四章 復讐と正義-2
この日、後宮の瘴気は戸宮で吹き荒れていた。
その一室だけ天変地異を閉じこめておいたみたいだった。
壁一面に配された抽斗は無残に抜け落ち、保存食品や生薬が踏みつけられている。
李翰は、慣れた力加減で腕だけ豹変し、室内で争っている二者を引きはがしにかかった。
「お話、聞きますから、いったん落ち着きましょうか!」
今月一体何回目だろう? 李翰は仲裁の数を数える気にもならない。
失脚した耕穡家は、関懐に監視されている。
関懐は、昨日は戸部の書架を蹴倒し、文書をくず山にし、一昨日は残り少ない戸部人員を恐喝して、俸禄から化粧品に至るまで巻き上げた。
零落公主は飢狼の前の死肉に同じ。今日は李翰が駆けつけるのが遅すぎたのだ。
怒れる耕穡家は猛牛のように肩をいからせ、わめきながら応戦する関懐たちを突き殺さんばかりだ。
「おらっちは間違ってた。中立は死んだ! 戻ってクソ衡交家に伝えろ! 絶対におめえを冷宮送りにしてやるってな!!」
目下、独裁強化を進める衡交家は、耕穡家から戸部尚書の位を剥ぎ取りにかかっている。勤勉で中立の耕穡家本人を罪するのは難しい。日々の丁寧な嫌がらせによって、心を病ませて自滅に持っていく腹なのだ。
そういう後宮の茶飯事に関してすでに心が死んでいる李翰は、膝をついて黙って室内の散乱物を片づけ始めた。
「……そうだな、諍って瘴気を濃くしてる場合じゃねえ」
しばらくして冷静さを取り戻した耕穡家は、清掃に加わってきた。
「なあ、小説家。今年は野良仕事はもうだめだ。不作なのもそうだが、とにかく手が足りねえ」
「小才にできることはありますか」
「肥料づくりと農具の手入れに専念しようと思うんだあ。あとで肥料用の残飯運びと圃の均しも手伝ってくれるか?」
李翰は頷いた。
窗外は悉く枯色。植え直した蔬菜までも枯れている。耕穡家も肌から太陽の色が抜けて、尚書として大勢の者を使っていた時の覇気は面影もない。
これが後宮で権力闘争に負けるということなのだ。
「小説家よお、後宮は今、天変地異のさなかだあ。だが、おめえも市井の出ならわかるだろ、終わらねえ旱も、止まねえ霖もねえ。こういう年は、自分の圃を守って持ちこたえるだけだあ、おめえも色々あるだろうががんばれえ」
耕穡家は自分に言い聞かせているのかもしれない。ただ、満身創痍の敗残者から励まされると心にしみた。
同情ではない。だが、この人の姿は明日の自分かもしれない。だから李翰はこれだけは伝えようと顔を上げた。
「耕穡家、中立は死にません、小才が引き継ぎます」
◇
薄氷を踏むような力の拮抗が、後宮人を緊張で包んでいた。
水廌家は天上の最高神・天帝なる概念を持ち出して、その意託者を以て任じ、戦国後宮に新たな覇を唱えた。
かくして、昼は衡交家率いる百家が刑宮に矢を射かけ、夜には貘の紫霞が遊仙宮を覆った。
権力は人を狂わせる。粛清なんかじゃ、もともと正気じゃない衡交家の復讐心は静まらなかったし、貘を宿した水廌家は、姿を見せるたびに表情を失っていった。
戦争の切れ間に、刑官があちこちを掘り起こしたり、うろついていたりするのを目にするが、刑官たちは主人について何も語らない。
これが水廌家の望んだ後宮なんだろうか。
魔魅なんかに意識を食わせてまで、自分に靡かない王を擁し、後宮の覇者となるこが。
かつて水廌家は王への好意を李翰に語った。
浩蕩王は、いまは暗君になり下がってしまったけれど、今度は妾があの人を支える番だ、と。
後宮人を斬り捨てて回るほど理性の飛んだ男でも、水廌家にとっては自分の元へ戻って来るだけで何より嬉しい存在なのか。
「王さえ、もう少ししっかりしていてくれればな……」
浩蕩王は、一代で四つの国を併合した傑物――莫に溺れて不眠になるまでは。とは水廌家の言だ。
小さく、脳裏に違和感が走った。
確か辰霊景は、王の不眠状態を、莫が利用した、と言っていなかったか?
