二章 莫谷神-7
有力公主中で、最初に動いたのは戎家だ。
高まる宮中人の不安の声に押される形で、事件のわずか二日後、余月二十二日の白昼。紫霞たなびく莫至人の游仙宮を、娘子軍が物々しく取り巻いた。
令状を読み上げる颯々たる声が、刑宮まで響いてくる。
「長かったわ、巨悪が倒れるのもいよいよね」
競争相手に先を越されているというのに、水廌家はなぜかのんびり茶器を傾けている。
「いくら莫めの王寵が深かろうと、継嗣および脩身家殺害疑惑は致命的よ。捜索で証拠の一つも出れば逮捕ね」
後宮滅亡の予言日まではあと九日。
これはおそらく莫を討つ最初で最後の機会。連携して一気に攻め落とすべきだ――それなのに水廌家は動かない。
育ちの好いこの千金は、宮中に平和が戻りさえすれば、悪を除く者は誰でもよいのだろうか。誰が莫を除くかは、今後の後宮上の力関係に必ず関わってくるだろうに?
李翰が問いを重ねようとした時、壁を穿つ音が再び刑宮に響いた。
今度も黒羽の矢。
礼宮集合を表す至急案件だ。
何だろう。礼宮にはもう主人がいないはずなのに?
◇◇◇
礼宮に入った李翰と水廌家は、あまりの状況に絶句した。
車裂という刑罰は、罪人の四肢をそれぞれ別の車に縛り付け、別方向に走らせ体を引きちぎるすこぶる凄惨な刑だ。
李翰はそれを連想した。
墨を流したような黒尽くしの礼宮内に、白い首と、腕と脚と胴、人体を構成する要素がばらばらに散乱していた。車裂と異なるのは、切断面が鋭利だと言うことくらいだ。
脩身家が二度死んでいた。
一通りの検死がすんだあと、脩身家の〈遺骸〉は、魂を呼び戻すため、その周囲で一晩じゅう鳴り物が打ち鳴らされた。それもむなしく、蘇生の見込み薄しとして、梓の棺におさめられ、礼宮内に安置された。
李翰と脩身家の思惑どおりに。
公主の遺体は、もがりの関係ですぐには埋葬されない。
脩身家は、七日ののちに目覚めるはずだった。
「礼宮の警備を行っていたのは娘子軍でしょう! 麟律では、掘塚ですら一死に値する、公主の亡骸を傷つけるとはその罪、百死だわ! 即刻、警備責任者の司馬将軍を妾の前に引っ立てなさい!」
ようやく李翰が気を取り直すと、水廌家が冷静に指示を出している。そうだ。これは、はた目には、たんなる遺体損壊事件だ。
だが李翰は知る。これは殺人だ――
李翰はうずくまり、口元を押さえた。
「――ちょっと妹妹、どうしたのよ」
気遣わしそうな水廌家の声に、李翰はうずくまったまま顔を上げずに絞り出した。
「……少し気分が……」
「ここは娘子軍と妾に任せて、自室で少し休むといいわ」
李翰は頷き、よろめきながら、血なまぐさい礼宮から出た。
礼宮が見えなくなるところまで来ると、苦悶の声を出しやすくするために丸めていた背をしかと伸ばし、土を蹴り飛ばし、全力で目的地に向かって駆けた。
脩身家との密約を最悪の形で違えてしまった。
疾走する李翰は動揺で気が遠くなり、意識が過去へと戻っていた。
◇◇◇
遡って余月十九日の早朝。脩身家が〈急死〉する前日のこと。
李翰はその脩身家を訪ねていた。
脩身家はこの日も、弟子に出した課題の添削から目を上げず、あいかわらず感情のこもらない声で促した。
「そちらの呆れるほど貪欲な生徒。本日も質疑があるのですか?」
李翰が窗を閉めると、堂内に墨香がこもる。
鞠躬如を意識して、慎重に口を開いた。
「夫子の薫陶を受けますこと半月余、小才ついに〈中正〉の理解に至りました」
「それは興味深いですね、続けなさい」
「小才が理解したのは夫子の〈中正〉です。洪鈞屈指の伝統国・塢の公主でありながら、国を失い、数々の苦しみを受けた夫子が、なお中正であれるその理由です」
脩身家の黒目の色が少し変わった。
「小才たまたま、夫子の楽思の人を拝見しました」
「奇妙な話ですね。予には慕う相手などおりませんが」
「つい先夜、三更ごろのことです」
