三章 華公主位争奪戦-1
刑宮に戻った水廌家は侍女に命じ、李翰の体調を診させると、回復剤を寄越してくれた。
李翰はけだるく体を壁にもたせかけて、辰霊景に殺されかけまた辰霊景を殺しそこねた虚無を抱かえながらごちた。
「もう小才、囿苑に住みます。今日だって豹用の丹でまんまと喉をゴロゴロしちゃうし」
水廌家はずっと窗外を見ながら、そっけなく答えた。
「豹変のことは気にしないでいいわよ。莫は貘疾(貘憑き)だった。貘疾がいるなら、豹疾もいるでしょ。その豹、莫を討った大功もあるわけだし、誰も貴家を排斥しようとは思ってないわよ」
そんなことより、と。外を見ていた水廌家は、急にあらたまって李翰に向き直った。
頬には滂沱の涙が伝っている。
この激情家、またぞろ感情を押さえきれずにいる。今日は何が?
水廌家はむせびながら言った。
「ありがとう李妹。妾の側に着いてくれて」
どうやら次期華公主争いのことらしい。と、李翰は水廌家の頬を手巾でなぞりながら察した。
そういえば、李翰は辰霊景に恋慕しているという設定だった。
水廌家は、李翰が恋情から辰霊景を次期華公主として推すのではないかと不安になり、李翰を奪還すべく望舒宮に乗り込んできたのだ。
李翰は霊景との一戦を思い出し、心の中の獣が騒ぎ出すのを感じながら吐き捨てた。
「辰霊景と小才は、互いに対する感情が破裂したんです」
「またのろけ? その全身の矢傷、愛が深すぎてむせそうよ。貴家たちの痴話喧嘩に割って入るの、すごく恥ずかしかったんだから!」
戦国の恋愛観すごいな。
「とにかく! 辰霊景との間には、深刻で修復不可能な問題が発生したんです。もうあのような方とは決別です」
すると水廌家は神妙な顔で頷いた。
「そうね、恋人の豹に矢を射かけるっていう性技には、いささか上級者すぎて興奮できないなと妾も思っていたわ」
「辰霊景との将来は、ちょっと考えられなくて」
内実はともかく、その心理は真実だったせいか、水廌家は李翰の手を包み、まっすぐな眼で言った。
「心を強くお持ちなさい。妾が仇を取る。妾の妹を愛情表現の名目で虐げた動物虐待者の鼻を、必ずやへし折ってやるわ」
「俊録姐姐……」
後宮に放り込まれ三十六回殺され、身は半豹となり、左道研究者に利用されたあげく、今日は弩で穿たれた。
ここは巫蠱の壺の底。水廌家の啖呵は、毒々しく澱むこの後宮で、この上なく美しい一条の風となって李翰の胸にそよぎ込み、忠心をくすぐった。
「姐姐……この牙は貴女のために!」
流されやすい豹と感激気質の千金はしかと手を取り合い、真実の姉妹となった。
◇◇◇
莫が事実上、華公主を廃されたことにより、権力闘争の波がしらが、誰の目にも顕在化しはじめた。
誰もが次期華公主たらんと波を立て、波は打ちあって、しだいに二つの大渦へと収斂しつつあった。
渦のひとつはむろん、水廌家・曹俊録だ。
麟王家の姻戚にして、官学水廌学派の純血種。治外法権の荘園持ち。歩く独立国家。元来、華公主位は水廌家のために用意されていた。
莫の恐怖統治が除かれた今、曹俊録こそが正統なる権利者。曹俊録こそが王道。
水廌家が進む歩檐(屋外の渡り廊下)は八種類の清掃用具で清められ、その上から摘みたての芳しい青牡丹の花葉で彩られた。
水廌家の移動に随伴していた李翰が、顔にかかった花葉の雨を払った時だ。
「――刑部尚書のお通りである、道をあけて拝礼せよ!」
先払いの高慢な声が、前方で上がった。
後宮恒例の序列確認だ。
(意外だな、最近は見なかったのに……)
内心で李翰は首を傾げる。水廌家が次期華公主候補として台頭して以後、水廌家に道を譲らない者など、なかったのに?