二つの証言は真逆ではないか。
莫が王を不眠にしたのか。王の不眠を莫が利用したのか。実際は、どちらが先だったんだろう。これは結構、重要なことでは?
本人に確かめようにも、王は復活した莫を擁する水廌家の刑宮に入り浸りで出てこない。
となると、期待できるのは〈あれ〉しかない――
◇
意を決し、私室で仰臥し瞼を閉じた。
数度の空振りの後、枕辺に怪異の気配を感じるや、李翰は素早く豹変して〈それ〉に食らいついていた。
「ふぉふぉ、捕まってしもうたわあ」
李翰は前脚で霞の端を押さえながら驚いていた。
貘も魔魅なりに考えがあって水廌家に憑いているのだから、呼び出すのは困難を極めるかもしれない。だが貘は、過去に一度、李翰の炎の夢を喰いにやってきた。李翰の見る夢は、貘の興味を引くものであるはずなのだ。
そこに望みをかけてみたのだが、実際わりとあっさり釣りあげてしまうと、夢を食われた気はずかしさで、この魔魅と目が合わせづらい。
「人豹よ。そんなに言いにくそうにもじもじとして、さては冷宮での再戦を所望かえ?」
「違います。今夜はお喋りを。小才の夢をつまむ間だけでも。徒労だと思いますけど言いますね、水廌家から離れてください」
「ふぉふぉ、あの女子の夢は、なかなか美味ゆえ離れとうないなあ」
水廌家は、毎夜きっつい悪夢を見ているらしい。
「わかります。小才も目の前に肉を出されたら離したくないです」
「話の分かる豹じゃのう」
貘は李翰の悪夢に食らいついて、一気に半分くらい咀嚼している。これはあんまり引き留めておけない。李翰は勢い込んで問うた。
「今のあなたは莫なんですか、貘なんですか?」
「是非の彰るるや、道の虧くる所以――万物の境は曖昧なものじゃ」
「莫氏の記憶をお持ちなら、教えて欲しいことがあって」
「馳走してもろうておいてあいすまぬ。莫と拙老は体こそ共有してはおるが、一言も話したことがない」
「え? 莫氏は二年前、王への遊説の機会を得るために、あなたの暗黒の力を借りにきたのでは?」
「いいやあ?」
あれ。霊景の証言と話が違う。霊景は莫が貘化した現場を見ていないからか?
「拙老は、自我が目覚めた時には既に後宮におった。ときおり人の体を借りて、夢を食うて回る。莫なる女子はちょうどよいところにおってなあ、それでちと体を拝借したのよ」
「あなたは夢食いに留まらず、後宮人を脅かして意図的に悪夢を見させてもいましたね。王に対しても同様に?」
「養殖ものの夢はうまみがない。その点、王の夢は至楽であったなあ。しかも一度夢を食うてやったら、あの男は莫しか見なくなった。よほど眠れずにおったのであろうなあ」
これで明確になった。王は先に不眠で、そののち莫に溺れた。
何らかの意図を持って、莫を貘化し、王に接触させた者がいる。
つまり莫というか貘の暴政は、仕組まれたものだった?
