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壺中の蠱女  作者: you
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二章 莫谷神-9

目が覚めると、新しい朝だった。


游仙宮は無人となっていた。聞けば、正体を看破された莫は、その夜のうちに霊符を貼り重ねたはこに封印され、匣は冷宮地下に厳重に蔵されたらしい。


莫谷神は急な病を発し、華公主の位を一時退くことになった――それが吏部の公式発表らしいが、快気の宣言はとこしえに行われないだろう。


風も変わっていた。


さわやかで残酷だった余月の風は止み、皐月特有の湿り気が肺を満たす。


李翰は味わうように深く息を吸い込んだ。


後宮は、余月を乗り越えた。陰惨な未来から救われたのだ――




意識を取り戻した皐月の二日。


李翰は不機嫌もあらわな懐手に大股で、歩を進めていた。


後宮人たちは逃げるように左右に分かれ、道を成した。


冷宮における異類どうしの血戦の顛末は、あまねく後宮に広まっていた。一部の後宮人は獏を組み伏せた獣の正体を知っているのだろう。


李翰は望舒宮を一睨し、その星宿紋の扉を、人ならざる脚力で蹴り開けた。


「辰霊景はいずこ!」


辰霊景は珍しく起床しており、星図の屏の前にたたずんでいた。


「そろそろ説明してくれませんか辰霊景」


「よかろう」


辰霊景は堂々と受けた。


「説明しよう。実は李翰は改造人間なのだ。絶望の極点に達するとその身は猛き豹に変ずるのだ」


辰霊景は得意げだ。いかれた研究者の典型例みたいな顔をしている。


「莫は魔魅だ。人の力では倒せない。そこで私は考えた。猛き獣は破魔の力を有する。これを対峙させよう、と。だが、獣を飼い慣らすのは易くない。そこで私は人の死魂と豹の魂を融合させた。ただの豹じゃない。白額だ。古来もっとも凶暴と言われる相だ。新生・李翰の魂は、凶獣との融合体――対莫最凶超強兵器なのだ」


「本人に無断で人体実験とは、やってくれるじゃないですか辰霊景」


辰霊景はとうとう耐えかねたように眉根を寄せた。


「私は君の債権者だぞ、それを三度も私の神聖な名を呼び捨てて!」


「黙れ、質問に答えないと食べちゃうぞ」


肉食獣の瞳孔から、辰霊景は気まずそうに目をそらした。


「小才が知りたいことはただ一つ――どうして小才に倒莫を依頼したんですか? 莫氏と辰霊景は信頼で結ばれた関係だったのに?」


辰霊景のいけ好かない花容が、さらにいけ好かない形にゆがんだ。


「信頼? あの慈悲天殺の莫に、朋友なんかいるわけが……」


「辰霊景。胡蝶学派は諸子百家中、最も羽化登仙の術に熱心な一門だ。錬丹術もその一つ。丹の材料には有毒物が多い。体を蝕まれ若くして病む者が多いとか。症状が深刻なら血も吐くよね。また、胡蝶家は登仙のため肉魚を絶つ。辰霊景はいつ訪問しても皿の肉魚を小才に譲ってくれましたね」


「それは君が飢えた獣みたいにタカってきたからだ」


「辰霊景が星纏家ではなく胡蝶家だったなら納得のいくことがある。月宮草の説明を受けた時の、あの異様な取り乱しようだよ。あれは月宮草に対する無知ゆえじゃなく、その反対。辰霊景は誰より本草に詳しいのに、無知を装わなければならなかったから。辰霊景は体調を心配されただけで腹を立てるくらいの狷介。知り尽くしている月宮草についての講釈を聞かされたあの場面は、挙動不審になるほど不愉快極まる状況だったんだ」


生気の薄い、青白くかさついた辰霊景の唇が挑むようにゆがむ。


「私は時を戻してみせただろう、それは君も知っているはずだ」


本草学は胡蝶家の専売。時の移動は星躔家の専売。


辰霊景が胡蝶家なら、時を戻せないはずだが――


「辰霊景には協力者がいたんだ、星躔学者の。聞いたよ。辰霊景と莫氏は同じ宇国の産だそうじゃないか。しかも入宮同時期だと。莫氏こそが星躔家だったんだ。莫氏と辰霊景は入宮前に互いの学派を入れ替えていた」