脩身家の、古典に落とされたままの澄まし顔が、用心深く細められた。李翰の言が、ただの戯れではないということがわかったのだろう。
脩身家の指先で、竹簡が巻き取られていく。人の道と礼儀が擦れ合う音だけがしばらく続いた。
脩身家は円筒形に戻されたその聖典を、測りがたい顔で見つめ、おごそかに質した。
「子は――予が華公主から王寵を盗んだことを、断罪しようと?」
李翰はさも心外というように目を見張った。
「とんでもない。むしろ、夫子への崇敬の念を新たにしております。苦難にあっても脩身学の本質――〈愛〉を失わぬ夫子のお考えの深さは、古聖にも劣らぬものです。なにゆえこの件を不徳なる者の耳に入れ、後宮の聖賢をみすみす失う真似をいたしますものか」
「予、未だ乱を好むこと、徳を好むがごとく者を見ず。そういえば、子は反莫的発言をしていましたね。予を担ぎ上げて倒莫の旗にしようとしてもその意を得ぬでしょう」
脩身家の視線が扉へ向かう。人を呼ぶ気配を感じた李翰は、それより速く、強く放った。
「息苦しくはないのですか」
「息苦しい、とは?」
「礼法は夫子を二面に引き裂いています。星の前では王寵を盗み、日の下ではそれを不道徳だと教える。ひどい矛盾では?」
脩身家はゆっくりと首を左右に振った。
「子は、未だ脩身学の本質を理解していませんね。塢が滅ぶ時、塢王城に入城してきた浩蕩王は、予を見そめた。王族ながら唯一、国と命運を共にしなかった予は塢人の恥。そんな声から、王は何度も予を庇ってくださった。予の中正は愛です。そのために、命を賭す。これが予の脩身学です。莫姐姐には心苦しいですが」
脩身家は扉から目を離し、腹を据えたように息をついた。
「とんだ弟子を持ったものです。よろしい。莫姐姐に、子の見たものを話さないと約定するのなら、子の話とやらを聞こうではありませんか――」
「夫子、お願い事は簡便です。明日の夜、小才が会いに行きますので、人払いをし、私室へ続く通廊のあたりで待っていていただけないでしょうか。夫子と会っていると知られたくないので、ご不快でしょうが、侍女の服装でいらしていただけますか?」
「そのくらいなら、まあよいでしょう」
李翰の依頼は、あっさり聞き届けられた。
「それからもう一つ。明日の夜までに、ご同僚の星躔家に頼んである買い物をしておいて頂きたいのです」
月宮草の名を聞いた脩身家は、何の感情も見せなかった。
当然だ。脩身家は麟人ではなく、塢人。月宮草のいわれなど知るよしもない。
◇◇◇
時は現在に戻る。
脩身家が仮死状態にされていたと知っているのは、李翰が知る限り三人だ。李翰と脩身家・庸氏本人とそして――
「どうして庸夫子を害したんです!」
囿苑に駆け込んだ李翰は、衡交家の襟首を折らんばかりに揺さぶった。脩身家を殺めたのはこの女だ――!
不気味色の飲料が陰溝色の深衣に飛び散っても、衡交家は変わらず廃人の目をして、ひどく緩慢に袖口から竹皮の書状を取り出した。
むしるようにそれを開くと、見慣れた丸文字が陽気に飛び込出す。
――良朋の李君!
――挨拶を省いてさっそく本題に入るけど、庸君を殺めたのは僕じゃないよ。僕、囿苑の外に出られないしね。
――庸君は難に遭ったんだ、もしかすると、庸君が死を装ってるだけの無防備状態だってことを、どういう経緯か知ってしまった悪い人がいたのかもね!!!
「殺人教唆か!!! もっと悪質だった!!!!」
李翰の中の何かが切れた。
「せっかく倒莫包囲網が完成したのに、波風立てるなんて!!! 庸夫子は無辜なのに!」
錯乱のあまり、衡交家の昂った文体が伝染ってきた李翰は書面を床に叩きつけようとして、もう一枚、竹皮が重なっているのに気づいた。二枚目はこうだ。
――庸君が無辜だって? それはないよ。
脩身家の庸君は僕の失脚により利を得た者の一人だ。
後宮での失脚は死と同じ。有力公主らはみな、僕の死体を食い散らかした野獣だ。僕から正気を喰いちぎった獣たちは全員、今際の際までそれを後悔することになるだろう!!
