二章 莫谷神-8
==余月二十六日====
「おお偉大なる星辰よ、とうとう恐れていたことが起きた……」
「悪かったですよ、星躔家」
「悪かったで済んだら星は墜ちない! ついに莫に兵権が渡ってしまったんだぞ! 終末だ……終末の時が来た!」
李翰は望舒宮で、雇い主の激しい口吻を右から左へ流しながら、これまでのことを振り返っていた。
余月二十二日の夜、火は戎家の兵・工宮から出て、籠城演習用の油や工事用の資材を巻き込んで大型化。隣接する圃や宮女の生活居住区、戸宮の一部まで類焼し、果ては莫の游仙宮まで及ばんとした。
戎家は兵部尚書。後宮の治安維持がその任だ。脩身家の棺の警護不備と、自宮から火を出した失態は、戎家の任務遂行能力の欠如の露呈だ――と莫は激しく糾弾した。
莫の非難は理にかなっていた。なんと戎家は、消火が終わる翌朝まで、深酒して眠り込んでいたという。
莫は緩んだ治安維持体制の刷新を名目に、即日、戎家を馘首、兵・工部尚書の位を剥奪した。
これほどの失態の前では、誰もこの人事に異の唱えようもない。
後宮の風は変わりやすい。
火災からわずか数日で、人々の口上に登る、脩身家並びにその腹中の継嗣殺しの犯人は、莫から戎家に変わっていた。
◇◇◇
二十六日夕刻、李翰は兵府兼工府にいた。
罪人の様子を記録するのも彤官の任だ。
火災によって半ば黒ずんだ兵・工府は戎家の居宮であり、今は当人の軟禁場所だ。
「華公主の温情に感謝する。下級公主であれば即刻、あの陰気な冷宮に投獄されておるところでござろう」
軍装を解かれた戎家は、案外さほど憔悴した様子もなく、窓が封鎖され昼から灯が揺れる室内で、鞍なしの愛馬に跨っている。
「将軍。火災の夜は、庸夫子の棺の監督不行き届きの件で謹慎中だったんでしょう? 酒なんてなぜ?」
「わが宮で長く勤めてくれた部下の降嫁が急に決まり、その惜別の会食を。積もる話もあり、つい酒を過ごしてしまった」
常に心身を鍛え、有事に備えているはずの戎家が、単なる酒で朝まで前後不覚になるとは考えられない。薬でも盛られたのだろうか……?
戎家も心得ているのだろう。莫の関与の疑いをこぼしたりすれば、世話役の建前で配されている侍女たちがすぐに莫に報告し、さらに己の立場が悪化するだろうことは。
現在の戎家の立場は、脩身家ならびに継嗣殺害事件の裁判待ちだ。本人の自供はないが、莫の圧力により、開廷前から判決は決まっている。
馬に跨っている場合じゃない、絶体絶命だ。
なぜこんなに悠長なのだろう? あまりの急激な立場の変化に、戎家は現実感が消失しているのだろうか?
と、その時。
「刑部尚書の、おなーりー」
高慢な先払いの声が、宮内に響いた。
「え? 水廌家? なぜ?」
「不規則発言を慎みなさい、この色欲の権化」
水廌家はまだおかんむりだ。比喩じゃない。実際、今日は本格的に廌冠をかぶっている。裁判官たる刑部人員の正装だ。
水廌家は侍女に運ばせわざわざ上座に組立てさせた金銀あしらいの枰(座席)に登り、裾をさばくと、威厳たっぷりに戎家に向き直った。
「罪人・司馬氏、一連の要人殺害の件、常ならば部下が諸事執り計らうところ、元兵部尚書たるその身分を鑑み、刑部筆頭たるこの曹俊録が直々に案検いたします。よろしくて?」
淡々と定句をひとしきり並べたあと、水廌家は態度を一変させた。
「司馬将軍! 貴家、脩身家の亡骸を損壊したことを認めたんですってね⁉」
なんと、脩身家を殺めたのは戎家だったのか?
