三章 華公主位争奪戦-2
「後宮人は二種類しかいない」
下午の刑宮で。曹氏は、李翰を前に言った。
「党派の主と、党派の構成員よ。こたびの食客獲得戦、勝敗の分水嶺は、党派の主――内六部の長たちをいかに自営に恭順させるかよ」
李翰は指を降りながら思い浮かべる。
「ええとまず、刑部は姐姐の管轄だから水廌家派。反対に、礼部は、辰霊景と脩身家が尚書だから、敵勢力の拠点ってことになりますね。六部各省の官吏定員数は横並びだから、初期時点の獲得食客数には差がない。あとは……」
水廌家は鞭をしならせる。
「注視すべきは残りの、吏・戸・兵・工部の動向よ。まず、吏部は尚書たる莫の失脚で機能停止中ゆえ、一旦これは保留。続いて、戸部。尚書は耕穡家。したがってここの票の獲得は堅い」
そうでしょうか、と李翰は首を傾げた。
「戸部は吏部に次ぎ、内六部の序列第二位の省庁で、その上、耕穡家の周りはいつも人が取り巻いてる。人望もあって地位もある。本人は中立ですが、あれは周りが放っておきませんよ?」
耕穡家自身が、華公主に担ぎ上げられる可能性が十分にあるのでは?
「天が落ちて来るよりありえないわね。耕穡家が農婦の母を持ちながら尚書職にまで昇れたのは、官学たる妾の一門が、重農を肯定しているからよ。水廌学は耕穡学の庇護者なの、耕穡家は妾に恩がある」
「そんなものですか?」
「次に、兵部と工部。ここも空位ね。元尚書の戎家は獄中人。とはいえ、莫の一件をみても、戎家がなおも武闘派女子の票を束ねる有力者なのは疑いがいない」
「耕穡家と戎家。まずはこの二者を押さえるってことですね」
今回の抗争は、水廌家に不利だ。と、李翰は予感しはじめていた。
辰霊景の支持者は、辰霊景に命を救われている。信望の熱さはなみなみでない。
翻って水廌家は何と呼ばれているか――鏖殺公主だ。
その懸念を裏付けるように、侍女が本陣へ飛び込んできた。
「申し上げます、耕穡家の桑氏が星躔家の軍門に下りました!」
「なんですって? 耕穡家の恩知らず!」
耕穡家はきっとこう言うだろう。水廌家の頭がお花畑なのだ。と。
もちろん耕穡家は辰霊景に加勢する。今や辰霊景は耕穡家の壮健補助食品の最大の顧客なんだもの。
「まだ戎家がいるわ!」
ところが、その日の夕刻には、戎家もどうやら水廌家に着く気がないようだ、という動向が入ってきた。
「明日にも毒死だ……」
だいたい、敗者に服毒させるなんて取り決め、敵方に圧倒的有利だ。活屍の脩身家に毒は無効だし、辰霊景は左道胡蝶家ゆえ、解毒薬の生成は鼻歌交じりでやってのける。
そんな悪条件を、名門の誇りとやらであっさり呑む水廌家も大概だが、もっと業腹なのは、その水廌家のたやすさに付け込んで、命を奪おうとしてくる敵勢力だ。
李翰も水廌家を騙しているクソ女で、それは自覚があるのだが、なぜか他人が同じ手を使ってくると義憤のようなものを感じる。
水廌家のことは好きでも何でもないが、辰霊景が憎い。辰霊景が憎いことによって、やつに敵対する水廌家には親愛すら覚える。
ぜひ水廌家には勝利を収めてほしい。協力も惜しまない。
しかし李翰も大した発言権や人望があるわけではなく、ここから盛り返す方策が思い浮かばない。
憤激と焦燥のあまり脚が豹紋になってきた李翰をよそに、なぜか水廌家はいそいそと銅鏡を覗き込み、化粧直しを始めた。
え、今それする必要ある?
そう思っていると、あれよあれよという間に、李翰はやってきた輿に押し込まれている。
「耕穡家や戎家のような鄙人だけが麟人じゃないのよ。それを教えてあげるわ」
不可解な発言とともに、水廌家も輿に乗りんだ。
事情がわからないまま、輿は動き出した。
ほどよく湿りを帯びた皐月らしい夕べ。
軒先に揺れる灯籠の列は、刑府の広大な野外法廷に集った群集の顔を水底の模様で彩る。
唐突に、空に光が弾けた。落雷に似た轟音が耳を打つ。
游仙宮から押収した莫の研究書を応用した趣向だろう。材料にどれだけ金をかけたのか、刹那、刑府全体が白昼となって、刑宮の楼閣にかかる垂幕の文字を浮き上がらせた。
「丁未年夏期・後宮衣裳之会?」
何だそれは。
直後、舞台から声が挙がった。
「今期の新作の趣旨は、水府(竜宮城)である!」
今期? 新作?