衡交家はおそらく初めから、脩身家を仮死状態にした隙に排除するつもりだったのだ。いかにも衡交家らしい、自分の手を汚さない手法だ。
さらにこれは、衡交家の華々しい復讐劇の始まりにすぎない。
汝、賈を待つ者なり――おまえは時期の到来を窺う者。
庸子彬が生きていれば、そう衡交家を評しただろう。
李翰は魔物と手を組んでしまった。衡交家は倒莫への助勢を装い、逆に李翰を自らの復讐に巻き込んできた。
見えない刃物が首筋に当たっているような、暖めようのない寒気が襲ってくる。これが罪の重さか――
――そんな顔しないでよ。李君だって、庸君が完全に退場してくれたほうが、都合がいいはずだよ? 莫君を位から逐うには、庸君には二度と目覚めて貰っちゃまずいはずだからね!!!
そんなことはない、と李翰は心中で弁解する。
もし脩身家が、倒莫前に目覚めた場合、「死線をさまよったため子を喪ってしまった」とでも証言してもらうつもりだった。妊娠など嘘なのだから、何とでも言いようがある。
しかし衡交家の文章は続く。
――庸君は余月二十日に死んでいた。今日の事件はその遺体が損壊されただけ。李君が気に病むことはひとつもない。僕たちの利害は変わらず一致し、倒莫は着実に前進してる。共有の秘密が一つ増えただけ。僕たちは変わらず良朋だ!!!
めでたくかしこ、と陽気にむすばれた丸文字が、眩暈でゆがむ。
李翰は眉間を押さえて深々と息をついた。
おぞましいことに、全身に巻いていた鋭い悪寒は、消えていた。悪寒なんて、罪悪感なんて、李翰が被っていた薄い薄い人の皮に過ぎない。
動転のあまりとっさに囿苑に駆け込んでしまったが、率直なところ、李翰は脩身家の死に同情していない。李翰がこの世でもっとも実りがないと思っているのが、脩身学だからだ。
礼や徳なんかで、この二百年乱世が収まるものか。飢えが止むものか。人を喰ってでも生きのびたいと思う、この耐え難い渇望が消えるものか。
取ってつけた罪悪感が、陽気な丸文字に浸食されて溶けてゆく。でもそれは、さほど悪い気分ではなかった。
後宮は巫蠱の壷。
誰もが毒虫。残りの一匹になるまで喰らいあう。
その意味がいま初めて分かった。この囿苑の魔物と、本性は何にも変わらない、被害者だと信じていた、わが身でさえも。
冷艶な香りに包まれたこの壷中からは、到底抜けられそうにない。
◇◇◇
興奮冷めやらぬまま自室で褥に横たわると、夢を見た。
李翰は戦場にいた。
違う、あれは戦場なんかじゃない。李翰の故郷だ。兵馬は土と血を撒き散らし、すべてを戦場にしてしまう。
蜜がけの山査子を買ってもらうのが楽しみだった定期市も、一族総出で建てた家も、やっと実が膨らんできた圃も。
意外なことに、恐怖は半日も保てなかった。すぐに昼夜も晴雨も寒暖も意識に上らなくなった。
命を繋ぐこと、それのみが思考だった。そういう者はしぜんと集って小群れをなした。
あれほど恐れた剣戟の音は、食事の合図に変わった。ひたすらに戦を追った。火中で素足を焼きながら食料を漁り、臭気漂う戦場跡から金品を物色した。
唯一の懸念は飢えだった。飢餓が進むと突然体の自由が利かなくなる。汗が噴き出し、激しく震え、気を失う。群れの中でそういう者が出ると、誰からともなく笑い出した。その日は危険な戦場まで食料を探しに出ずともよいからだ。
薪が集められた。火が起こされる。きょうは誰かが倒れたのだ。
ひどく焦げくさい。
李翰は火中でもがいた。ああ、今度喰われるのは自分か――
わかっている。これは夢だ、人を喰った者だけが見る。人を喰って、人であることをやめた者の目裏に、常に映る炎。
もがくほどに熱は増し、意識が烈火に溶ける――
その間際、どこからか清涼な風が吹き込んだ。
開けた意識に、ぼんやりと人影が映った。
「――誰だ!」李翰が跳ね起きると、
「誰だ、とは何よ。非礼だわ!」
逆光を背負い、水廌家が季節の花を撒きながら侍女を十人も従え、安定の富豪ぶりで入室してくるところだった。
うん?
