三章 華公主位争奪戦-4
「宮殿の他に、何か欲しいものはある? なんでも用立てるよ。だって李君は僕の、最愛の友だからね」
意を遂げたせいか、衡交家の声は、ことさら優しい。
李翰はふいに嗚咽が漏れそうになった。これでよかったのだろうか。しかしもう引き返せない。
失ったものが何にせよ、引き換えに得た信頼を最大限に利用するしかない。
李翰は髪を振り払いながら起き上がると、衡交家から表情が見えないように、顔を背けて言った。
「水廌家と辰霊景への復讐は、考え直してくれませんか。お願いします」
「李君は、阿俊と辰君とは仲がいいみたいだからね。どちらに消えてもらいたいかって聞かれても、急には選べないだろうね。わかってた。いいよ、僕は李君の望みを聞き届けよう」
辰霊景については、李翰が直接手を下したいだけなのだけれど。まあいいか。もう、ついでだ。せいぜい震えて眠れ、運のいい辰霊景。
「――それに、今回は、違う人の末路を見てもらうために李君を呼んだんだ」
「え」
ぐしゅっ、と音がした。
しどけなく仰臥したままの衡交家の手の中で、桑の実が真っ赤に潰れていた。
それが新たな復讐の合図だった。
風に乗って、階下から血臭が漂ってくる。先刻、戸宮から出て行った人の列だろう。
游仙宮のそばには刑場がある。莫が好んだからだ。どうやら、この立地は、新しい主人たる衡交家の好みとも合致する。
ただならぬ声をあげて抗議する耕穡家と、罪状を読み上げる吏部の官員の応酬が遠く聞こえる。血の香は増すばかりだ。
衡交家が提示した残存有力公主潰しの選択肢は、水廌家と辰霊景。二人は今回、李翰の助命により衡交家の魔手を免れた。
中立により不戦を決め込んでいた耕穡家は階下で、戸部の部下と支持者の大半を失い、いま翼をもがれるところだ。
衡交家の先刻の異常興奮は、このためだったのだ。
李翰は冷水を浴びせられた気分で、まだ寝転んでいる狂人を振り返った。
「耕穡家の桑氏は華公主争奪戦にも参戦していない中立公主ですよ。処罰するなんて、さすがにどうかしてる」
「中立は八面討好と同じだよ。教えたよね、李君。八面討好はすべてを失う」
断末魔の声に笑みを落とす衡交家の睛は深紅だ。
それに、と衡交家の睛がこちらを向く。
「李君は、耕穡家を助けてくれって僕に願わなかった。これは李君の招いたことだよ」
「違う……」
衡交家は檻から出て遠慮がなくなった分、いっそう貪婪さと悪意が増している。
李翰が、この友誼と罪の隠蔽のために、あと何を差し出せるか、愉しみながら試している。
肉体の次は、神を屈服させようとしている。
「李君、本音を言いなよ。排除されるのが耕穡家で助かった、仲のいい阿俊や辰君じゃなくて本当によかった、って」
大体きっと今日、耕穡家を排除するのは、衡交家の中で決定事項だったんだろう。そりゃ李翰は、水廌家か辰霊景かの二択を迫られていたから、耕穡家のことは頭から抜けていた。
ならばやはり迂闊だった李翰が悪い?
そうなのだろう。迂闊だからこんなに衡交家に付け込まれる。秘密を共有しているという点では、本来対等なはずなのに。
衡交家の悪癖に応じたばかりの体が鈍痛を訴えている。こんな関係が死ぬまで続くのか。未来永劫こうやって付け込まれ、魂をすり潰されていく。衡交家には勝てない。衡交家には勝てない――
絶望に沈む李翰を、熱いほどの腕の温みが包み込んだ。
「嘘だよ。怒った李君? 僕はただ一緒に、僕の復讐を見て貰いたかっただけ。これから後宮にどんなことが起きようとも、僕といさえすれば、李君は僕が守る。それを伝えたかった」
衡交家は最高の朋友だ。
李翰は散々揺さぶられて疲れきった頭で思った。
頭も切れて、服もおしゃれだ。後宮人として必要なことを教えてくれ、後宮最大の宮だって贈ってくれた。この魔物に心身を全て差し出すことに、もはや何のためらいがあるだろう?