「不眠というと、王はなんらかの失調状態なのですか?」
貘は悪い夢を美味と感じるようだ。悪夢は心身の乱れによるものといわれる。王は長らく、難しい問題を抱えているのか? それに莫を探して半狂乱のあの様子を見るに、その悩みはまだ晴れていない……
しかしあいにく、李翰の悪夢を食らいつくした紫影は、好々爺笑いをしながら夜空へ浮かび上がった。
「早う真実にたどり着かねば、爾の義姉も、拙老の中に溶けてしまうであろうなあ。待ち遠しいのう、その時に爾が見る悪夢も、きっと美味であろうなあ」
悪夢を喰われつくした李翰は、貘を任意に呼ぶことはもう、しばらくできないだろう。
◇
すぐさま李翰は、各省庁の書類置き場になっている自宮で、文書を漁った。
古い後宮人員表には、二百余名の公主と、八百余名の後宮人の名が記されていた。
それによると、有力公主の入宮時期は、以下の通り。
十年以上前――先王の御代。衡交家が夕餐用の食材として入宮。のちに女官に抜擢、さらに縁組で公主に格上げ。
十年前――王の代替わりで後宮が一新。同時に水廌家入宮。
八年前――先王の落胤・耕穡家が入宮。
七年前――新興貴族・戎家が王家の養子として入宮。
五年前――塢国平定と同時に塢公主・脩身家入宮。
三年前――友好国・宇から莫と辰霊景が入宮。
「で、王が莫氏に溺れはじめたのが二年くらい前から……か」
その少し前の職官表を見ると、水廌家が吏・礼・刑部を、耕穡家が戸部を、戎家が兵・工部を握っている。
十年前に入宮して以後、水廌家は内六部を統括していた。
しかし四年前、辣腕の補佐であった衡交家と決別したのち、若年ということもあり単独での六部運営が難しくなり、徐々に各部の権限を適者に委譲していったようだ。
水廌学は重農を推進する。また、乱世における軍の声は強い。ここでの耕穡家と戎家の抜擢は順当だろう。
(莫氏を貘化した者は、水廌家の勢力を殺ぎたかった?)
官学をかさに他学を弾圧する曹俊録は、他学にとって脅威であり、怨恨の表徴だった。実際は王が水廌学を政治利用していたのかもしれないが、被害学派には同じことだ。
そのうちの誰かが、水廌家を押さえうる力として貘を見いだした。貘の器として目を付けられたのが、新入り公主の莫だった――
呆然としていた李翰の耳に、物音が響いた。
何事かと書棚から顔を出すと、白づくめの脩身家が部下を引き連れやってくるところだ。
この宮は、内六部全体の書類庫でもあるので出入りが激しい。
挨拶すると、恐ろしい白目が返ってきた。死者の眼だ。
(そういえば、脩身家を直接手に掛けたのは戎家という話だったけど、水廌家は何か引っかかっているようだったな……)
戎家は殺人者だが、罪の匂いがしない。だったか。
水廌家の疑念もわかる。
戎家は、屋外で日がな練兵と後宮保安に邁進する。
一方の脩身家は屋内で、祭典の調整に明け暮れる。
憎み合うほども、両者は活動領域が重なっていない。
それでも仮に、戎家が脩身家の排除を考えるなら、最大の動機は、他公主同様、脩身家の妊娠による後宮内権力の移動。ただし、もし脩身家が嗣子を生んでも、乱世が続く以上、軍事の統括者である戎家一門の未来は、どの諸子百家公主より安泰だ。
戎家には脩身家を排除する強い動機がない――つまり、この件の真犯人である衡交家は、戎家をどうやって指嗾したのか?
他国との同盟を推進する思想の衡交家と、尚武の戎家は思想的に対立関係で、この二人が共謀するとは考えにくい。
衡交家と戎家も。戎家と脩身家も。直接繋がらない。
とすると……
(衡交家と戎家のあいだには、誰か別の存在がいる?)
その者は、戎家に、脩身家の遺体損壊という危険行為を冒させることができる。
遺体損壊は、麟では永遠の死を意味する、殺人以上の悪徳だ。実行すれば、戎家は兵・工部尚書の地位を確実に捨てることになる。そして実際にそうなった。
何かしら脅されていたのか? しかし戎家は質実剛健な気質で、武芸にも優れ、なまなかな脅しに屈するようには見えない。
では、義の心に訴えたというのはどうだろうか。
たとえばこうだ。
脩身家は礼部尚書として麟後宮の祭礼を一手に握っていたから、戎家をはじめ他公主は、葬礼に明るい様子ではなかった。それを利用して、たとえばこんな。
――脩身家は亡国・塢を故郷とする客公主だ。弔いは塢王室風に執り行うべきだ。塢はその名の通り、あらゆる鳥が集うという土地、塢王家の始祖も鳥卵より生じた。その正式な弔いはむろん鳥葬。鳥葬は遺体を細断して大地に撒く。
――麟の常識では考えられない蛮行だ。もし鳥葬を行ったと知られれば、社会的地位を失ってしまうだろう。だが、脩身家の魂を安らがせるために、ここはどうか秘密裏に、お願いできないだろうか。
などと痛ましげな表情で。
刃を加える際、脩身家は仮死状態だったから出血はあった。だが、洪鈞世界では生と死の境が曖昧だ。出血即ち生存の証左とはならない。戎家にとって棺の中の脩身家はあくまで死体だった。
戎家は善意によって脩身家を損壊し、結果的に殺害するに至った。
こうして、水廌家が言う所の、「戎家は殺人者だが罪の匂いがしない」という図式が一応は出来上がる――が。
だが本当に、そんな陳腐な義侠心で己の人生を破滅させるだろうか? 有力公主たちはそれぞれおのれの学派を背負って後宮に立っている上、戎家は脩身家にそれほどの思い入れがない様子なのに?
