二章 莫谷神-6
日が落ちたあと、李翰は水廌家と礼宮を訪れていた。
暗黒裁判、暗黒裁判と、目の座った水廌家が呟いている。
「ところで姐姐、脩身家へ訪問の予約はしてあるんですか?」
「そんなものは目下の者が目上の者に行うものよ。あの恋盗人が妾より格上だと?」
「どっちも尚書職だから品帙は同じでは……?」
「妾と同格の存在がこの世に存在すると? それより、どれだけ吝嗇なのよ脩身家ってば。いやしくも省庁宮の癖に灯が少なすぎるわ」
水廌家のどす黒い殺気に負けないほど、夜の礼宮は暗かった。
ただでさえ礼宮は脩身家の趣味で黒尽くしだが、夜気を帯びると燈火を吸い込む暗さだ。まあ、不夜城みたいな刑宮が異常なのだが。
花の色もわからない闇の中、しきりにつまづく水廌家の手を引いて、礼宮の門をくぐる。
礼宮は三区画からなる。礼部人員の執務室、脩身家の私室、そして脩身家が講義を行う講堂・緇林だ。この刻限なら脩身家は私室にいるはず――
通廊を進んでいくと角を曲がったところで人の気配が揺れた。
「しまった、侍女がいます。まずいです、通達もしてないのに礼宮に入り込んでるのが知れたら、緇林の前に十刻は立たされて教育的指導です!」
「通達なんか入れたら恋盗人を炮烙の刑に処せないじゃない」
訪問予約を入れなかったのはそれが理由か。
そうだ、と李翰は手を打った。
「耳を塞いでいてください。小才が侍女を気絶させますから、その間に通り抜けましょう」
「入宮初日に妾にかましてくれたあれね。究極の駄文で脳に震盪を起こさせる。でも、震盪で稼げる時は僅かだわ。すぐに回復されて気づかれてしまう」
「それは問題ないですよ。姐姐さえその気になってくれれば」
「どういう意味よ」
水廌家は凄むが、わずかなその躰のこわばりを、李翰は見逃さない。さらに踏み込んだ。
「ずっと引っかかっていました。姐姐の矛盾について。姐姐は次々に後宮人を打ち殺す鏖殺公主。ですが、部下の死に涙を流しもする。この矛盾は何だろうって。それでしばらく見てましたけど、姐姐が死に追いやるのは、必ず自分の侍女だけ。お行儀がよい鏖殺ぶりです。けだし、姐姐と侍女には、ある種の密約がある」
水廌家は唇をつり上げる。不快そうに、それでいて愉快そうに。さながら愛鳥に手を噛まれた時のように。李翰はそれを促しと取る。
「それは、一時的に死んだ状態になることを認める契約なんでしょう。出宮時に死体として検閲をすり抜け、外部と通信するために」
後宮への人の出入は厳格だ。半月も前から申請が必要。公主に至っては、手続きが煩雑なため誰も外出しない。
後宮から注目されずに出られるのは死体だけ。
水廌家は、侍女を虐使する〈鏖殺公主〉の汚名と引き替えに、実家へ定期的に宮中の内情を流しているのだ。
ゆえに水廌家の侍女は顔が覚えられないほど出入りが激しい――
「不輸不入の荘園からあやしい物資を仕入れ放題の姐姐は、侍女を仮死状態にする薬を持っているから――」
「夜は短い。さっさとあの侍女に振盪を起こさせなさい」
促されるまま、まず李翰が侍女に近づいて脳震盪を起こさせる。
暗いので首尾よく行った。意識を失った相手はのけぞった。
ここからどうしたら――?
そこへ、鉱石の光が目の前をよぎった。
侍女が声もなく崩れ落ちる。そのまま伏して動かなくなった。
物騒な。水廌家ときたら殺したのか?