まくしたてる水廌家に、音なく戎家の唇が動いた。
「必ず来ると思うておったぞ刑部尚書」
と。
公主たちは華公主位を争う敵同士。相手の失脚は臨むところだ。
だが同じ箱庭で生き抜いてきた隣人でもある。
独特の連帯の視線が、水廌家と戎家の二者間に交錯したように見えた直後、にわかに戎家は俯いて、
「ううむ、急な差し込みが……」
と、腹を押さえて馬から転げ落ち、その場にうずくまった。
「倒れるなら尋問の後にして頂戴! まだ調書も取ってないわよ!」
と、水廌家と李翰が駆け寄ったところへ、戎家は素早く本題を打ち明けた。
「――貴殿らに援軍を要請したい」
「今すぐ次期華公主候補から降りると一筆書きなさい将軍。話はそれからよ」
躊躇なく条件交渉を始める水廌家の姿で、李翰は事情を悟った。
戎家は莫の游仙宮を、疑惑の高まりに乗じて強引に捜索した。捜索状を出せるのは水廌家の刑部だけ。戎家に協力しなければ、次に莫に潰されるのは水廌家だ。
水廌家が兵部の游仙宮捜索の時、喫茶なんかしていられたのは、二人は潜在的な共謀関係にあったからだ。
「将軍、ひどい汗だわ、誰か早く太医院から人を呼んでおいで遅鈍は嫌いよ!」
なんて凄めば、鏖殺公主で鳴らす水廌家の碧眼は説得力を持つ。
監視の侍女が消えたのを確認して、水廌家は挑みかかった。
「さ、将軍。援軍を出すに値する話をしてくれるんでしょうね?」
◇◇◇
「それがしも当初は、脩身家・継嗣殺し疑惑を足場に莫氏攻略を試みたのでござる。だが確実な証拠が出ず、それはすぐに行き詰まった。ただ、聞き取りを続けていたところ、莫氏に関する、ある気になる話を耳にした」
戎家は、兵権が莫に奪われたことを逆手に取り、莫に支配されてなお戎家に忠義を捧げる娘子軍に密かに指示し、反対に莫の行動を調べさせていたらしい。
「游仙宮の侍女によると、莫氏は、ときおり消失するらしい」
「胡蝶家は蝶変するのよ? そりゃ消えたように見えるわよ」
「然り。莫氏は忽然と消える。一方で、莫氏の姿は、各所で目撃されている。とりわけ多いのが、冷宮だ」
「冷宮ですって?」
「意外でござろう? 後宮一の栄耀を極める華公主が、あの陰気な罪人収監所にだ。消失と出現の証言に共通するのは、刻限。決まって日没後、それは起こる。莫氏攻略の足場は、この謎にあるのではないか?」
◇◇◇
「危険を省みず自ら囮役を買って出るとは、司馬将軍の人望も頷けますね」
刑部尚書たる水廌家の手配で、戎家は冷宮に送致された。もちろん莫を泳がせるためだ。
李翰と水廌家は、早速その夜から、冷宮を見張れる位置で交代で不寝番をはじめた。
水廌家との義姉妹関係は破棄された。だからこそ、何事もなかったように雑談をする。それが後宮人だからだ。
「戎家は油断ならないわ。妾が、人を仮死状態にできる廌爪の存在を秘匿しているのをいいことに、ぬけぬけと脩身家の遺体損壊を自白してきた。遺体損壊者じゃなく、殺人者のくせに業腹極まりない」
「ではなぜ協力を?」
しかも、罪を裁く刑部尚書ともあろう水廌家が。
「将軍ときたら、不思議なほど堂々としていたのよね。妾が裁いてきた罪人は、もっとこう独特の影や、匂いがあったものだけど」
李翰は背筋が冷えた。
罪人なのに罪の匂いがない。当然だ。真犯人はは衡交家なのだ。廌の末裔である水廌家はけっこう鋭い。決して口には出せないが。
水廌家は、それきり自分の考えに沈んでしまった。
その数刻後には、余月二十六日の首尾も不振に終わったことを、李翰は、雇用主たる星躔家に報告せねばならなかった。
「今日も倒莫に失敗したのか!」
命を張り、金も出している星躔家には、倒莫進捗の不振を責める権利がある。
だがこの日は、誰を責めても終末までの猶予時間は延長されないとついに悟ったらしく、手元の薬湯をじっと見ていたが、やがて何事か思い切ったように口を開いた。
「やむをえない、これを伝えると、君は必ず本任務を投げ出して全力で逃走するだろうから言いたくなかったが、もう時がない。伝えよう。あれを使え」
星躔家は室内の棚の一点を指さした。
李翰は、布にくるまれたその品を降ろして振り返った。
「これなんですか?」
「よく聞け。いいか、実は莫は――」
直後、星躔家は激しく薬湯をむせて前後不覚になった。
「莫は? 莫は何なんだよ⁉」
李翰は伏した星躔家と謎の品を見比べたが、星躔家の言わんとしたことがさっぱり読めない。
こういうとき頼れるのはやはり、後宮の中立派にして、鑑識官も兼ねるあの人だろう。介護を侍女に引き継いで、李翰は品を抱えて宮を出た。
晴天時の耕穡家の所在はすぐに知れる。
耕穡家は天を衝く耕作の風塵を巻き上げる手を止めずに言った。
「はああ、これは角だなあ、犀角の上物だあ」
「どう見てもそうですよねえ。倒れる前、星躔家は、これを指さしてたんですけど。どういう意味か分かります?」
「星躔家が持ってる犀角なら、犀照用だろ?」
「犀照?」
「なんでも、犀の角に火を点して照らすと、水面にその人の本質が写るんだと。いかにも神秘論者が好みそうな品だ」
この角で莫を照らせということか?
