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壺中の蠱女  作者: you
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三章 華公主位争奪戦-3

大地の暖まりを感じて、鳥が重苦しい色の冬羽を落とすように。


陰溝色の服を脱ぎ捨てた衡交家の転身は鮮やか。吏部尚書に就任後、即日、吏府たる游仙宮へ転居すると、模様替えを済ませ、丸文字の招待状で内六部の尚書一同と書記係の彤官を招集した。


その日の日入ゆうがた


游仙宮に用意された広い几上に、親しみやすい家庭風料理と不気味色の飲料が並ぶ。


正式な場では、個々人に几が用意され、そこに食事が配されるが、この場はあえて、皆で同じ几を囲む気さくな形式のようだ。


そんな、なごやか風の食卓とは裏腹に、場は処刑場の雰囲気に包まれていた。客の誰一人として、菜肴に手をつける者はない。


「……正気か戎家は!」


ようやく腹から声を絞り出したのは辰霊景だ。


まず、室の隅に気さくに飾られたまさかりが、燦爛たる光で客の食欲を失わしめた。


鉞は兵権の表徴――本人にとって、命の次に重いであろう兵権を他人へ譲渡するなんて、戎家は気でも触れたのか?


一同の疑惑の視線を、衡交家は軽く流して所信表明した。


「司馬君に兵権なんてないよ。返還できない。妊娠中の庸君に危害を加えて継嗣まで損なった上に、案検中に乱心し冷宮に繋がれた凶状持ちだよ? 危なくて冷宮から出せない。


及ばずながら僕が兵・工部尚書を兼任することにした。これは、戸部への朗報と思ってもらっていい。年々拡張される軍事費は悩みの種。僕は戎家と違って軍縮派だ、手始めに兵部の来年度予算の半減を確約するよ」


急に水を向けられた戸部の長・耕穡家は、冬より長い沈黙の後、


「万物は気から成る。殺伐の気は実りに影響する。何事も平和がいちばんだあ」


と、干からびた根菜のような声で陥落した。中立の信条を悪魔に売り渡すとは、よほど後宮財政赤字なんだな……


辰霊景は青白い顔を精一杯紅潮させて、同志を励ました。


「おい耕穡家、気を確かに持て。銭で横面はたかれたくらいで狼狽するな。衡交学者は用兵に関して門外漢だぞ、そんな者に治安維持を任せておくわけには――」


「初めまして星躔家の辰君」


衡交家が、するりと会話に参入した。


「お話するのは初めてだね、辰君。ずっと会いたかったんだ。僕は君にも贈り物を用意してきたんだ。かねてから礼部が要求してた天象の観測用地、後宮内で最適の場所を用意するよ。


うん、そこには圃があるけれど、耕穡家は今しがた、胸のしこりだった歳費削減のめどが立って心が軽くなってる、耕地の一面や二面、快く融通してくれるとも」


取り計らいに感謝する、と星躔家は頭を下げ、そのままの姿勢で几の下に吐き捨てた。


「衡交学者の等級は、その笑貌で判断しうる。この女、私の見てきた衡交家の中でも相当できるぞ、見ろ、あの眉・目元・唇にかかる黄金比の笑みを……というか全体、どうなってるんだ、海のものとも山のものともつかぬ女が一夜にして兵権と人事権を得て後宮人の筆頭に成り上がっているぞ」


几の下では六部秘密会議が進行中だ。


ぼそりと脩身家が口を開いた。


「貘に豹を放ったのは、衡交家である、という風評が後宮内で立っているようです」


「なんだあそりゃあ」と耕穡家。


「囿苑です。衡交家は百獣が集う、囿苑の管理人でした。衡交家こそが、後宮を混乱させた貘という魔魅を打ち攘った、正義の馴獣者(猛獣使い)。どうやらそういう評判らしいのです」


