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壺中の蠱女  作者: you
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四章 復讐と正義-1

辰霊景は、さっさと死んで正解だった。


王の襲来から七日。李翰はそれを肌で感じていた。


こんな後宮に残っていたいと思う者はいないだろう。李翰だって後宮から出たい。外に出ると死ぬ毒を飲まされてさえいなければ。


あれから三十六回死んだわけだが、辰霊景は李翰の復活のために都度時を戻したので、まだ毒は発現せず、体内に残ったままだと考えておくべきだろう。


しかも、後宮は脩身家の急死以来、事件続き。厳重封鎖中で脱出できない。


怨恨の傷に権力が染み込むと人は狂う。


衡交家の場合はもとより正気を失っているから、ことは酸鼻を極めた。衡交家は朝餉をともにした相手を、夕べには冷宮に繋いだ。その袖のただ一振りで、部署の名称ごと命が吹き飛んだ。


流血杵を漂わす後宮で、誰もが息を潜めて日をやり過ごす。


止められるのは刑部だけだが、水廌家はあの日以来、刑宮に籠もったきりだ。一度離れた寵愛を〈家族会議〉によって取り戻すのは予想外に難航しているらしい。







脩身家の急死事件からこっち、あまりにも不祥が続いて、後宮の風は血と死。淀みに淀んでほとんど瘴気だ。


瘴気とは、生物に影響する悪い気だ。人は諍うのでなければ無表情でさまよい歩き、草は池の蓮葉さえ枯れた。


「だから厭なんだおらっちは。生産性のない争いごとが……」


部下の粛清以来、耕作もあまりしなくなりすっかり老人じみた耕穡家は、戸部の帳簿に朱筆を加えてさらに十歳老けた。


「星躔家の葬儀費用だろ、衡交家の遊蕩費だろ、王の刃傷沙汰の被害者に出す見舞金だろ、事件で減った太医院の生薬在庫の補充代だろ、その上……」


「この圃もだめです……」


李翰は生気がないが、最もましだった畝を、諦観の目で眺めた。


「穀類に引き続いて菜果類も自給不能……これも市での買い付けに変更……はあ」


今年はあと半年以上残っているのに既に帳簿は満面朱色――朱は支出の色だ。


「すみません、力になれずに」


李翰は倒莫の惰性で社交人という設定を引きずっているので、ことあるごとに耕穡家のことも手伝っていたが、草一本さえ生存を許さぬ殺伐後宮で、豹一匹の力はとても小さい。


耕穡家は頭を押さえて嘆息した。


「この瘴気はいつ止むんだろうなあ……」







李翰はその日も、徒労と思いながらも游仙宮を訪ねた。


「衡交家、そろそろ気が済んだでしょう、食べもしない死体にくを積み上げないでくださいよ! 人を恨むこと甚だしすぎです!」


棚の中の、つやつやに磨いた頭蓋骨群を眺めていた衡交家が、もそろと振り返った。


「何言ってるの良朋、まだ反省の足りない子が残ってるんだよ? その子たちの頭蓋すべてをこの棚に並べ尽くさないと、僕は笑い方が思い出せないよ」


「好感度を考究し尽くした笑顔で何言ってるの」


「莫君は封印、司馬君は投獄、辰君は星になり、その支持者の庸君は服喪を口実に隠遁。桑君は枯れた。かつて僕を貶めた有力公主は、残すところだだひとり――」


衡交家は棚の白骨を、床へひと払いした。


「良朋、僕は、曹俊録の首が欲しいんだよ」


黄金比の笑顔が頭蓋骨を踏み砕く。薄く高いその音は、衡交家の全身を、合歓のさなかよりも鮮烈に、花咲くように紅潮させる。


ああ、きょうも衡交家がきれいだ。


重く垂れ込めた黄梅天の瘴気は、全く晴れそうにない。





李翰は自宮に戻るまでに、十回ほど友の末路について考えた。


復讐は結構だ。乱世に明日の命の保証はない。誰もが思うままに生きている。


だが――衡交家の復讐心は、衡交家自身を灼いている。衡交家はそれに気づかない。


衡交家は、これにも気づかない。


衡交家自身に向けられる、人々のまなざしの温度の変化を。


既にそれは、後宮の解放者に向けられる熱いものではない。


一世を風靡した衡交家の捺染装は、今や反衡交家でないことを表すための服従の印。誰もが、関懐(見守り隊)と名を変えた、衡交家傘下の娘子軍に目を付けられないように、息を殺す。