「くだらないな。何故そんなことをする必要がある?」


「そこがわからないから教えて欲しいんだよ」


李翰が力を入れると、首筋から黄色と黒の猛獣の毛がざわざわと肌を覆った。獣の目で李翰は訊ねる。


「莫氏と何があったの? どうして仲違いを?」


霊景は観念したのか、星図の屏を背にして腰を下ろした。



凭几ひじかけに体を預けた霊景は、だるそうに話し始めた。


千金おじょうさまどもにとって、他国後宮への入宮は災厄なんだ。名目上は、友好国間の人事交流だが、その実質は質子ひとじちで、失敗すれば国際問題だからな。甘やかされて育った千金にこなせる任ではないさ」


「辰霊景も莫氏も、生来の公主じゃないってことですか?」


「私は、研究費用をひと稼ぎできればいいと思ったんだ。不老不死なんか探求してると、金鉱ひとつくらいは、すぐに溶けるからな」


課せられた杖刑(棒叩き刑)を、当人に代わって受ける業者もいる昨今、公主の代行業があっても何の不思議もないが……。


「百家最弱の小説家は知らないだろうが、学派とは一つの社会なんだ。常に勢力拡大を狙っている。他国後宮に入れるなら、願ってもないことさ。たまたま宇王室が麟へ出向させるための代理の宇公主を内々に募集していて、私も莫も、その選に通ったというわけさ」


確かに辰霊景の秀麗な容姿は、宮廷向きだ。


「私たちが紛い物の公主だと騒いでも無意味だぞ、これは上流階級の公然の秘密だ」


「莫氏と組んだのはなぜ?」


「星躔家と胡蝶家は、元をたどると同源の学派なんだ。莫とは、会ってすぐに意気投合した。私たちが麟後宮へ入った三年前は、水廌学派の専恣時代、名だたる百家はあなうめに、その書は焚毀された。そんな後宮で、所属学派を――真の実力を明かして暮らすのは、危険だと判断したんだ」


「そのころ莫から、星砂鐶を譲り受けたんだね」


「麟後宮では、私は〈星躔家〉だ。時ぐらい戻して見せないとな」


なるほど。


「遊説によって王寵を得ることには自信があった。私たちの学派の思惟と学術は天下無比だからな。だが麟主は水廌学偏重で、一年経ってもお呼びはかからなかった。代理稼業は成果を上げてこそ。いつまでも王の歓心を買えぬ私たちは、強制退場寸前のところまで来ていた」


辰霊景は首に手刀を当て、横へ引く動作をして見せた。


「私は少々焦りを感じ始めていた。子を生むことを期待されていた女人の莫は、なおさら冷静じゃなかったらしい」


公主の代理業も楽じゃなさそうだ。


「入宮して一年余が過ぎた頃、やっと転機が訪れた。私は、王がこのところ不眠である、という話を聞きつけた。すぐに最高の薬湯を煎じて王殿に参じたところ、王はすでに莫に夢中だった。莫は私に何の断りもなく、その身に貘を降ろしていた。さすがは戦国の産湯に浸かった女だ。出し抜かれたんだ、私は、同僚面したあの毒婦に」


貘は夢を食う。それで莫はただの膝枕で不眠の王を陥落させられたのだ。


「華公主冊立の祝賀にかこつけてようやく面会したとき、莫は私を見てもぽかんとしていたよ。私は悟った。莫の精神は、すでに貘に呑まれた――莫は星躔家の術を失っていた」


それで、二度と星砂鐶が作れなくなったのか。


「貘は悪夢が好物だ。しかも愚物じゃない。やつははじめこそ、夢見のよくない者を探して宮中を徘徊していたが、すぐに、もっとよい採餌方法を思いついたんだ。養殖だ。悪夢は現実の心理的負担から生ずる――ならば、それを煽ればよいのだと。そこからの暴虐は、君も知る通りさ」


霊景は皮肉っぽく唇を釣り上げた。


「貘は夢を喰うたびに知恵をつけて行った。実際、莫がやつした胡蝶家よりも、貘のほうが、それらしかったほどだ」


霊景は話し疲れてきたのか、青い顔でもの思わしく息をついた。


「あの毒婦と私は同国人。最悪なことに、学問系統まで近い。早急に始末しないと私と私の所属する胡蝶学派までが排斥の対象になる。


だが莫の王寵は今や絶頂、表だって対抗すれば向こうも全力で潰しにくる。それゆえ、安全な対抗勢力が――私の意図を仮託した傀儡が必要だった」


「それが――小才を市中から略取してきた真相?」


「実によくやったよ、君という傀儡は。時間渡航三十六回分の費用に匹敵する働きだ」


「やった、まちに帰ってもいいんだね!」


「もちろんだ、契約は満了だ」


険のない、晴れ晴れとした霊景の表情が珍しくて、一瞬気を取られた。それが運の尽きだった。


流星のごと。


星図のついたてを打ち破って飛来した数十の(いしゆみ)が、李翰を穿つ。


霊景は、連弩の発射装置を屏の後ろに仕込んでいたのだ!