「――刑女! 刑女!」
李翰の疑問は舞台を囲む怒涛の歓声にかき消された。刑女! 刑女! 刑女!
歓声を受け、舞台上で開会を宣言する海底の民風の衣裳の人は、たしか刑府の侍郎だ。
両手の灯籠を揺らして光のさざ波を作る照明係も、階上から長布を垂らして海草のゆらぎを演出中の美術係も、群衆の流れを管理している整理係も、みな刑府で見た顔だ。
この催し、どうやら刑部挙げての興行で、たぶん刑女は刑部女子の略だ。
司会進行の侍郎は、後宮内情勢不安による開催延期について詫びたあと、観客席に海の気配を引き込み始めた。ふだんは罪人を諭旨する、馴れも突き放しもしない語り口は、情景描写をさせると絶妙の味わいがあった。
磯香の幻想が客席を満たすと、再び空に火花が開き、催しが始まった。
水府となった刑宮で、長たる水廌家は、もちろん竜王だ。
一笑さえ投げず腰に手を当てて舞台に立てば、観客はなぜか逆に沸き立った。背後から当てられた照明が、水界の王の高慢とその斬新な装いを鋭く際立たせる。
贅沢さ、それは量だ。
料理なら器の数、衣裳なら刺繍の色数と重ね着の数。
だが今宵、水廌家は提案した。
真の贅沢とは、量ではなく素材であると。
竜王たる水廌家が、客席に大きく張り出した舞台を進めば、衣裳は海中を進むしなやかな千の鰭となる。
伝統的な上衣と下裳の様式でありながら、構成する糸は時代を体感二千年は先取り、放れば朝まで宙を漂うのではないかと思われた。それでいていたずらに透けず、夜光貝の光めく幻惑の質感で観客の嘆息を絞った。
「あの口紅欲しい! 水色のやつ!」
「あの香、海の匂いがする! 海行ったことないけど!」
「あの裙子の薄さ! 水廌家あいかわらず頭おかしい! 絶対引っかけて破れる最悪! 三枚買わないと!」
系譜は王家の姻戚に連なり、有金かつ驕横な鏖殺公主。
人を突き放す要素しかないのに、意外にもその装いは、熱い視線の的だ。
舞台で魚に扮した刑女らは、演劇さながらの早着替えで、紅鱗から黄鱗へ、白鰭から黒鰭へと転身してゆく――
「なにゆえ刑府が衣裳発表会を?」
刑府はどちらかといえば奢侈を取り締まる側ではないのか。
首を傾げる李翰に、刑女のひとりは笑って答えた。
「この集いは元々、冷宮の作業展でして。当時は、竹木の人形なんかを作っていて、目つきが怖いだの表情が恨みがましいだので、とにかく売れませんでしたし、そういうものだと我々も思っていました」
「へえ……」
「水廌家曹氏が尚書に就任してから、状況は一変しました。曹尚書は自らの持ち出しで布を買い付け、有名衣裳家監修のもと、冷宮で仕立てさせて。今じゃ、冷宮品牌を官員価格で得んがために刑部入職を志願する不心得者を選別するのに苦慮するほどで」
「――追加発注の図録、どんどん配って! 出演予定の宦官三名が王に殴られて負傷とのこと、至急代役を! 入場者全員配布用の軽食は直前まで凌陰に入れておくこと! 効率を重視して食物中毒を出したら生首飛ばすわよ!」
八方へ指示を下し、倒れ込むように舞台袖に戻った水廌家に侍女が群がり、汗を拭き取り、脂粉と雲母をはたき直し、熱でほつれた髪を整えていく。
水廌家の肌の赤みは、会場の興奮そのものだ。
「やっとわかりました。これが、水廌家の支持層なんですね」
綺繍綾羅を脱ぎ捨て、冷水でむくみ取りにぬかりない水廌家は、誇り高い笑みを浮かべ。
「まさか。こんなものは、ただの持てる者の義務よ。食客争奪戦? そんなものは行う前から妾の勝利よ。莫のこともあったし、麟後宮を束ねる華公主の座には、麟人が就くべきとの声が強い。宇人の星躔家と塢人の脩身家、客公主の二人が手を組んだのは、李妹に対する私怨ばかりではないのでしょうよ」
乱世以前、洪鈞には徳治の理想的国家・壘があった。
理想的国家とはいえ、統治者の家系に聖賢ばかりが現れるものでもない。やがて弱体化した壘は、諸侯や異民族の台頭をゆるす。二百年乱世の始まりだ。
群雄の中から台頭したのが、戦国の八雄。
麟・宇・址・塢・垠・酖・矼・贔の八国だ。