あの衡交家のことだ、そうなるように風評を操ったのだろう。


「一等まずいやつが一等まずいところに就任しただあ……」


人事権と兵権と掌握した衡交家は後宮最強。実質上の華公主となり、当たるところ敵なしかと思われた――が。


「――衡交家、貴家のお友達外交はお見通しよ!」


世界はまだ水廌家を残していた。


銀鞭が断罪にしなる。己が後宮の主と自負するこの人は、衝撃から息を吹き返すのに人一倍の時を要したのだ。


「妾は認めない! 囿苑送りの前科者が後宮中枢に()()するなんて!」


「やあ阿俊(俊ちゃん)、」


と、衡交家は、客たちに菜を手ずから取り分けながら、気さくに水廌家へ首を傾げた。


「久しく見ないうちに大きくなったねえ、阿俊。もう先生って呼んでくれないの? 昔はよく、僕が隣室に行っただけで、先生、先生、って探し回って大泣きしてくれたのに」


水廌家の頬に血がたぎる。


「師ですって?! 貴家なんか四年前にすでに逆破門よ! この穢らわしい、作意に満ちた、復讐心の塊の、国家転覆猴!」


「衡交家って、水廌家の教師なんですか?」


「妾の人生最大の汚点よ」


ていうか猴って何だよ……。


水廌家には聞ける雰囲気じゃないので、李翰は、隣の耕穡家に視線を向けてみた。


「衡交家は先王の代からいる、後宮の最古参なんだあ」


「あれ? 先代の後宮人は、十年前の王の代替わりで一掃されたと聞いてますよ?」


「おらっちも又聞きなんだが、衡交家は、そのただ一人の生き残りらしいんだあ。御代替わりごとに後宮人を殉死させれば、しがらみはねえ。だが開闢以来培った運営手法まで消えちまうだろ。現実的でねえ。ましてや、新しい後宮の主――浩蕩王あにじゃの王后となる予定の水廌家は、当時十歳の泣き虫児童だった」


衡交家は、水廌家の教育係兼、後宮の引継役だったってことか。


「失脚前の衡交家の勢いは、王后候補の教育係ってことで、それは凄まじかっただあ。後宮内に衡交家を祀る生祠が三つもあったほどだあ。内六部官人は皆、水廌家の居室を素通りで、この生き神様にお伺いを立てに行ってたもんだあ」


王后候補の教育係を任されるくらいだから、衡交家は先王の信任が厚かったのだろう。


「それがなにゆえ囿苑送りに?」


「――貴家なんか、妾の慈悲で、囿苑で露命を繋いでいたくせに!」


睛に蒼炎を燃え立たせて怒罵する水廌家に、対する衡交家は、しれっと皿を突き出した。


水廌家はますます激情した。たぶん水廌家の大好物だったのだ。


「阿俊、僕は四年前の誣告なんか、ちっとも怒ってやしないよ」


それは、衡交家の麟での遊説内容に関係するのだ、と耕穡家は教えてくれた。


かつて衡交家は、麟の先代君主に、洪鈞統一の構想をこう遊説したという。


麟が盟主となり、残りの七国に平和同盟を結ばせ、徳で支配する。戦国七国の諸王たちには、諸侯としてに地方を治めさせ、麟はその中心に存在する。麟主は諸王たちの上に立つ、宇宙で唯一の絶対者、帝として君臨するのだ――と。