さっき見えた人影の衣裳はこんな絢爛な感じじゃなかったような?
首を傾げる間に、水廌家は豪華な水果の差し入れで室内を狭くしてから、枕辺へ腰かけてくる。
「いかが、妹妹。多少は具合が良くなって?」
言われて、自分が体調不良で寝込んでいる設定だったことを思い出した。褥からそろそろと身を起こし、あえかに頷いてみせる。
「それは重畳。妾も病人を尋問するのは心が引けるもの」
尋問?
不穏な単語に李翰が顔を上げると、峻厳な審判の視線とかち合った。共通の敵を攻略する中で、心の距離の縮まりを多少なりとも感じていたのだが、今の水廌家の眼差しときたら、最悪の出会いをした初対面の時よりも冷淡だ。
「――李妹。貴家、誰の味方なの」
悪い予感は的中する。
水廌家の目は犯罪者を見るそれだ。
「? もちろん俊録姐姐ですよ」
「脩身家を殺めておいて?」
やったのは衡交家だが、まさか言うわけにはいかない。ならばこう返すしかない。
「またまた、俊録姐姐こそ犯人では? 相当に殺気立ってたじゃないですか」
銀風が弾けた。水廌家の鞭が、納品まで丸一年を要す、宮廷御用達の厚い磚床をこそげ取っていた。
「脩身家の宮に忍び込んだ夜、侍女を仮死状態にしたでしょう。あの侍女こそ脩身家だったのね!」
「知りませんよ暗かったから。それとも証拠でもあるんですか」
危なかった、衡交家による後宮人教育を受けていなかったら、今頃全面降伏して許しを乞うていた。
「脩身家の〈亡骸〉は切断面から出血があったのよ。直前まで生きてたに決まってるでしょう」
「庸夫子が結局のところいつ何によって死んだのか、誰にもわかりませんよ」
洪鈞では、貴賎に関わらず、死者をすぐに埋葬しない。
医術は生死の境を未だ詳らかにせず、死んだと思われた者がしばらくして目を覚ます現象が頻発するからだ。
「妹妹。後宮にいれば一人くらい、廌爪でグサリとやりたい相手もいるでしょうよ。妹の敵は、妾の敵。爪の一枚二枚は喜んでくれてあげる」
けれど。と水廌家は激情の眼で見据える。
「李妹。貴家は、妾の痛みを、妾への叛反に使った」
早く気づくべきだった。
感激気質の水廌家が、脩身家の死を目の当たりにしたときに、一条の涙も流さなかったことを。
水廌家はおそらく、最初に脩身家の悲報を受けたときから、その死が偽りだと確信していた。
それでいて状況に乗っかって莫犯人説を強硬に主張し、倒莫を遂げんと皆人を誘導していたのだ。
不審な動きをした李翰を泳がせながら――
「最後の機会を与える。心してお答えなさい。貴家は入宮して日が浅い。脩身家に恨みなどないはず。にもかかわらず、廌爪を用いて脩身家の意識を奪い、隙を見て殺めたのは誰のため?」
水廌家はどこまで知っている?
まさか――李翰が、衡交家とつるんでいることまで?