麟は浩蕩王治世より軍事に注力し、址・塢・垠・酖と続けざまに併呑。洪鈞上の国家は残り四つ。麟は洪鈞で最大版図を誇る、最強国になった。
「妾、入宮してから何年か、毎日泣いていたの。水廌家曹氏の嫡女ともあろう者が、土山みたいに垢抜けない城に住まねばならないことが、悲しくて仕方なかった。そんな時、浩蕩王は約定してくれた」
――十年だ。
――十年で。そなたの泣くほど羨む、洗練された文化で、技術で、人材で。煌煌たるあらゆるもので、そなたの宮を飾ると誓おう。
「王はその言葉を守ってくれた――」
文化、軍事、そして生産力さえ後発国だった麟を、洪鈞七国のすべてが見下していた。
それを、浩蕩王は一代で覆した。洪鈞文明の最西端という地理上の欠点を逆手にとり、さらに西方の地から、洪鈞外の文化を輸入したのだ。西域の異民族との交易で得た騎馬戦術で、異文化で、洪鈞文明に安穏と浸かった他国を蹴散らした。
東西の精華が高度に融合した麟刑宮。廃棄される侍女用の割れ皿に施された釉薬の解析には、他国が千金の報奨を掛けている。
莫と脩身家に寵を奪われながらなお、水廌家が王を慕えるのは、王から贈られた、この煌煌刑宮ゆえにだろう。
「あの人は内外の戦争に疲れ、国政も省みず臣下に手を挙げる男になり下がってしまったけれど、今度は妾があの人を支える番よ」
この光り輝く豪奢な刑宮は、水廌家の幸せと誇りそのものだ。
後宮人たちは、次々に旗幟を明らかにした。
水廌家の刑宮と辰霊景の望舒宮にはそれぞれ、獲得した食客の数だけ、壁に牡丹が咲いた。
三日が過ぎる頃には、青い牡丹が刑宮の壁面の一つを埋めた。
「曹尚書に申し上げます。わが勢力の食客数が百を越えました」
「星躔家は?」
「お答えいたします。望舒宮の壁の白牡丹も、百そこそこかと」
「ふん、拮抗しているのね」
此も百票、彼も百票。勝負は五分五分か――
いや? なぜか報告をもたらした侍女は、退出せず所在無げに目をさまよわせている。
「何よ、星躔家の方が見込みがあると言うの?」
主人である水廌家の問いに、ますます侍女は俯いた。
その反応で、ざらざらする感覚が、李翰の胸でさらに高まった。こらえきれず、そろそろと口にした。
「聞きそびれていたんですが、後宮の全有権者数はいかほどで?」
「お答えいたします。その数、千あまりかと」
「千⁉」
水廌家も固まっている。知らなかったらしい。人のことは言えないが、命を張った勝負をしているのに、いいかげんな女だ……
「内訳は二百名の公主、四百名の女官・宮女、四百名の宦官でございます」
「浮動票がまだ八百も残っているというの!」
李翰と水廌家が顔を見合わせた直後だった。
「吏部尚書のおーなりー」
明るく楽しげな先払いの声とともに、謎の一行が来宮した。
水廌家が勢いよく腰を浮かした。
「吏部尚書ですって? まさか莫めが復活したっていうの――⁉」
水廌家の顔には、貘に生爪五本を持って行かれた衝撃が蘇っている。
「落ち着いて下さい姐姐、莫氏は封印したじゃないですか」
「だったら吏部尚書って何者よ!!」
水廌家の涙すら混じった悲鳴に。
「――僕だよ!」
陽気な返事が室内に響いた。
先払いの女官の列が割れて、奥から進み出たのは。
こじゃれた初夏色の深衣を翻し、軽快な足取りで気さくにこちらへ向かってくるのは。
水廌家の手から驚愕のあまり銀鞭が滑り落ち、李翰の体は首の下まで一気に豹変した。
陽気な声の主は、針水晶めく白髪交じりの頭を小さく傾け。向き合う者に好感しか与えない設計の笑貌とともに、名乗りを上げた。
「新任の吏部尚書、鬼締だよ? しばらく現場を離れてたから、ご迷惑をおかけすることもあると思うけど、早く仕事を思い出して姉妹の役に立つからよろしくご教示下さいだよ! みんな大好き!!」
新しい吏部尚書、それは囿苑の人――衡交家だった。
あの唯我独尊の水廌家でさえ、まだ言葉が出ない。
衡交家が腰帯から提げていたのは、捺染の便衣に不似合いな仰々しい吏部尚書の印――まぎれもない、華公主の証だったのだ!
後宮統治の絶対安定数・八百票を得た衡交家はもう、廃人の目をしていない。




