を呈した者が過去にもいたのを。死してなお、生けるように血色が良かったそうですよ――浩蕩王も」
李翰は、年若いこの偽思想家の正体を暴いた。
「夫子。あなたは、塢国が滅亡の間際に麟へ放った、最後の刺客です」
けれど――脩身家は教師然とした無表情を崩さない。
「子はやはり小説家。妄想過多です。そのように都合の良い衣があれば、即刻使えばよろしい。その袖を、少しく酒を満たした器にでも浸してやれば毒杯のできあがりなのですから」
「時期が悪かったんですよ。庸夫子のご入宮は五年前だとか。当時の麟後宮は、水廌学派の全盛期。当然、夫子の王への遊説もかなわなかった。当時齢十ということもあり夜の相手として接近すること考えられなかったでしょうし。夫子はずっと機を待っていた。そして水廌家が衡交家と決裂して、弱体化してきた二年前、とうとう王の暗殺を実行した――」
脩身家は庭園を眺めて応えない。
「塢は、城を焼かれて民は奴隷になり、王族は悉く殺された。宮中の妃嬪は、戦利品として麟の武将に下賜され、塢主のただ一人の未婚の女であるあなただけが、麟後宮に献じられた。同じ洪均の地とはいえ、南と西では文字も風習も違う。長かったでしょうね、来麟されてからの五年は」
今考えれば、脩身家が余月に話していた、浩蕩王が脩身家を見そめた、という話は、凄まじい皮肉だったのだ。
塢王族を殲滅した浩蕩王が、脩身家一人を麟後宮に入れた理由は一つ。成長後に側妾にするためだ。麟が塢を従えたことをこれほど内外に示す行為もない。庸子彬は浩蕩王の征服欲そのもの。
庸子彬――脩身家はその事実を、そして自身を烈しく憎んでいた。
脩身家は庭園を眺めている。枯れ死んで黒い花を。
死を含めたあらゆる困難を通り抜けた脩身家の口元には、老人のような皺が刻まれた。
笑っているのだ、と一拍遅れて気づいた。
「子はきっとご存じないでしょうね。麟の火に焼かれる前の塢は、まこと鳥の国だったのですよ。常緑の雨林に千万の花鳥。それはそれは美麗な地――」
それでも鴆を初めて見たのは、塢が麟と最後の戦争を始めるわずか数日前でした。と、脩身家は視線を過去へとさまよわせた。
「といっても、鴆はとうに絶滅しており、予の前には、絶滅前にかき集められた鴆羽で織りなした黒衣がありました。公主にとって他後宮へ嫁すことは、出征に同じ。知恵者の侍女しかり、秘密の通信手段しかり、必ず何らかの〈武器〉を携行するものです。
塢公主の場合は、鴆毒に対する耐性を持った自身の体と、鴆衣の一揃い。縁談の予定もないのにそれを見せられたとき、予は自国の滅亡と、自身がなすべきことを悟りました」
「よく入宮時の持参品検査に通りましたね」
「一度で効くようでは、うかつに鴆衣に触れた者が倒れ、暗殺計画が露見してしまいます。鴆毒とは、蜂毒に似て、何度か同じ刺激が加えられることによって体が変質し、死に至る毒なのです」
そうやって王の死の時期を調整した、と脩身家は語った。
「浩蕩王は、予の祖国を――塢を、二度滅ぼしました。一度目は大地を、二度目は文化――脩身学を。あの男は、百万塢人の怨敵です。塢を滅ぼした男の罪を、塢から産じた鳥によって咎める。さらばこそ、予一人を生かすために失われた塢人の魂に報いうる」
「けれど、浩蕩王を暗殺した夫子は、それを口外しませんでしたね。なにゆえに? すぐに浩蕩王に生き写しの偽王が立ったからですか」
それもありますが、と脩身家は再び遠い目になる。
「予は故国の滅亡前、塢主からこのような命を受けていました。麟主を殺せ、さもなくば、徳で教化せよ――」
塢は滅ぶ。だが、塢で発祥した脩身学は滅んでいない。武でこそ及ばなかったが、優れた文でもって内側から麟を克する。