「――嘆かわしきかな、礼を解さぬ者は」
水廌家の先払いに対峙する声は、落ち着き払い、どこかすまし他声で続ける。
「内六部の序列をお忘れのようですね。書面においても朝議の席次においても、礼部は常に刑部より右に置かれます。賤職が道を譲るのは世の理です」
「賤職!? そなた、いずれの宮の新入りじゃ? なっ、貴女様は!」
高慢なことで知られる水廌家の先払いが、最大の武器たる高みからのことばを失った。
このすまし声、まさか……?
けれどそんな、あの人は……!
李翰は、もどかしく花葉の緞通を踏みしだき、驚愕に硬直したままの先払いをすり抜け、列の頭に出た。
そこから花葉の色が変わっていた。青から白へと。
視覚を刺し貫いたのは、白い進賢冠に、白い襌衣。束ねられた白髪。血の気のない白い面には澄ました目鼻。降り注ぐ花葉さえも、まごうかたなき不祥の純白。
忘れるものか、この人は!
「庸夫子……っ!? なのに服が黒くない!! 」
首胴ところを異にし、泉下の客となったはずの脩身家・庸子彬がそこに佇んでいた。ただし全身純白に変化して。
白は葬礼。白は死者。
呪われしこの麟後宮では、魔魅で飽かず鬼まで出ると言うのか。
李翰は頬に手をやって、夢と現の境を確かめた。
つねった頬には、もふもふした豹毛の感触があった。だめだ、ちゃんと壺の底だ。
落ち着こう。庸夫子によく似た姉妹の方かもしれない。
李翰は内心震撼しながら、ぎこちなく揖礼した。
ひとかけらの挨拶も返ってはこなかった。礼が生業の脩身家が行う、最上級の拒絶――間違いない、これは庸子彬だ。
死者の睛が、静かに呪詛のことばを放つ。
「滑稽千万なことです。殺人者に久闊を叙されるとは」
「誤解です、夫子を殺したのは小才ではありません!」
「まだ佯言を重ねますか。よろしい。師として厳ならざるは師の怠りなり。弟子の虎狼の心を見抜けなかった予にも責はありましょう。子もこちらへいらっしゃい」
脩身家は瞬きもせず、ぬっと両手首を突き出して李翰の首に絡みついた。白い、死者の匂い。
何事か、と思う間もなく、頸に激痛が走り、白花の緞通が赤く濡れる。いきなり血みどろになった歩檐は騒然、宮女たちは掃除量の増加に悲鳴を上げた。
李翰が脩身家を仮死状態にしなかったら、脩身家も殺されなかったかもしれない。だが脩身家を殺めたのは李翰ではない。死霊に祟り殺される筋合いはない。
それにいくら恨みがあるからって出会いざま、人の頸を噛んでくる脩身家には返報すべきなのでは? というかもう痛さのあまり、返報する選択肢しかない。
「――私の顔に免じて、この場は矛をおさめてくれないか、脩身家」
聞き覚えのある涼しい声に、李翰は更なる怒りで目を剥いた。
水廌家と華公主位を争う存在――後宮に生まれたもう一渦へ。
李翰の頸から、皓歯が離れた。
「恩人にそのように言われては。愚かな弟子への指導はまた後日としましょう」
口元から滴る赤色をこれまた白い手巾で丁寧に拭って、脩身家はすまし顔を取り戻した。
そう、水廌家の一行が行き会ったのは、脩身家ではなかった。脩身家は取り巻きの一人にすぎない。
脩身家の白衣の脇から、軍師間で今後流行しそうな四輪椅子が進み出る。
椅上にふんぞりかえる左道胡蝶家へ、李翰は憤慨して詰め寄った。
「どこまで悪辣なんだよ辰霊景!! また時を戻したのか、ん? ということは、星砂鐶はいくつもあったってこと? 騙したな!」
「私の研究は新たな階梯に達した。君という失敗作から得た経験でさらに時の流れを調整し、脩身家を動く屍として蘇えらせたのさ。脩身家は屍であるがゆえ、時を戻しきった君のように何度も死ぬこともない。これを私は活屍と名付け――ぐあ、手を噛むな!」
この左道胡蝶家の言を二度と真に受けないと、李翰は誓っている。
だが、最後に会った時よりもさらに虚弱になり、自力歩行すら難しい様子の辰霊景を見て、一つ気付いたことがある。
辰霊景の特技は、蘇生・回復費用貸付け詐欺。
つまりそれこそが、人あしらいの拙い辰霊景を後宮で生かし、のみならず今や次期華公主最有力候補として、水廌家の最大の対抗者たらしめている理由。
辰霊景は弱点だらけだ。財力でも家格でも水廌家には遙かに及ばない。性は狷介で、すぐ寝込む。
だがきょう理解した。
辰霊景の本質は、後宮の母、というあの綽名だ。
李翰は想像する。瀕死の後宮人が望舒宮へ運びこまれる。すると時々、奇跡的に回復する。辰霊景の所持する星砂鐶によって。辰霊景はそれを偉大な星の力だとか称する。評判が立ちすぎないように、蘇生させる者を慎重に選別するのだろう。
辰霊景は、死せる者に命を吹き込み再生させる。〈後宮の母〉とはよく言ったものだ。
辰霊景の支持者は、辰霊景に買収されたのではない。信奉している。命の恩人として。この絆は固く揺るぎない。
辰霊景はこの日のために蒲柳の質の体を酷使し、文字通り命を削って人命を救い、支持者を増やしていたのだ――そう、四輪椅子から立ち上がれないほどになるまで!