一方、まだ衡交家に屈服せずにいる頭の片隅では、こうも思う。
冗談めかしているが、衡交家の復讐心は、いささか度が過ぎていやしないだろうか。
このままでは後宮は、屍山血河だ。いや、すでにそのものだ。
衡交家を止めなけば。
李翰の力だけでは遂げられない。
誰なら止められる? 李翰は無意識に気付いている。なぜならそのために衡交家に体を開き、助命を乞うたのだから。
その思いを読んだように、衡交家が紅い視線を差し向けてくる。
「いやだなあ、李君は。僕に抱かれてるのに、阿俊……水廌家のことを考えているの?」
この友は実に人心に聡い。
そうだ。水廌家ならば、衡交家に対抗しうる勢力になりうる――
「李君ってば。長くともに行動して、情が移ってしまったんだね。師の目からみても、阿俊は情熱的な好人物、ねんごろになっちゃうのも納得だ。でも、はじめに阿俊の懐に入るために僕らが何をしたか覚えてる? それを知ったら、情熱的なあの子は、どう思うかな?」
衡交家の媚俗な指先が、李翰のそれに絡んでくる。
衡交家の指は果実の内臓色。爪まで染み込むべったりと甘いこの色は、洗ったところでたやすく落ちそうにない罪の色。
「そうだ、こうしようよ。誰が見ても李君が僕の寵姫とわかるように」
とてもいいことを思いついた、とばかりに衡交家は、李翰の髪をまとめている笄を引き抜き、自分の挿していたそれと交換した。
「これでいい。僕らは良き朋、深い絆で繋がってる。僕らの間で背叛など起こらない。これまでも、これからも」
そうだね。
李翰は疲れた頭でつぶやいた。そう思うよ。
衡交家が正しいよ。
衡交家に従うよ。
李翰は目を閉じ、茫漠たる闇が広がる冥獄を想像してみる。
今より安らげる場所は、そこにしかない気がした。
◇◇◇
「――妹妹ったら、無精が過ぎて毛玉がひどいわよ」
世話を焼かせるな、などとこぼしながら、丁寧に李翰の豹毛をすき、ときどき肉球をつついてにこにこしている水廌家の曹小姐はたぶんいい人だ。
「じきに雨が来ますよ。毛皮が重たいから」
こうしてぼんやりしていると、衡交家にメッタ刺しにされた神が、ゆっくり元の形に膨らんでくるのを感じる。衡交家と冥獄に落ちる以外の選択肢が、考えればあるような気になってくる。
雲は厚いが、穏やかな日昳の刑宮だった。
かりそめの寧日だと自覚していた。
李翰には、衡交家と水廌家のどちらが麟後宮の主にふさわしいかわからない。
麟後宮を統べる者に必要な能力は、たぶん高い倫理観でも、深い慈愛でもない。
衡交家の邪智さえ、後宮統治には必要だろう。水廌家の振りかざす正義とて、必ず人を引っ張って行けるとは限らない――
寧日の終わりは唐突にやってきた。
「いくら?」
水廌家は前触れもなく発した。
「あの猴は貴家にいくら出すのよ――後宮一広い宮殿の他に」
李翰は何も言わなかった。水廌家は神獣憑きのせいか変なところで勘がいい。どの一言が命取りになるかわからない。
「衡交家は妾の元教育係よ。手の内は見え透いてる。記録の名目で後宮のどこにへでも入れる彤官は、誰もが耳目にと欲する存在。彤官たる李妹に接触してくるのは想定内よ。でもあの猴、」
と、水廌家はなぜか勝ち誇った顔で肉球をつついて来る。
「李妹の本質までは、正しく心得ていないようね」
李翰は内心で冷笑した。ならば水廌家にはわかるというのか。人の本質が。友愛の名のもとに毎夜心身をむさぼられる激痛が。
このお手軽小姐に飼い慣らされるたやすい獣がいるわけが――
「妾なら水廌学派の力で、李妹の著作を全力であらゆる芸術と融合し、市場展開して差し上げてよ。そもそも書けない李妹には代筆者も必要ね。よくって、人気小説なんてものは、財力と権力で作り出すものよ!」
「そうと決まれば、この書簡を届けて頂戴」
水廌家は芸術支援攻勢によって、百家最弱の忠誠心をお買い上げになると、早速そう命じた。
「ハイ喜んで! どちらまで?」
「礼部の高官連中ときたら、礼法一辺倒で、後宮律への理解が薄いの。刑部主催で学習会を開くから、日取りの打ち合わせをね」
「今日ぜったい雨です、雨になると毛がそり返るんでちょっと」
「芸術融合!」
「うぐ、どうしても礼部に? こっちから頭を下げて、同盟を願い出ろと? あの辰霊景に⁉」