おそるおそる目をやると、床で跳ねるのは、見覚えのある金細工。水廌家の護指(付け爪)だ。
「李妹。その眼力に免じて教えてあげるわ。なにゆえ曹一族が、水廌家と呼ばれるのかを」
護指を外したその指は想像通りにやんごとなく白く美しく、けれど食指の先がむしり取られて赤い。爪がない。さながら罪を裁くたび、廌が一角を失うように。
「廌は罪を裁く神獣。その角に突かれた罪人は死ぬ。後宮は悪徳の花園、廌角に突かれれば誰もが死ぬわ。決して証拠は残らない。これぞ廌の末裔たる我が秘術――」
「いやいやいや、殺しとか物騒ごとやめて!」
「最後まで聞きなさい。昨今の廌は軟弱なのよ。我が爪で引っかかれた罪人は死なず、仮死状態になる。七日が過ぎると、何事もなく目覚める。こんな半端な力、外部との連絡手段に使うのがせいぜいよ」
「よかった……。うーん、しかし七日で仮死が解けるのでは、莫至人には使えないということですね。公主のもがりは長いんでしょう? 棺に入れたまま室内に一年も安置しておくとか。その間に目が覚めてしまいますね」
と李翰は、修身家の講義で聞きかじった知識を思い出す。
「それ以前の問題よ。莫に廌爪は効かなかった。本当にあの女は妖婦よ……それより、今は暗黒裁判よ。行くわよ」
「あ、この侍女をどこかに隠してからすぐ行きます!」
◇◇◇
余月二十日の日昳、李翰は刑宮で茶杯を傾けていた。
さわやかな新緑とは対照的に、山を成す離婚裁判の訴状を処理する水廌家の背中はやさぐれている。
「訴訟手数料、明日から一万倍に値上げね! 料金が廉いから誰もがすぐに番ったり離れたりするんだわ! 恋愛なんか社会悪よ!」
「姐姐、落ち着いて下さい。昨晩、脩身家に逃げられたからって」
結局、昨夜の礼宮潜入行は、収穫がなかった。脩身家は私室にいなかった。また王と密会に行ってしまっていたのだろう。
だが、水廌家の反応は意外だった。
「恋盗人の話なんかどうでもいいわ。時流は星躔家よ。なんびとにも深入りしたがらなかったあの星躔家が、まさか月宮草を買うなんて。全後宮話題沸騰の驚愕事件よ。相手は誰よ?」
――と。突然、壁の一部が弾けて、欠片が飛び散った。
壁に矢が突き立っている。
すわ、内乱か! 李翰が総毛を逆立てる間に、水廌家の前には引き抜かれた矢が捧げられている。
「ああ、兵部の子は騎射が得意だから」
「そういうことじゃない気が……」
水廌家は眉一つ動かさず、矢をあらためる。
矢には黒色の羽が一枚、結わえつけられている。
文書に羽を付けて送る意図は、通常文書と区別するためだ。李翰は戎家の軍事教練を思い出す。確か、羽付き矢は火急の報――
ところが、肝心の用件が添付されていない。
「秘匿の事案のようね。羽の色は黒だから……礼府に即刻参集、ってことよね」
と水廌家はわずかに考え込んでいたが、心当たりがないらしく、すくと立ち上がった。
「司馬将軍ったら好い度胸じゃない。刑宮の墻を穿つに足る用件なんでしょうね! 誰かいて? 出るわよ!」
◇◇◇
「ずいぶん物々しいじゃない」
礼宮は既に、戎家率いる娘子軍が出入りし、門は特に屈強な者によって間隙なく塞がれていた。
宮の屋頂には女官が登り、しきりに黒い衣裳を激しく振っているのがさらに不吉な予感をかきたてる。
黒衣の下を通った水廌家の表情がにわかに険しくなる。歩みを早めて段を上ると、娘子軍が一斉に拳を鳴らして礼を取り、李翰と水廌家を礼宮内へと導いた。
講堂・緇林の前に、部下と話している戎家の背中があった。
水廌家は戎家に対峙するなり、直截に尋ねた。
「司馬将軍。本件の死者の名は?」
衣にはその人の魂が宿る。屋頂で誰かの衣を振るのは、その魂を再び身体へ呼び戻すための招魂のまじないだ。
戎家は表情の読めない顔で死者の名を告げた。
「脩身家の庸氏だ」
水廌家の顔に安堵と、続いて嫌悪の色が浮かんだ。
「将軍ってば、戦場の野卑な諧謔を宮廷に持ち込まないで頂戴!」
戎家は無言で背中を向けた。着いて来ればわかる、というように。
黒い教壇のすぐ脇。黒衣の脩身家がうつ伏せで倒れていた。
なおも信じきれない様子の水廌家が、侍女に脩身家の脈や息を調べさせたが、侍女は痛ましげに首を横に振っただけだった。
「ありえない、脩身家は妾より五つも若いのよ!」
水廌家の唇が白く結ばれる。
「いかがでござるな、耕穡家。異状は?」
戎家が、水廌家と李翰を連れて近づくと、脩身家の体の前にかがみ込んでいた耕穡家が手袋を脱ぎながら振り返った。
「外傷なし。毒の気配もなし。きれいなもんだあ」
「事件性は消えたか。不幸中の幸いでござる。兵部の担務はこれまでのようだ。娘子軍に、後宮の出入門の封鎖を解かせておこう」
「となると次は弔いかあ、公主の葬礼はどういう手順だったかなあ? 何かのとぎ汁を沸かす? 飲ます? 棒はどこだあ? ほら、泣きわめきながら床を打ち付ける……参ったなあ、こういう行儀に最も詳しいのは礼部尚書の脩身家本人だっただあ」
「死者に割く資源で残存兵力を補強すべきところだが、脩身家とは長公主のよしみだ、せいぜい盛大に送ってしんぜよう」
早くも追悼気分で話を進める二人のあいだに、銀鞭が飛んだ。
笑わせないで、と。
「事件性のない突然死? この麟後宮で?」
水廌家の唇が挑みかかるように吊り上っている。
「司馬将軍ともあろう者が臆したものね! ええ、心得ていてよ、本件の捜査が不首尾で終われば、貴家の管轄たる後宮兵部の評価が落ちる。そうしたら、外朝兵部を統括するご親族もご不便を蒙りますものね!