「――あら星躔家、妾の李妹と別れた早々に、もう新しい女? 見下げ果てた軽薄ね! しかも何よ、新しい女って誰かと思えば脩身家じゃない! 脩身家ってば、貴家、目が覚めたのね! ずいぶんなお寝坊さんですこと、この人騒がせ丫頭!」
やっと列の奥から追いついてきた水廌家が、話をややこしくし始めた。一度首と胴が離れたら寝過しもくそもないと思うが、洪鈞世界において生死の境界は曖昧だ。
水廌家はわずかに涙ぐんでさえいる。当たり強めに脩身家に絡んでいるのはたぶん照れ隠しだ。
「しかもそんな白い服なんて着ちゃってこれみよがしに! ちょっと死線を越えたくらいで、新たな人生観を感得したとでも?」
「これは人生の喪服です」
白づくしの脩身家は淡々とかぶりを振った。
「それに曹姐姐、長公主は姉妹です。内訌するようでは、民の範たりえませんよ」
「だったら年少の貴家がへりくだり、道を開けなさいよ脩身家!」
「それでも――」
「ちょっと脩身家、聞いてるの?」
「それでも仮に争うならば。その期間は最小限にして、礼法に則った様式であるべきです。それこそが後宮人の中正――そうですね?」
すましがおの黄泉がえりには妙な迫力がある。
「黄色い嘴のくせに、言うじゃない」
水廌家は珍しく語調が弱い。
脩身家の体が〈原状復帰された〉今となっては、事件自体があやふやになってしまうのだろうが、刑府の長である水廌家は、脩身家の遺体損壊(というか殺人)事件に、口には出さないがひときわ罪悪感があるらしい。
「星躔家の辰兄と水廌家の曹姐は、ともに華公主候補の最大勢力です。一方が辞退すれば、華公主はおのずと定まりましょう」
脩身家は、辰霊景にいったん目配せして。
「予に、良案があります」
と、重々しく切り出した。
「刺客に誣告、讒言、佯言、寵愛の濫用。これらは世の模範となるべき麟後宮の品位に添わぬもの。より人望が厚い者、より有徳の者が、人の上に立つ、これこそが天意にかなうものです」
「だから貴家の講義は午睡科目って言われるのよ。結論だけ仰い」
と、水廌家がせっついたが、脩身家の冥界帰りは飾りじゃない。馬耳東風だ。
「古来、春伯君しかり秋仲君しかり、有徳者の元には人が集まります。集った食客の数が、その者の徳の高さともいえます」
「後宮人を食客に見立て、その所有数を票数として、多寡を競うと?」
「ご明察です。後宮人――すなわち、公主、女官・宮女、宦官、この三者から、より多くの支持を得た方が、次の華公主です」
「有趣だわ。お堅い脩身学者にしては上出来の趣向じゃない」
水廌家は、鼻先を天に向けて戦闘意欲十分だ。
それから、と。
白い脩身家は澄まし顔で、重要事項を付け加えた。
「敗者には、毒を」
天を向いた水廌家の鼻が一瞬、呼吸を止めた。
「華公主辞退の意を示すにはこれが最も明快でありましょう」
瞬きもせぬ死者の冷淡な睛は、まるで殺しにかかるように目を細めた。
「麟に冠たる思想家一門の曹氏が、ただの一死を懼れる程度の公主であるとは思いませんが」