「そういえばもう一つ質問なんですけど、星躔家の辰氏って、麟人ではないという話でしたよね。どこの産なんですか」
「宇だったかあ」
耕穡家の回答によって、李翰はひとつ霧が晴れるような思いがした。
犀角を用いれば、莫に一矢を報いられるかもしれない。
だが、その機会は得られず、この夜も更けた。
二十七日の夜が明けて二十八日の朝日を浴びる頃には、李翰の体は震えが止まらなくなっていた。
莫の奇行は決まって夜。ただし、三十日の夜には、莫が乱を起こすので実質二十九日が最後の機会。
後宮が滅ぶまでに試せる機会は残り二夜。
望舒宮を尋ねると、あれほどこうたかった星躔家は瞼を閉じて静かだ。星躔家も後悔しているだろうか、百家最弱に命運を託したことを。李翰は信頼に応えることができないかもしれない。
眠る星躔家の額を撫でた。今にも消えてしまいそうな温みは、後宮の置かれている状況そのものだ。
後宮終焉前々夜。だがこの日も冷宮は白々とたたずんだまま。
とうとう余月二十九日の朝日が差し込む。
今夜が最後の機会だ。
後宮人に脱出を促すべきだろう。けれど、どうやって? 脩身家および継嗣殺害事件によって布かれた後宮封鎖は持続している。
認めたくなかったが、李翰たちは、莫が兵権を得たその日に敗北していた。終わるところまで終わり尽くしていて、これは祈りに近い、最後のあがきなのだ。
じりじりと日が傾き、最後の機会の夜を迎えた。
ついに李翰の耳朶を、待望の報が打つ。
「申し上げます、華公主・莫氏が冷宮に入りました!」
冷宮は後宮の東北端。
三層の螺旋階段を骨格に、うっそりと李翰と水廌家を拱いていた。
いよいよ李翰は、用意していた犀角に火をともす。
試しに水廌家の前に掲げてみると、
「ちょっと、な――!?」
ひときわ声を高くして碧眼を震わす水廌家の影は、水面で羊に似た一角の獣の形で揺らめいている。ふむふむ、あれが水廌家の正体、廌というわけか。犀角の能力は本物らしい。
冷宮内は立地的に風が淀んでいるし、石段は湿っているし、水廌家は予告なく正体をあぶり出されたことに腹を立てたらしく無口だしで、一段登るたびに心が死ぬ感がすごい。
息を潜めて進むと、燭光が、最上階で大きく揺れているのを見つけた。何かいる。
恐る恐る壁の端から目を出すと、小柄な背中。白い鶴氅。
莫だ。
莫は、収監者を、何をするともなく見下ろしていた。だが、様子がおかしい。どうおかしいのかわからない。逆に言えば、目に見えない部分全てが異様だ。
一方、収監者――独房で眠る戎家はうなされている。
莫はそれを見下ろして深い呼吸を繰り返している。戎家の動きは、莫の呼吸が深まるごとに、しだいに鈍く、静かになっていく。
「あれが音に聞く胡蝶家の導引術?」
水廌家のささやきに李翰は首を振る。それはちがう。
なぜなら莫は――いや、今は考えに沈んでいる場合じゃない。とにかく莫が戎家の体から、何かを抜き取っているのは確実だ。
莫の正体は何者なのか。李翰が犀角を掲げようとした瞬間、
「――ひっ!」
という鋭い悲鳴が耳元で弾けて、思わず犀角を取り落としてしまった。見れば、水廌家が天井から落ちてきた守宮と格闘している。
「誰じゃ、拙老の興を殺ぐ者は?」
莫がこちらを向いていた。
「ばっ? 莫! 貴家、どうしちゃったのよ!」
驚きのあまり、水廌家が敵を案じすらした。
犀角なんて用いるまでもない。
振り返った莫には、顔がなかった。どころか、天井近くまで伸び上がった莫は、今や紫の霞だ。
紫霞は揺らぐごとに、熊の太い手足や、犀の目や、また別の獣に似た耳鼻をあやしく形作る。この魔魅は――?