……いや。戎家が義を感じていたのが、脩身家でなく、依頼者だとすればどうだろうか。
戎家一門を、司馬姓を賜い、傭兵集団から貴族にまで持ち上げたのは、麟王家だ。ほからならぬ王家の頼みとあれば、戎家は動くのではないか。
衡交家が、戎家を使った脩身家殺しを持ちかけた相手というのは。まさか。
(――浩蕩王……?)
王は、脩身家と密会する仲だった。李翰たちが目撃したあの密会現場は、睦言の現場ではなく、諍いのそれだった?
戎家の繁栄は王家ありき。どんなに尋問しても戎家は、王の関与は明かすまい。
ただ、冷宮に先行潜入していた戎家は、莫が正体を現した時、李翰たちがどれほど叫んでも目覚めなかった。貘に夢を食われて。
貘が食らうのは悪夢。今にして思えば、戎家が見ていた悪夢とは、脩身家の遺体損壊という大罪に対する、深層意識の後悔?
腑に落ちたようで腑に落ちない。
(うーん? たしか、衡交家は浩蕩王に失脚させられたはず――)
浩蕩王は、戎家と同様尚武の気風だったとか。衡交家はその武ばった考えと合わなかった。だから衡交家は囿苑送りになった、という話だった。
であるならば、衡交家と浩蕩王の関係は、衡交家と戎家のそれ以上の確執がありそうだ。
そんな衡交家の持ちかけた話を、浩蕩王が聞き入れるだろうか?
考えにくい……
だが、王くらいの者が頼み込まないと、戎家は動かない。依頼を呑むにあたり、おそらく戎家は、事後の保証を求めたはずだからだ。大罪とされる遺体損壊を行っても、戎家一門が大罪に問われることのないように。その保障ができるのは、やはり王くらいのもの。
天井を見上げた李翰の脳裏に、ふと水廌家の言葉が蘇った。
――有用の学だけを採り、机上の空論に拘泥する駄思想家を颯爽と穴埋めにしてその書を焚毀する最高に聡明な男だったのに、莫に籠絡されてすっかり変わっちゃったのよ!
莫に籠絡される前と後で、王の施政方針は随分変化したらしい。
だが、貘は王を変質させた直接の原因ではない。それは貘の生態から明らかだ。あの妖魅は、王の悪夢を食い、むしろ神を救っていた。
にもかかわらず、莫が王に侍った時期を前後して、王は一変した。莫に入り浸り、国政も放棄し後宮にも顔を出さない。
王にとり、莫は不眠を解消してくれる存在なので手放せない――とはいえ、それが、王が他公主を遠ざける理由になるだろうか?
王を熟知する水廌家の言によれば、莫の思想と容姿は王の好みではない。入宮後一年も莫が遊説の機会が与えられなかった、という辰霊景の証言もそれを裏付ける。
不眠の王にとって、莫の存在は必須。幽閉された莫を求めて刃傷沙汰を起こすほどに。
だが案外、不眠が解消されている時の王は、余人が考えるよりも冷静だったのかもしれない。
莫のみを寵愛しているように見せ、権限を与え、派手に悪行を尽くさせれば、しぜん、人々はその悪女の動向に意識を向ける。
国が傾いているのは、あの毒婦のせい。王が政治の場に出ないのも、他公主に接触の機会を与えないのも、あの毒婦がいるから――
そして他の非難は、たとえば王自身の資質の問題は――その陰に隠される。
王は己の存在を、近年の仕事ぶりを、人々の意識から意図的に消そうとしていた。
そうなのだとしたら?
李翰は意識の奥で、何かが繋がるのを感じた。