衡交家は過去に何かをやらかして囿苑送りを余儀なくされた不可触の人物だ。聞きにくいので罪名は聞いてないが、仇敵を獄中から葬り去るあの手腕をみれば、幽閉の判断はとても正しい。
冷宮(宮中罪人の幽閉施設)でなくて、あえて囿苑に送られ見せ物にされているあたり、ただならぬ確執を感じるが。
極めつけに、李翰は衡交家を仲間に引き込むために、衡交家の復讐に参与した。水廌家の側近を莫に売って処刑させ、その動揺に乗じて取り入った――激情家の水廌家を手ひどく騙した。
「悪事が暴かれ口も利けぬと? 百家最弱にふさわしい末路ね」
水廌家を、苦労知らずの千金小姐だと軽視していた李翰が悪い。李翰は失敗した。決して過ってはいけないところで。
「貴家の後ろで糸を引いている者は――」
水廌家が背信者の息の根を止めにかかる。
倒莫は成らなかった――李翰は最期の予感に瞑目した。
「――星躔家ね!」
安堵に力が抜け、へたり込んだ李翰の様子を、降伏と見て取ったか、水廌家は双眸を一層青く燃え立たせ、勝ち誇って告げた。
「妾はとうに掴んでいるのよ。貴家が星躔家の望舒宮に繁く出入りしている事実を!」
どうしよう。衡交家との関係を暴かれるよりはずっといいが、星躔家との雇用関係を暴露すれば、時を戻した効果が解除される。なんとか真実を開示せずこの場を納める方法はないか。
李翰は星図文様の望舒宮を思い起こし、必死に回答を絞り出した。
「その、小才は……星……そう! 星が好きなので話を聞きに!」
「三日とあげず? 星躔家の星占は最短一年待ちなのに? その筋では〈後宮の母〉を以て称される名うての占星術師が、貴家のために連日星語りを?」
後宮の母って何だよ星躔家!
あの床下の財産、労働の対価だったのか。享楽の限りを尽くせる公主身分なのに勤勉でちょっと見直した……違う違う、今はそれどころじゃない。
水廌家の碧眼は攻撃性で炯々としてくる。
「佞悪な女ね。すっかり騙されたわ。貴家が社交人気取りで公主間を渡り歩くことで隠したかったのは、妾との同盟じゃない、星躔家との主従関係だったのね。脩身家の死を、妾の仕業に見せかけようとしたんでしょう!」
「脩身家を仮死状態にしたのは小才の独断です! そうすれば、罪を莫至人に着せられると思って。まさかこんなことになるとは……」
「それが星躔家から吹き込まれた回答?」
星躔家の目指す方向は水廌家のそれに限りなく近い。
味方どうしで潰しあっている場合じゃないのに。
もどかしさに、李翰の語調は激しくなる。
「星躔家は――あの人は、水廌家が考えているより、幾分か善良な人物です!」
星躔家の考えているのは、後宮を救うすべなんだ。
「あの人は今にも消えそうな、かぼそい命の蝋燭を燃やして、最善をつかみ取ろうとしているんです。何度失敗しても諦めないんです。もう、ろくに起きあがれもしないのに!」
「貴家……」
水廌家の尖鋭化していた碧眼が、いつしか別な光をおびていた。
やった、気持ちが伝わった――!?
「貴家、星躔家に恋慕してるのね」
李翰の口から拒絶の絶叫が飛び出す――その直前。
眼前が白黒になった。爆音が頭蓋を満たす。
我に返ると室内が煤だらけで、煙が充満していた。慌てて屋外へ這い出ると、煙柱が黄昏の西空を摩している。
西から逃れてくる後宮人と、消火へ向かう娘子軍がもみ合う。
刹那、人波が切れて、莫の横顔が見えた。燃え立つ炎に照らされるのは、陶然たる微笑。
「――ちょっと莫!!! 政争に火攻めまで持ち込まないでよ!」
煤だらけの水廌家が忌々しげに声を張り上げる。
「しかもこれ新作の爆燃剤だわ! 速やかに全尚書を参集! 今度こそあの調合実験狂の毒婦を弾劾裁判にかけてくれる!」
水廌家は侍女の報告を受けながら憤然と退出していく。李翰も勢いでそれを追う。
とたん、銀鞭が首に巻き付いた。
水廌家の碧眼が、明瞭に球体だとわかるほど至近にあった。
「――小説家の李氏。貴家の同行は認めない」
「俊録姐姐! そんなことを言っている場合では!」
「姐姐ですって? 李翰。二度と妹ぶらないで頂戴。妾を姐姐と口説きながら、星躔家の褥へも出入りしていたなんて値万死だわ。虫酸が走るのよこの淫蕩!」
洪鈞世界において、相手の名を呼び捨てる局面は二つしかない。
極端な親しみを表すときか、またはその逆だ。
水廌家は、侮蔑のこもった鞭をしならせ、爆風とともに去っていった。