「――危ない!」
水廌家の注意は遅きに失し、紫霞の豪腕が至近で振るわれる。
三十七回目の死を覚悟したその刹那、李翰の前に鋭い爪が現れ、紫腕を封じた。
金の護指を外した水廌家の爪が――水廌家に流れる罪を裁く神獣の血が、かろうじて致死の一撃を受け止めていた。
命を繋いだ安堵もわずか、水廌家の喉で短い悲鳴が跳ねた。
爪が飛び散り、それを追うように、華奢な体が壁に叩きつけられた。
「水廌家!」
「莫め、なんて非礼なの、官学筆頭の曹氏を打擲するなんて!」
水廌家の的外れな怒声は、生爪が指からむしり取られた激痛を少しでも逃がす知恵だろう。だが、指先は痛みを感じやすい。一度に五爪をもがれた水廌家の目から、急激に清明さが失われていく。
撤退しないと命がない。
辰霊景の言うとおりだった。莫が人外だと知っていたら、脅されたって倒莫なんて受けなかった。あんな魔魅、娘子軍が束になったって敵わない――
「臆すな!」
水廌家だった。
水廌家は負傷で足元もおぼつかなくなっているくせに、李翰の前に立った。莫の次の打撃から庇うように。
ただの義理の妹なのに。背叛した妹なのに。水廌家が背負う家門を考えれば、正しい判断じゃないのに。
水廌家は出血で気が高ぶっているだけだ。けれど李翰は一時、水廌家こそが華公主に見えた。
「――さあ出ていらっしゃい、司馬将軍! 今ぞ武勇の見せ所よ!」
水廌家は、誇りをかなぐり捨てて、牢内の戎家へ共闘を申し出た。
だが、騒ぎによって、囚人のあらかたが起き出して格子から首を伸ばしてこちらを見物しているというのに、なぜか肝心の戎家から返答がない。
「将軍! 聞いているの? 職務怠慢で裁判にかけるわよ!」
「まさかすでに死……?」
違う、なんだか未曽有のいびきが聞こえてくる。
武人がこんな非常時に寝過すものか。現に、戎家と同じ房に入れられている愛馬は、忠義にも蹄鉄を鳴らして警告を発している。
――そういうことだったのか。
李翰は確信を持って言及した。
「俊録姐姐。あの魔魅の正体は、貘です!」
「貘? あの悪夢を食べるという?」
火災の日に枕辺でぼんやりと見た人影。あれは莫だったのだ。
夕刻、たびたび起こる莫の消失。呼べども目覚めぬ戎家。これらが意味するところはひとつ。
莫は夜な夜な、後宮人の夢を喰らい歩いていた。
悪夢を食われた戎家は、今頃とってもいい夢を見ている。目覚めたくないくらいの。
李翰と水廌家は、紫霞に追いつめられ、一歩また一歩後退を余儀なくされる。
胡蝶家の先哲は言う。悪夢は心の乱れによって生じる。
莫はそれを利用していたのだ。
朔日と二十日に行われる、酸鼻を極める莫の讌は、後宮人から悪夢を一気に搾り取る絶好の機会。
ところが、二十日の讌は、脩身家の死によって中止になってしまった。
食事の予定が狂い飢えた莫は、やむなく散発的に夢を食べ歩くことになった。李翰のところや、そしてここ、冷宮に。
「冷宮は宮怨の吹き溜まり。収監者の悪夢は、さぞや魔魅の舌を喜ばせるものなんだ……」
「今更気づいてもどうにもならないわよ!」
とうとう死に至る腕が、振りかぶられた。
戦場と兵馬を追って、流れ流れて、いつしか孤児は、殷賑な麟国の市に辿りついた。
麟市の主役は倡優だった。絶世の美女として敵国を傾け、凄腕の刺客に扮し暴君に挑んだ。舞台で展開される英雄たちの数限りない生き死には、孤児の寄る辺ない境遇も、半年変えていない服のかゆさも、戦場を漁って命を繋ぐ生活も、無造作に押し流した。
麟市には、茅の服を着た奴隷から、玉を提げた貴人まで。犬の肉から鳳凰の肉まで。処刑が行われた日には、揺らめく黒い影までもが見えた。
人の肉さえ食った自分もここならば、受け入れてもらえる。