水廌家はそれを逆手にとって、浩蕩王にこう訴えたらしい。


衡交家は他国の間者だ。麟に対立する各国を連合させその連携により麟を滅ぼす、そのために動いているのだ、と。


無比の後宮権力を握っていた衡交家は、この誣告に噴飯したという。衡交家に敵対する謀略は一日に一千件露見するが、そのうちで最も出来が悪かったのだ。


ところが、時期が水廌家に味方した。


というか、水廌家はこの期を待っていた。先代君主である父王の喪があけ、代替わり時によくある一連の混乱を数年かけて制圧した浩蕩王が、いよいよ親政を行うその時を。


浩蕩王は父王とは異なり、同盟ではなく、統一を望んだ。


浩蕩王と対極思想にあたる同盟推進派の衡交家は、衡交家が先代王に重用されていた事実も含めて、新王にとり親政を妨げる旧弊となった。


喪明けにより、近く浩蕩王の后として後宮を治める予定の水廌家にとっても、水廌家を差し置き、いつまでも後宮の主人顔を続ける衡交家の存在は疎ましいものになっていた。


ここに、水廌家と浩蕩王の利害は一致した。


そして衡交家の仕事は囿苑での鳥の餌やりになった。


ということらしい。


「四年前のあれは、誣告じゃない」


水廌家は蛾眉を片方つり上げた。


「妾は先んじて害悪の芽を詰んだだけ。浩蕩王の后候補として、妾はあの人の治世の妨げになるものを許さない。前科者の猴など、見せ物がお似合いよ。すぐに囿苑に送り返してくれてよ」


「せいぜい僕を退屈させないようにね」


視線と視線が殺し合う。


浩蕩王後宮の十年。それは水廌家と衡交家、二者の相克の歴史だったのだ。


そうそう、と、ことのついでのように衡交家は話題を変えた。


「兵・工宮の今後の処遇だけど。僕が兵部と工部の尚書も兼ねたから、あの宮はいま無人なんだ。後宮一の大宮を遊ばせておくのもなんだから、書庫にでもすることにするよ。どの省庁も記録物の置き場には頭を抱えてるからね。書庫の管理はそうだな、記録官の彤官どのがいい。お手数だけど李氏は宮の引き渡しのために、少し残ってくれたまえ」


衡交家は李翰に明るく片目をつむってみせた。



◇◇◇



水廌家の身につけた〈流行ファッション〉は正統かつ一流だ。


衣服に例えるなら、新素材の発掘力、加工へのこだわりは時代を二千年先取りする。おそらく百年後には製法が途絶え、国立の博物院に収められる謎の高度文明になるだろう。


一方、衡交家の〈流行〉は地に足が着いている。ひと季節で使いきっても構わない材質の麻衣には、珠玉も刺繍もない。


かわりに、単純ながらも構成的で人好きする柄の捺染(プリント)が施されている。型紙や染料さえ変えれば、変化は無限だ。


後宮最大の悲劇、衣裳かぶりは激減し、頻繁に洗えて清潔で、大量生産がきく捺染は、衝撃的に廉価だった。


水廌家が特別な日の勝負服なら、衡交家は平凡な日々をちょっと楽しく彩るための服。


水廌家の流行が時代を正統に止揚するなら、衡交家のそれはさらに先の世界、正統後に来るであろう社会の提起。装うことがあらゆる身分に解放された時代。そこそこのおしゃれが最低限の資本で得られることを保障された社会。