衡交家の復讐に寄り添えば後宮は冥獄(じごく)


水廌家の正義を支持すれば、おそらく李翰はその牙を衡交家の首に突き立てることになる。


復讐は衡交家の正義で、それは水廌家の正義と並び立たない。


李翰は随分前から、二者のどちらかを選ぶよう、選択を迫られている。


水廌家は今ちょっと恋愛で腑抜けになっているが、基本的にその言葉は熱く、純粋だ。妹と呼ばれ、毛皮を撫でられる時、時折、李翰は喪失した家族を思い出しもした。


一方で李翰は、復讐を完遂した時に見せるであろう衡交家の極上の笑貌を想像する。衡交家の束縛に厭わしさを感じる一方、罪を共有するこの朋友からの友愛に、李翰は奇妙な安息を感じてもいた。


優柔不断と矛盾が飽和して、二重生活は破綻寸前だ。


寝起きする褥には抜けた豹毛が玉を作った。しかし選べない。


日は飛び去る。とうとう衡交家の魔手は、水廌家に及ばんとする。





衡交家は、水廌家が刑府に籠もっている間に、華公主権限で刑府行在(臨時の刑府)を立ち上げ、識者に水廌家の罪を百ほど練り上げさせ、逮捕状を作成すると、続いて李翰の身柄を確保した。


「知らないの衡交家! 豹は日中は寝てるんだよ!」


午睡中に吏部に勾引された李翰は訴えたが、軍装の衡交家はなめらかな動作で、李翰の腰に手を回してささやきかける。


「李君、きょうは眠らせないよ。僕が後宮を統一するところを、君は特等席で見るんだ」


任免権と兵権に加えて、逮捕権も手中に収めた衡交家の進撃は、もう止まらない。


今夜が水廌家最期の日になるだろう。


気の早い人々が素麻の喪服で見送る中、衡交家は指揮車に飛び乗り、関懐を従えて、水廌家の金銀箔押し刑宮に気さくに侵攻した。


刑府はたちまち陥落した。


主人が次々に変わるという災難に遭っている娘子軍もとい関懐の動きは不揃いだったが、それでも宮中最強女子の集まりだ。「伐罪」の旗のもとに官庁区画が制圧され、間を置かず奥の水廌家の居室へと軍靴が踏み込んだ。


兵が高らかに水廌家の罪を読み上げる――


「逆賊・曹俊録。大王を唆して後宮を混乱に陥れたかどで」


だが、最後まで言い終えることはなかった。突如現れた紫の霞が、彼女を刑府の階下まで吹き飛ばしていた。


太い腕。ずんぐりした熊のような躯。それらを形作る紫の霞には、いやというほど見覚えがある。あれは!


李翰の驚愕とは裏腹に、李翰の身はたちまち豹変し、紫腕が繰り出す二撃目から、衡交家を庇っていた。


紫の暴風のむこうから、凛とした声が突き刺さる。


「この雌豹ネコ。のべつまくなし媚びてみせ、今度は衡交家の膝に侍るわけね!」


何日ぶりだろう、板に付いた悪罵が懐かしい――水廌家だ。


だが数日の離別は、百年の隔たりでもって、二者の間に冷ややかに横たわっていた。


この水廌家は、もう李翰の知る水廌家ではない。


ひと暴れののち、紫霞は水廌家の腕や指先の間を流れ、水廌家の羽衣となる。あの独特の好好爺風の笑声を立てながら。


まさか……そんな……!


「ふぉっふぉっふぉ、人豹よ――拙老がわかるか。いかにも。水廌家これが新たな拙老の宿主よ」


衡交家を襲った紫霞は、まごうかたなき、かの魔魅。


よりにもよって、水廌家は貘の封印を解いていたのだ!


「見損ないましたよ水廌家! 王の愛を取り戻すのに失敗したからって、闇黒の力に手を出すなんて!」


あんなに苦労して封印したのに。豹にまでなったのに。水廌家のやつ、こんな危険物をまた野に放って――!


