一章 白昼の略取-2
それにしても、あてなる場所を表すのに、紫霞たなびく、なんて表現があるが、あれは真実、紫の霞が漂っているものらしい。運び込まれるときに麻袋の布目から見えたが、ここは麟後宮のほぼ中心、游仙宮なる建物。その一室のようだ。
「いかがしたのよ黙りこんで。さては、ようようこの場が分不相応だと察したの? せっかくだから芸のひとつも陳べて妾の無聊を慰めよ。狗の皿の一枚でも褒美につけてくれてよ」
言われ方はともかく、なるほどこれは好機かもしれない。
この場で人心を掴めば、後宮脱出も容易になろうというもの。
李翰は深く思索し、頭の中で真摯かつ緻密にとっておきの創作を練った。満を持して、唇に言の葉を乗せる。
「――もういいですか? 次回作の構想を練ってて徹夜して眠いので」
「っ、己が見えてない! 諍辞(裁判の訴状)だって貴家の作品よりはまだ有趣だわ!」
人は真の駄文を前にすると、刹那、脳が震蕩を起こす。
富豪女子の振盪が解けて、やっとそう批判する頃には、李翰は乏しい文才によって場を切り抜ける計画を諦め、眼を左右に走らせ脱出経路を確認している。
「貴家、また妾を抛擲(無視)して! 百家最弱の小説家の分際で! 絶学にしてくれてよ、この――きゃんっ!」
罵倒が中断した。
のけぞった富豪女子の横から、白い鬣が現れていた。足まわりは青銅ではなく鉄で補強されている。
李翰は頭から血が引くのを感じた。どうして戦の象徴がこんなところに?
額当て付きの軍馬だ。鞍上には剣を佩いた颯爽たる軍袍姿の女子。
馬も馬なら主も主。防具は儀礼用の布っぺらではなく、猛獣を模した兜鍪も肩肘を守る披膊も、腿周りを防護する膝裙も、重重とした鉱石の音を立てている。
「李どの、貴殿はいずこの門派の剣を修めておいでかな」
剣、と聞いただけで、百家最弱の李翰は気分が悪くなった。
「では馬は?」
李翰は眩暈がひどくなり、几に突っ伏した。
怖い色に脂の乗った剣が鼻先の大気を割き、短い査定は終わった。
「徴兵検査失格!」
たぶん死んだ。この人の中の李翰の評価は。
白馬の武人に見放されたのも少時。
突然、背後から上膊を強く握られ、李翰は情けない声を上げた。
「小枝みてえな膊だな! おめえの打ち込む鍬じゃ、耕す横から枯れちまうな!」
人の膊など、一握りでもぎれそうな厚い手掌。
土まみれの麻の短衣。褌子の裾は、魚皮をなめした紐で絞られ、安定感のある両脚からは労働の喜びの気が立ち上る。
土が噛んだ厚い爪。太陽に愛された肌。
どれも後宮らしさから最も遠く、それでいて最も精彩に満ちている。
どうやら李翰は、この素朴な笑顔の女子にも見限られたようだ。
(思っていたのと相違う――)
市で語られる後宮はいつも、紫霞たなびく典雅な場所だ。妃嬪は美麗に着飾り、妙なる音曲が絶えず流れる――
あれは全部、庶民の抱く幻影だったのか。
などと考えるうちにも、富豪女子の罵詈雑言が心を着実に削ってくる。百家最弱の李翰は、身体能力はもとより内面も弱い。極度の緊張で、だんだん目の前が暗黒になっていき――
「賢妹ら。行儀がよくありませぬぞ」
唐突に、全く別の声が李翰を救った。
「李氏は慣れぬ地へ到着されたばかりでお疲れじゃ。質問責めにして困らせてはいけませぬ」
思ってもみなかったとりなしに肩の力が抜ける。
「世には無用の用という言葉がある。小説家の李氏は、小説家を名乗りながら小説を書かぬ失格性によって功名主義から一線を画しておいでなのであろう。まさに道の本質じゃ。賢妹らも、まずはこの新入宮の思想家から、学ぶところを探してみてはいかがかな」
すがやかで美しい――涼艶なる風。
ああ、これが後宮本来の香りなんだ。李翰は、後宮に来てから初めて息を吸った気分になった。
誰だか知らないが、幻術の蝶を侍らせていること以外、なんて良識ある人物なんだ。
蝶の群れが晴れると、現れたのは小柄な女子。
五歳の童子にも、五度夫を喰った妖婦にも見える年齢不詳ぶり。
簡素な髻に木彫の笄がただ一本。無地無紋の鶴氅姿。
けれど、この華やかさのない女人が口を開くや、鶴が啼いたように、席上は沈黙し、白馬上の人ですら馬から下りた。
仙人めかしたこの女人は穏やかな眼差しで続けた。
「拙老は莫谷神。学問系統は胡蝶家、この麟後宮を統括しておりまする」
聞くやいなや李翰は、なりふりかまわず叩頭した。一回で足りないと思い、音を立てて額を何度も煉瓦床に打ちつけた。
「お許しを! なにとぞ車裂だけは! あなたさまがあの〈莫后〉とは知らなかったんです!」
白昼の誘拐なんか起こるとおり、麟は国情が傾いている。
王が莫后なる毒婦にうつつを抜かし、不眠から政治を疎かにしているためだ。
巷談にのぼる莫后は、血と無惨と享楽を好み、処女の生き肝を食わない日がない。この後宮がどこか不自然なのも、そのせいだろうと思っていたのだが――
「ふぉふぉ、〈莫后〉とは。麟の民は口さがない」
こうして相対してみると、莫の衣は無地無紋、人柄も穏やか。脱俗を旨とし登仙を目指す胡蝶家らしく、奢侈とは正反対の姿ではないか。
「爾は後宮の住人が后妃のみと思うておるようじゃな。それは違う。ここ麟後宮においてはな」
「というと?」
「麟後宮とは総じて、麟主の女――公主らの住まいなのじゃよ」
とすると――どうやら、この室内にいる六名の人物は、形式上の姉妹らしい。
年齢は、十代半ばから二十代半ばほど。互いに全く似たところがないのは、母親が違うから……としても。
王はいくつで莫たちを儲けたんだろう。
当代の王は、たしか三十そこそこのはずでは?
「やや、数字が合わぬ、といった顔じゃな。なに、全ての事実は一に帰する。拙老らは、公主は公主でも、先王の女――長公主じゃ」
なぜか長公主が莫后なんて呼ばれている。
その矛盾を掘ると、良からぬ事態になると、李翰の庶民の経験が告げている。