高級品至上主義の呪縛から解放された後宮人は、思い思いの事柄に時と財を費やす余裕を得る。


捺染とは自由の旗。


捺染とは衡交家の印。


時代はいま、この自然体カジュアルな英雄のものだ。




◇◇◇




数日後の日昳ひるさがり


游仙宮内の楼上。


復辟の祝杯もそこそこに、衡交家は、李翰に訊ねてきた。


「兵・工宮は気に入ってくれた?」


「一人住みには広すぎるほどですよ」


「ふふ、僕の李君への友愛には、全然足りないくらいだよ」


黄金比の笑顔をはさんで、それから衡交家は訊ねてきた。


「じゃあ早速だけど、良朋。どちらから潰そうか?」


後宮の英雄は摘みたての朱果を口に投げ入れ、陽気に二択を李翰に迫る。


風の通る楼上からは、後宮の様子がよく見える。


皐月にしては珍しい陽光の下。視線を落とし、戸宮から出て行く人の列が見える。五十人はいるだろうか。


普通二人で話すなら対面に座るところを、衡交家は李翰の左隣に座る。こうすると親密感を高められると教えてくれたのは他ならぬ衡交家だ。


明確な意図でもって詰められた距離で、赤い果実の香が耳元でささやいてくる。


何を潰すのか。とうにわかりきっている李翰は、本質に切り込みたくないので強引に話題をそらした。


「そういえばなぜ衡交家って、水廌家に猴呼ばわりされてるの」


聴きたい? と衡交家はいたずらっぽく笑った。


「先王の后は、美食に熱心でね。特に猴の脳がお気に入りだった。僕、後宮に出荷されてきたんだよね。知ってる? この世で一等の美食は猴じゃなくて――」


「わーもういい! ごめんね辛いこと思い出させて! 」


「そう? じゃあ本題に戻って――」


「あーっとそうだ衡交家! なぜ司馬将軍は庸夫子を殺めたんです? 何の恨みが?」


「焦らすなあ。他者に恨まれていない後宮人なんて一人もいないよ。さて――」


「ところで!! かねがね不思議に思ってるんですけど、衡交家のいつも飲んでるこの不気味色の液体って何ですか?」


「強壮剤。精力絶倫になるんだ」


「えっ」


一瞬たじろいだ李翰の隙を逃さず、衡交家は手を李翰の首の後ろへ絡め、ゆっくりと体重をかけてしなだれかかってきた。


まずい、これ以上は逃げられない。


捺染の袖が李翰の頬に流れ落ち、唇の柔らかな感触とともに、甘い水果のさざめきが口中に流れ込む。百年も前からそうしていたように。


人を陥れることに異常興奮する後宮人は多いが、衡交家はさらに悪癖で、それが情欲と繋がっているらしい。


衡交家の額が、李翰のそれに触れてきた。


「ねえ、李君」


熱いと感じるほどの体の温み。後宮人への憎しみの熱。


「李君。僕は李君が欲しい。僕にくれる?」


証を示せ。


これからも僕とともにあることを、身をもって示せ。


でなければ、水廌家ないしは辰霊景を潰して殺す。


衡交家の舌たるい声は、暗にそう告げている。


衡交家は李翰の背叛を恐れているに違いない。李翰が相手のそれを恐れているように。


どちらかが背叛すれば、これまでの悪行が露見し、激しい憎しみを浴びせられながら、ふたりとも裁判にかけられて刑死するしかない。


だが、衡交家の要求を呑むのも悪夢だ。


おそらく要求は一度では済まない。後宮から出られない以上、衡交家の束縛は、これから果てしなく続くのだろう。


ならば先んじて衡交家の首を喰いちぎり、口を封じてしまおうか。


後宮で生きのびたいなら、きっとそれが正解。他でもない、眼前の人物にそう教わった。


李翰は深く念じて意識の底に眠る野性を呼び起こす。


豹変が進む。衡交家から見えない手指の先から。


爪で首を切り裂けばすべてが終わる――やれる。殺せる。


熱い、と感じた。


衡交家の熱のこもった指先が頬に落ち、一時、意識がぶれた。


貘から後宮を守るには、衡交家の助力が必要だった。


衡交家が後宮で生きるすべを教えてくれなかったら、あと何回、李翰は死んでいた?


衡交家がいなかったら、ここまで来られなかった。


豹変が解け、肌の色が戻ってきてしまう。


できない。殺せない。


手を繋いだまま、ともに冥獄まで落ちていくしかない――


「ねえ、李君。僕は華公主位を得たくらいでは油断しない。内六部の顕官には全て消えてもらう。僕は連中に正気を食いちぎられた痛みを忘れていない。そうだ、内六部の権限をすべて掌握したら、どこかに李君の席を用意するよ。政事なんて初めはわからなくても構わない、優秀なのを部下に用意するから」


好意めかした衡交家のささやきが、どこまでも厭わしい。


どの道、選ぶことなんてできないのに。


諾、と答えるかわりに、李翰は衡交家の肩から零れ落る髪の、その一束を掬い取って口づけた。厭わしいその女を睨みつけながら。


「笑ってくれないかな、李君。これからふたりですることって、とても愉しいことだよ」


衡交家の手が、襟元に滑り込んでくる。


衡交家は肌に朱の牡丹が幾つも開き、完成度の高い笑貌術と調和して、比類がないほど美しい。


一緒に墜ちていく相手として、悪くないと思えるほどに。


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