反論するうちに気持ちが高まり、たちまち李翰は豹毛を膨らませた。
「辰霊景は殺人者ですよ。庸夫子を殺したのは間違いなく、やつです。やつは屍を操る降霊術師で、倒莫後の梟棊が欲しかったんだ、そんなやつと手を組めるもんか!」
うーん、幸せだ。と李翰は思った。
まず辰霊景という響きが懐かしい。
辰霊景の所業が悪辣だなんて憤っていた過去の自分は、一体、何を考えていたのか。生と死のあいだを三十六回ほど振り回され、使い捨てられただけのことなのに。全く、いとけなさに赤面する思いだ。辰霊景とは比較にならない魔物が、後宮にはいると知ったあとでは。
辰霊景とは今なら雪解けできそうな気さえするが、でもとりあえず今は辰霊景のことを罵りたい。そうしさえすれば、いっときでも日常が返ってくる気がしたし、それに、水廌家の前では、李翰は辰霊景との恋愛関係が破綻している設定になっているからだ。
「見苦しくてよ、妹妹。いくら喧嘩別れした相手だからって」
「辰霊景の正体はいかれた研究者で人を三十六回も見殺しにして何とも思わない、人嫌いの、豹か死体としかおしゃべりできない左道なんです!」
「哀れな。まだあの恋を引きずってるのね、とうとう譫言まで」
「言葉って無力!」
このくらいでいいか、と李翰は反論をひっこめた。幸福を感じすぎると現実に戻ってこられなくなる気がする。
「姐姐がそこまで言うならやむをえません。わかりました、あとで書簡を届けてきますよ」
衡交家が横暴な人事を行えるのは、勢力が圧倒的だからだ。
水廌家と辰霊景、そして脩身家が組めば、衡交家と拮抗しうる勢力が生まれうる。対抗する力が大きくなれば、衡交家も変わらざるを得ない。
その時ようやく、後宮に平和が訪れる。
この同盟は必ず成るはずだ。
◇◇◇
黄梅天が毛皮を湿気らせて身が重い。
いやな感じの灰色だった。
空が崩れたのは、晡時(午後三時~午後五時)のころ。陰気なそぼ降り雨が日をとざし、雷鳴と閃光が追い立てる中、李翰と耕穡家は、干していた菜果をようやく取り込み終えた。
「恩にきるだあ、小説家。この時期は黴がつきやすいから、早く取り込めてよかっただあ」
「気にしないでください。かつて戸部尚書として権勢をふるった女のしなびてくすんだ肌を見つめに来ただけですから」
「ははっ、おめえも立派な毒入り後宮人になったもんだな。手間をかけさせてすまんなあ。このところ、なんだかめっきり疲れやすくてなあ」
戸部にだけ、一足先に秋がやってきたようなものさびしさだった。
主人の耕穡家は老婆のようだ。
一動作ごとに息を吐き、あれほど太陽に愛された肌も沈みきっている。
ふだんなら先を争って耕穡家の不調を我先にと案じあうはずの取り巻きの姿はなく、かわりに娘子軍の一団が遠巻きに居座っている。
この衡交家の代理監視者たちは、あちこちに腰掛け、時々耕穡家を見て笑い、しまりなく雑談している。精強な軍も戎家という厳格な主を失って久しく、衡交家は兵を律するのには向かないようだ。
衡交家によって戸部人員が大量粛清されたあの日、耕穡家は一人でその遺骸たちを葬った。雨が降り出しても耕穡家の慟哭は止まなかった。その日以来、耕作の風塵はだんだん小さくなった。
誰もが耕穡家に触れることを恐れていた。衡交家の復讐心の飛び火を恐れていた。手の行き届かなくなった僻地の圃は、色を失い萎れてはじめている。
李翰が耕穡家を手伝っているのは、親切心からではない。辰霊景の宮に直行したくないだけだ。
辰霊景との同盟は必須だと頭ではわかる。だが、感情がついて来ない。雪解けのためにかける初めの一声について考えると、頬が火照る。喰い殺そうとしてごめんね、などと言えばいいのだろうか。なんならずっとここでおしゃべりしていたい。
乾物の取り込み作業を終えた頃、陰気なそぼ降り雨と雷鳴の中に、李翰の耳は何か切迫感のある高い音を、切れ切れに捉えた。耕穡家も気づいたようだ。
「何だあ、また諍いごとかあ? このごろ娘子軍の質が落ちて、治安が良くねえからなあ」
高い声で騒ぐ娘子軍に聞こえるように、耕穡家はくさす。
一方、雨の中へ意識を向けた李翰は、流れてきたかすかな臭気に、腹を鳴らした。獣の本性を昂ぶらせるこの匂い――、これは。平穏な日常からもっと程遠いそれだ!
