三章 華公主位争奪戦-5
いくら水廌家と義姉妹とはいえ、他人の夫婦事情を一昼夜も浴びせられるのは耐えられない。
李翰が逃げるように刑宮外に出てくると、入宮規制はすでに徹底されており、衡交家が刑吏を泣かせていた。
「ねえ、君たちの官位、未入流みたいだけど、これから起こる事態の責任、全て取れるのかな? 勇気があるねえ。感心だ。いいよ、僕が引いても。でも僕にも内六部尚書筆頭の体面があるから、君たちの首五十で手を打つよ。僕、頭の形のいい子が欲しい」
「衡交家、軽い気持ちで人の首欲しがるのやめて」
「李君、人命って尊いんだよ。だからこそ交換条件が成り立つんだよ」
「それ、古代人の悪習として、二千年後くらいに批判されてそうな価値観だよね……」
衡交家は狂人だが、誰より早く駆けつけてきた対応に関しては、正しい。
あんな惨事があったのだ。全尚書は参集し、善後策を談合するのが普通だろう。事実上失脚した耕穡家の姿がないのはやむなしとしても……脩身家と辰霊景は?
「――報告」
と、思っていると、白ずくめの脩身家が、珍しく小走りでやってきた。
歩法一つにも十の心得を語る礼法の権化、あの脩身家がだ。走り慣れなさすぎて、裾が絡まって若干よたついている。一同が和みの視線を送っていると、やってきた脩身家は口を開いた。
「火急です、星躔家の辰氏が、この騒動の心理的負担で倒れました」
「辰君はあいかわらずだねえ」と衡交家。
「笑いどころではありません。星躔家は意識がありません」
断固すまし顔を装いながらも、脩身家の目は少し潤んでいるではないか。この人が憎悪と軽蔑以外の想いをこらえきれずにいるのを見たのは初めてだ。
これはいつもの虚弱体質で片づけられないのでは?
という懸念が李翰の頭をよぎったそのときだ。
刑宮の扉が突然左右に開き、壇上に水廌家が現れた。
「ちょっと! 妾の宮の前で囀らないで頂戴、地下人どもが! 妾は久々に王といいところなのよ!!」
大上段から聞いたことのない暴言とおのろけを吐かれ、李翰と衡交家、そして脩身家が不平不満を斉鳴した。
「浮華!」
「哭鼻子!」
「男の前で態度変わる女!」
下々の怨嗟は上流階級の甘露だ。麟の筆頭貴族・水廌家は、非の打ち所がない角度で喉をそらした。
「ホホホ、更なる怨嗟を、更なる嫉妬を! それが妾を際立たせる! 妾は誰? 官学水廌家の曹氏! 敗残公主どもとは魂の格が違う! 覇王は火遊びしても最後には正妻たる妾の元に戻るのよ!」
だめだ、王の帰還で水廌家ときたら完全に舞い上がっちゃって、彼女の嫌な部分しか見えない。
刑宮官に至っては、主人の再びの春に涙しきりだ。桃花の時機じゃないのに、刑宮は桃色の幸福感で満ち満ちた。
部外者が共有できる空間じゃない。猴、豹、恋盗人はやむなく刑宮から撤退した。
◇
はじめにそれを思い出したのは、猴もとい衡交家だ。
「おのろけ刑部はしばらく無いものとして考えよう。それより辰君がどうなったって?」
そうだ、辰霊景だ。
脩身家の急報によると、なんだか大変なことになっているのではなかったか? そう、意識がないとか。
「後宮人の言は万事盛ってるからなあ。辰君もせいぜい気絶したくらいのものじゃない? でもまあ、探望くらいはしておこうか」
衡交家が、さも楽しげに李翰の腕に手を絡めてくる。
もとより李翰は辰霊景へ同盟の書簡を届ける途中だった。同行しない理由がない。
それに、未だ血臭消えぬ後宮で、辰霊景の探望は、日常への帰路を教えてもらったような、素敵な提案に思えた。
「ちょうど僕ね、太医院を制圧下に置いたんだ。滋養に利くお茶でも調合して持って行こう」
「お茶より香辛料がいいですよ辰霊景を喰う時、味変したいから」
はしゃぐ衡交家と李翰の横で、辰霊景の容態を知る脩身家だけが、道中終始無言だった。
◇
辰霊景の星漢文様の居宮。
そこのに足を踏み入れた李翰、衡交家、脩身家は、出迎えた宮女の姿に絶句した。
こともあろうに、宮女は染めていない、素麻の服だったのだ。
白は死の色――
「辰公主殿下は撤瑟されました。後宮律に従い、遺体はすみやかに宮外に出されました」
「――なんと非礼な」
脩身家が身を前に乗り出し、珍しく感情を露わにした。
「星躔家は公主身分です。それを殯も行わず打ち捨てるとは!」
「庸公主殿下。お考え違いでございます。辰氏は宇人、客公主にてございます。弔いは宇国で宇式に行われます。この季節ですから、出立を急がせねば礼を失します」
あまり崩れた状態で先方にお返ししては、外交問題にもなりかねません。という淀みない返答には、一理があった。
本来、後宮の主か麟主の決裁でも仰ぐべきだろうが、後宮の主って誰だよ、という状態だし、王はご乱心なので使い物にならない。
「速やかに星躔家を乗せた車を追うように」
諦めきれない様子で脩身家が命じている。
一方の衡交家は黄金比の笑顔だ。
「李君残念だったね。辰君のこと、食べそびれちゃったね」
「衡交家だって、謀り殺す手間が省けて物足りないんじゃないの?」
「……薄情な方々ですね。辰氏は立派な徳の実践者でした。不幸にして道を誤り星躔学者などに身を落としましたが、その仁心は脩身学を十年修めた者にも等しいものでした。ぜひ脩身学の聖人として手厚く送って差し上げたかった」
と、脩身家は眉宇を曇らせた。
辰霊景とは何だったんだろう。と李翰は考える。
李翰を三十六回見殺しにし、蘇生させ、豹に変えたあの左道は。
胸にわだかまるこの感情にふさわしい言葉は何だろう。同盟の話を持って対話を再開すれば、もうすこしでわかりそうだったのに、手の届かないところへ行ってしまった。
よかれ悪しかれ、華公主候補の一角が欠けた。
ここから先は、誰も生き返らない。
ここで3章は終了です。ご覧いただきありがとうございます。
「楽しい」「面白かった」と思っていただけましたら、広告下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして評価を入れていただけると嬉しいです。
これ書いている人の創作意欲に直結します、なにとぞ応援お願いいたします!