「警告するわ。もう一歩でも動いたら、大王おうに弓を引く賊軍として処理するから!」


水廌家のその言葉は、後宮内序列最高位の衡交家の、どんな命令よりも強力だ。


水廌家は莫を手に入れた。


その意味を、関懐たちは遅まきながら理解したのだ。王心はなお莫にある――莫を従えた水廌家の手にこそ、王意があるということを。


陵を守る石像のように、固く動きを止めた関懐らへ一瞥をくれてから、水廌家は勝ち誇って告げた。


「よくって? 妾は天帝のように寛大なの。あまねくものを支配する妾が封じてあげるわ、鬼締。貴家を、蟻のようにちっぽけな一後宮の、塵ほどにも満たぬ一華公主にね! 就任祝いにはそこの、誰にでも尾を振る不埒な雌豹ネコを下賜してくれてよ!」







失恋した水廌家は権力に目覚めた。


貘の力にまで手を染め、後宮の覇権争いに全てを賭けてきた。


気脈を通じた気になっていたが、官学一門の命運を背負う千金おじょうさまの心は、橋の下暮らしの李翰にわかるわけがなかったのだ。


好都合ではないか。どのみち、鬼と曹、どちらか選ばなければいけなかったのだ。


しかし――何だろう、この胸苦しい苛立ちは。


衡交家に寄り添ってさえいれば万事がうまく流れた頃が懐かしい。今思えば、あの頃は起きながら眠っていた。


後宮は狭く、思惑は入り乱れ、状況に流されてばかりではいられない。そろそろ流れに逆らって進むべき時が来ているのだ。


小説家にとって、虚と実が等価であるように。


李翰にとって、水廌家の権力欲と衡交家の復讐心は等価であり、水廌家と衡交家の重さもまた等価である。李翰は全方位の肯定による中立でありたい。


だが現実はただの八面討好(はっぽうびじん)に成り下がり、不眠は悪化し、毛並みはまだらに禿げた。


それでも、救いはある。


未遂に終わった今日の水廌家逮捕劇は、増長した衡交家には良薬となったはず。今後は自重してくれるに違いない。


その証左に、ともに刑宮から引き揚げてきた衡交家は俯いていた。自らのいかれた復讐心を静かに内省しているに違いな――


「これぞ僕の求めていたことだ……!」


「え?」


見れば、衡交家はわなわなと上下の歯を打ち合わせていた。犠牲いけにえが待ちきれない飢えた怪物のように。


「最終の敵は、最強でこそ。王権と妖魅を擁して待ち受ける巨悪を討ち、僕らは後宮統一を果たす。最高の筋書きだよ――!!!」


肌に紅潮の花を咲かせた衡交家は、游仙宮に戻るや、


「内六部全衙門に通達!」


逃げ帰って来た関懐を集めた。


「逆賊曹俊録は罪人莫氏を無断出獄させるに飽かず、なお悪を(たくま)しくして、王を擁して刑宮に立て籠もった。その真意は、再び莫氏を薦めて王心を惑しめ、焚書坑脩の再来をなすことにあり! 全ての諸子百家に告ぐ! 水廌家か、我らか! 生を得るのは一方のみ! 今こそ起て、姉妹よ!」


兵は胸を拳で打って衡交家に賛意を表した。鳴り止まぬその音は、下級公主、女官、内人の鼓動にまで同調していく。


我が友ながらなんて恐ろしいやつだろう。衡交家の紅い眼は、自身の狂気をたやすく人に伝染させる。


水廌学派による焚書坑脩の災厄はほんの二、三年前。誰の記憶にも新しい。水廌家は実のところ、一門以外の後宮人に怨まれている。


ふだん憎悪が表出しないのは、例えば、水廌家が衣裳之会のような、豪華な祭典を自費で開いて後宮人に刷り込んでいるからだ。官学に従えば楽しみが得られ、背けば滅びが待つと。


衡交家の叱咤は、後宮人たちに思い出させた。


後宮人たちが水廌家の被害者であることを。水廌家への復讐の正当性を。


ここに、〈全諸子百家〉対〈水廌家〉の対立構図が生まれた。


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