「耕穡家、門を閉じて絶対に外に出ないでください!」
言い置くが早いか、李翰の背中から豹紋が噴き出し、太い野性の脚が地を蹴っていた。
◇◇◇
雨が鮮血を洗い流すそばから、哀れな悲鳴がまた一つ絶え。
その向こうから、ぬめった血眼が現れた。
「……谷神、谷神はいずこだ……」
その目は必死に何かを捜しているようでいて、決まったどこかを見てはいなかった。
特徴的な橘黄色の錦繍衣は乱れ、返り血に染まっている。
「浩蕩王! なんてことを!」
阿修羅神のようだ、と李翰は思った。
王は憑かれたように莫の名のみを呼び、剣を振りかぶってくる――あらゆる手を尽くして仇敵から想い人を取り戻そうと猛る、あの西域の神さながらに。
まったくもって、傾国とは莫のための言葉だ。侍っては王を魅了し、側を離れては王を狂わせる。元凶の莫は退けたのに、王の目の下の黒眼圏はいよいよ終末的色あいだ。
「いまいましい豹め、骨酒にしてやる……!」
後宮で豹が野放しになっているこの状況を疑問に思わない時点で、充血を通り越して濁った目から送られた報せを、王の頭が健康的に処理できていないのは明らかだ。たぶん不眠が極限に達し理性が飛んでいる。それでいて斬撃は霹靂の重み。
負傷させずに組み伏せられそうにない。
李翰は多少焦れてきた。
豹の牙と爪は、相手を屠るためにある。漂う血臭がいたずらに野性を昂ぶらせ、気が定まらない。目の前の男が、ぶらさげられた枝肉に見えてくる――
「――現場に到着!」
その時だ。
「総員、二手に分かれ、一方は豹を援護し王身を速やかに刑府に収容、残りは負傷者を太医院へ!」
峻厳たる声が、混濁した李翰の意識を揺さぶった。
刑官を従えた水廌家だ。
助かった――
後宮は華やかな戦場だ。入宮者は死を覚悟する。
とはいえ、いかに戦国後宮でも十年に一度もなかろうこの惨事で、死者は十余名を数え、負傷者に至っては百に及ばんとした。
「莫氏の幽閉以後、大王のご憔悴はおいたわしいほどで」
とは、刑府に報告にあがった宦官の言だ。
「深夜に乱れて側人を切りつけ、父祖の位牌を毀ち。その度に何とか取りなして参りました。ですが、とうとう今朝、大王は、王殿詰めの宦官を斬り伏せたあと、莫を捜して目についた者を次々に……」
「さすが妾の男。乱心も壮大ね」
水廌家は我がことのように頬を赤らめた。
人を好きになるって怖い。
「いかになさるおつもりですか姐姐、白昼の刃傷沙汰で目撃者も多い。早晩、王の乱行は後宮中に広まって大混乱です」
「四国併呑といい、焚書坑脩といい、昔から浩蕩王の気性の激しさは周知よ、今回のことは後宮の綱紀の粛正とでも発表しておけばいいのよ。麟は法治国家なんだから」
人の心がない事後処理だな……
「苦情対策として、刑宮内へはこれより事態収束まで部外者一切を禁踏とする。各省庁に通達しておいて! そんな些末なことより、本質を見誤ってはいけない。今すべきことはただ一つよ」
気絶した王を見下ろす水廌家の青い睛は、奇妙に澄んで色味を増す一方だ。こんなに危うい色、莫の讌で腹心が処刑された時でさえ見なかった。
水廌家は刑府尚書。後宮の正義を自負する。何だかんだ言って今回の被害にひときわ責を感じているに違いない。
水廌家はどこまでもまっすぐに言った。今すべきこと。それは?
「家族会議よ」
かぞ……?
「妾の男は正妻の妾に断りもなく、莫と脩身家を妾より優先させることを繰り返すという不貞行為を働いた。妾たちはまだ夫婦ではないけれど、婚礼の前に患禍を除けることを嬉しく思うわ。好ましからざる心の動きが二度と妾の男に起こらぬよう、あれこれ抉り出してやる」
水廌家の銀鞭が嬉しそうに高くしなった。
「ほんの百刻だもの、妹妹も同席してくれるわよね!」