李翰は血で弧を描いて吹き飛びながら、その肌はたちまち黄と黒の豹紋に覆われる。食い込む石矢は、豹変により隆起する筋肉によって臓腑に至る前に止められ、身震いによって弾き飛ばされた。


「何すんだよ!」


李翰は吼えた。


「毒婦は滅びた。ならば傀儡も用済みさ。そして、」


李翰を白額の豹に変えた張本人の霊景は、もちろん豹言語を難なく解する。


「新しい華公主は――私だ」


そうか、そういうことか。


莫の失脚によって宙に浮いた権力を自分が握ること――それこそが霊景の目的だったのだ!


「この左道胡蝶家が!」


彼方は草食の虚弱体質、此方は身の丈一丈の豹。


先手こそ取られたが、勝敗の行方は明白だ。


李翰が後脚で跳躍すると、弩の発射装置は前脚で粉砕された。散り飛ぶ木片の中で、青ざめた霊景と目があった。


よくぞこれまで体よく利用してくれたものだ。


おかげで李翰の人生は壊滅的だ。おまえなどは、この牙の下に沈め、エサにしてやる。どこから食われたいか選ぶがいい。


脚か。頭か。それとも腹から裂き食らってやろうか――


霊景は怯えたのか腕を振った。降伏が許されるならこの世が戦国と化すものか。李翰は死に至る牙を開く。


とたん、口に礫が飛び込んだ。思わず勢いで飲み込んでしまう。


まず訪れたのは熱だ。


こみ上げる熱と同時に体が弛緩し、喉からだらしなくゴロゴロと甘えた声が漏れる。李翰は床に丸まってしまっていた。


霊景が勝ち誇ったように、豹耳を摘んで息を吹きかけた。


「飼いネコに手を噛まれる愚を犯すわけがないさ」


ぬかった――頭に血が上っていた。胡蝶家は本草学の大家。獣を従える丹薬くらい、当然持っていると想定すべきだったのに。


霊景が一仕事終えた猟師のように、うっとりと豹柄を叩いてくる。


「この毛並み、ただ殺すのでは惜しい。そうだ、敷物にして浩蕩王に送ってやろう。王は莫の幽閉で、食事も喉を通らないほど消沈してるらしいからな。フッ、王のやつ私の優しさと母性でいちころだ」


畜生、動けない。こんなやつに皮まではがされるとは!


李翰が歯ぎしりした時だ。接地した腹が、音の震えを伝えてきた。


「――……の、ご出座ー!」


我に返ったのは李翰だけではなかった。


「人の家にご出座だと? なんて驕横な!」


眼中人なき先払いの声に、霊景も気が削がれたように動作を止めた。


直後、豪奢な衣擦れの音があらわれた。


「李妹、探したのよ! 予定が詰まってるんだから、すぐに帰還して頂戴!」


後宮準最高位の正二品官・礼部尚書辰霊景の居宮に予告なく踏み込み、これほど通路然と扱える者は後宮にただ一人。


全身治外法権のあの女だけだ。


「刑部尚書! 君と私は品秩が同格だ、突然の訪問は無礼じゃないか」


他に言うべきことがあると辰霊景本人もわかっているだろう。


しかし、離婚訴訟と凶悪事件を日々処理する水廌家の眼力は開業二十年目の押し込み強盗より激しいし、薄々思っていたがたぶん霊景は、豹と死体じゃない人間全般が苦手だ。


「李妹も李妹よ! ニャーニャーニャーニャーと。なに言ってるかわかんないわよ、早く人にお戻り!

 侍女二人じゃ、さように大きなネコは運べなくてよ」


水廌家は李翰を促し、自身も有無を言わせぬ完全無欠の後宮式歩法で退出する直前、


「そうだ星躔家、」


と、思い出したように優雅に半身をひねった。


「思い違いをなさってるようだから訂正しておくわ――次の華公主は、この曹俊録よ!」


ご覧いただきありがとうございます。

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これ書いている人の創作意欲に直結します、なにとぞ応援お願いいたします!

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