麟市の近くの橋の下に住み着いた孤児は、やがて、倡優の背後にいる、小説家という思想家の存在を知った。
過去の出来事や各地の伝承を集め、それを人々に伝えて生計を立てるのだという。
小説家たちにとって、虚と実は等価だった。有趣こそが最優先、ある日は虚構を真実とし、別の日には真実を虚構に変えた。
物語は、観客の願望や反応を映し、都度洗練され、真実よりまことしやかに激的に、手直しされる。縁もゆかりもない遠い英雄が、親戚さながらの親しさでもって、人々に共有されてゆく。
小説家とは個人ではない。市に集う者の全てからなる。市では誰もが小説家だった。その孤児も気づけば何の疑いもなく小説家を名乗っていた。呼ばれるときに不便だから、適当に李翰と名乗ってみた。
市を動かす熱源の一部になりたい。
そう思うようになっていた。
市で話を披露し喝采されることは、戦災で欠けた人らしい心を、失った家族を、再び得ようとすることに似ていた。それを夢見ていた。
だがそれはもう、かなわない。
家族も財も人らしさも、あらゆるものが奪い尽くされ。拠り所だった市からも切り離され。今度は命を持って行かれる。
やむを得ない。戦国の世で民が要求するには、どれも過ぎた願いだったのだ。
どうやら、人は死んでもしばらく意識が保てるらしい。
李翰に最後に残されたのは、思考の自由だった。その最後の持ち物すら、徐々に消えていく。何を奪われても、心だけは自由だと思ったのに。
かつて人を喰ってまで生き延びたいと思ったのは。つまるところこの、心の自由を守るためだったのではないか。
人から奪ってまで得たこのわずかばかりの自由は。
引き換えに毎夜の夢で見る、罪の炎は。
自分だけのものだ。
決して譲り渡せるものではない。
三十六回死んだ李翰ははじめて、死よりも恐ろしいものがあることを知覚した。それは心の自由を奪われること。
震撼した。これは究極的危機だ――!
体は血を巡らす気も失せたのか冷えはじめ、死へ続く眩暈が意識を沈めていく。絶望の肌触りが魂をくるみきった時、李翰は奇妙な浮力を覚えた。
極限にまで達したものは、別のものに転じる。陰が極まると陽と化すように。
冷え切った体に、足下から暖気がこみ上げてきた。
熱はなおも増し、つまさきからひよめきまでが烈火に包まれ五感が変貌する感覚と、激しい横腹への衝撃とが、同時に李翰を襲っていた。後者はおそらく貘の腕がめりこんだのだ。
だが李翰の強靱でしなやかな体躯はものともせず、一転回ののちしかと地を捉えた。
人ならざる太い四脚は、着地の反動をそのまま跳躍に変え、鋭く生えそろった牙はあやまたず貘の首筋を狙う。苦悶の声とともに貘が暴れて、崩れた壁の風穴から強風が吹き込む。
血霧の臭気が、吹きつける磚の破片が、たまらなく気分を高揚させる。もっと破壊を。もっと熱い血を――
李翰の随喜の咆哮が後宮の眠りを震わせ、階下から人声が灯火とともに集まってくる。
介抱され助け起こされる水廌家の弱々しい睛に、紫霞の魔魅と格闘する白額の異類の影が揺曳している。それでいて、水廌家はその異類の姿に驚いた様子もない。
そうか、冷宮に入る前、水廌家が絶句していたのは、水面に映った人ならぬ李翰の影にこそだったのだ。
貘の巨体が、轟音とともに床に沈む。
李翰はまだ貘の首から牙を離さない。
見物している群集の中に、星漢文様の衣が見えた。こんな騒ぎが起こっては、あの虚弱雇用主も、寝込んでいられなかったようだ。
遅いよ。と李翰は内心でこぼした。
遅いよ、あんまり来るのが遅いから、……になっちゃったじゃないか。
貘が動かなくなるのを見届け、李翰の意識も深い疲労感の中に薄らいでいった。