李翰は想像した。塢は全く新しい国を目指したのだ。
領土を持たぬ史上初めての国。それでいて人々の思考と生活規範の中に生き続ける久遠の楽土――
「脩身学で徳化できる君主ならば、予は、正体が誰だろうと構わない。浩蕩王は不徳でしたが、次の偽王は、徳化しうるかも知れない。そう望みをかけて遊説に赴いたのですが……あの者もまた、王の資質ではなかった」
正体の露見を恐れる偽王は公主たちに会うことを避けていたが、脩身家はその時点で偽王の正体を知っていた唯一の存在だ。不安につけ込めば、面会は可能だったのだろう。
そうか――だから、脩身家は偽王に殺されたのだ。
「庸夫子は、偽王を恐喝したのですね? 正体を公言しない代わりに、自分の意に添う王になるように。でなければ禅譲するように」
「脩身学の理念、その最たるものは謙譲です。譲り合う心こそが、最も尊い徳。不徳の者は、有徳の者にその地位を譲り渡すべきなのです、それなのにあの者と来たら……」
度重なる禅譲要求に進退窮まった偽王は、脩身家を葬ることを考えた。そこへもたらされた脩身家仮死の報は、偽王にとって千載一遇の好機だった。
おかしなものですね。と静かに脩身家は微笑する。
「在りし日の塢では、脩身学者など謁見すら許されませんでした。しかし国が滅んだ今、脩身学の存在だけが、かつて塢という国が地上にあったことを伝える。脩身学の講義も黒装束も、始めは暗殺実行の仮装にすぎませんでした。なれどいつしか予は、礼と仁愛を説くごとに、各国に離散した塢人たちとの一体感を覚えるようになっていました」
予は、この学問によって、揺るぎない故郷を見つけたのかもしれません。そう言うと、脩身家はすくと立ち上がった。
「悔いはありません。麟の教化は成りませんでしたが、故国の仇は打ち果たしました。予を拘引してください」
脩身家はもう随分前から、覚悟を決めていたのだろう。すましかえった表情は、この世に何の未練もないところから来ていたのかもしれない。
李翰はわざと首をかしげて見せた。
「悔いがない――それは真実ですか? もう一人の仇である水廌家を仕留めそこなっているではありませんか。水廌家は焚書坑脩の元凶ですよ」
「本日の刑部襲撃は予の手配ではありません。麟後宮における予の興味は、麟主の禅譲いかんのみ。予は一度殺され、五体を刻まれました。その際、鴆衣も千々に裂かれ、一部が持ち去られたのです。それを悪用した誰がかいるのです」
鴆衣の一部が持ち去られたことを知った脩身家は、速やかに自らの鴆衣を処分し、王暗殺の証拠を隠滅したのだろう。さらに、黒い鴆衣を人々の記憶から消すために、白い衣装に着替えて印象を上塗りしたのだ――
「一部とはどのくらいなのですか?」
「失われた部分の鴆衣で殺められる数はせいぜい二名。水廌家への刺客二名が鴆毒で果てたというのなら、死者はそれで終わりです」
「ますます怪しいですね。襲撃犯は辰霊景の復仇だと言ってました。辰霊景派の残存最大勢力は庸夫子です。夫子は辰霊景派の再興を目指していたのでは? ご自身が華公主になるために」
「どこの刺客が、己の主人の名を訊ねられて軽々に明かすというのですか? あまり刺客の覚悟を安く見ないでいただきたい」
本職に本気で怒られた。怒られたあと、しげしげと納得された。
「成程、子は予を案じてくれるのですか」
李翰は脩身家を見つめた。
「このままでは夫子は、後宮内事件の罪過を一手に背負わされ、政敵の思惑通り貶められます。夫子は塢人の表徴。それが罪せられることがあれば、国を失い全国に散ったという塢人たちは、どんな迫害に遭うか。突然黒襌衣をやめて白喪服に着替えたくらいでは、夫子は夫子の民を守りきれないと思います」