耕穡家も耕穡家よ。ちょっと人より耕してるからって、みずから一日五十の毒に当たって薬用草木を人々に伝えた農耕神さながら無謬の見立てができるとでも? なにより莫よ! なぜ参集に応じていないの! あの女、仮にも内六部の最高責任者でしょうに!」
「面目ねえ、莫姐は用事で捕まらなかっただあ」
と、頭をかく元庶人の耕穡家と対照的に、武人の戎家は毅然とした態度を崩さない。
「刑部はすぐに事故を事件にすり替えたがる。後宮予算の配分審議は八ヶ月も先でござるぞ」
「お荷物部署はそっちでしょうが! 戦国だからって毎年取り分を拡張して!」
水廌家の怒罵に戎家は全く取り合わない。
「――周知の通り、検死役は本草に明るい胡蝶家の莫氏でござった。なれど、かの華公主は今や、<別の役務>でご多忙だ。その代理に耕穡家を立てることは、全尚書間で承認済みの事項でござろう。それとも刑部尚書。貴殿が莫氏を王殿まで出迎えに? ならば侍女は多めに連れて行かれよ。機嫌を損ねた王が剣の錆にしてしまうゆえ」
水廌家は無言だ。危険な兆候だ。青い怒りが口から噴き出すのをこらえているのだ。
水廌家の沈黙を隙と捉えたらしい戎家は、さらに攻勢を強める。
「脩身家は金銭面でも行動面でも節制の利く人物でござった。字を知らぬ婢のために講義を開き、祭祀を行えばお下がりの肉酒を老病者から優先的に配分する。長公主中の徳器だ。殺人より、まだ諌死の方がありうる。昨今の莫氏の横暴に死を以て意見したのでは?」
この発言が、とうとう水廌家の碧眼を好戦的に燃え立たせた。
「諌死? ふふ、将軍ご自慢の娘子軍の調査力も、程度の知れたものね」
とっておきの秘密を明かそうとする目だ。
と思う間もなく、水廌家は、力あるその言葉を放った。
「一度しか言わない。脩身家の情人は王なのよ! 脩身家は諌死なんかしなくとも、王に訴えさえすれば莫を制すことができたのよ!」
「がはは!」「はっは!」
戎家の歯は白かった。耕穡家の歯も白かった。
「まさか、あの莫成分が切れると血眼で臣下を斬りつける王が? よりにもよってあの愛嬌絶無のすましっ子に懸想を?」
二人の腹筋がねじれる直前に、水廌家は鞭を打ち鳴らした。
「証言者! これへ!」
「あっ、はい! 水廌家の話は事実です」
証言者の李翰は立ち上がった。
「先日、水廌家と夕食をご一緒したんです。その帰りに忍び会う庸夫子のお姿をお見かけしたんです。お相手は橙黄色の錦繍衣――王衣をお召しでした」
豪快な笑声が絶えた室に、水廌家の碧眼が燃える音だけが響く。
「これは自然死なんかじゃない、他殺よ。脩身家は王寵を嫉んだ誰かに殺されたんだわ」
戎家は反駁も同意もせず、ただ部下を呼びつけた。
風とともに片膝をつき、腕を組み合わせて絶妙の音量で打ち鳴らした娘子軍は、それだけで戎家の行き届いた調練を窺わせた。
「申し上げます。礼部官吏への聞き取りによれば、脩身家庸氏の日常は、上午は礼府にて業務。下午は緇林にて講義であります。しかし本日は体調不良を理由にいずれも出御がなく」
「脩身家は人払いをしていたというのだな」
「はい将軍。あまりに声がかからないため、侍女が不審に思い捜したところ、下午になってようやく庸氏の異変に気付いたとのこと」
「その間、来訪者はなかったのか」
「朝方に客人が一名あり。華公主莫氏の使いです」
誇らかに、水廌家が胸を張った。
「これで判明したわ、犯人は莫! あの女も脩身家の、王との密会を知ってたのよ!」
「莫至人の使いなら、本日は全公主に派遣されている。請帖だ。今夕の讌の最終出席確認でござろう」
戎家は淡々と否定した。
「曹李のお二方。そもそも夜半に見たという、脩身家の密会相手は真実、王でござったのか? 申し上げにくいが、王はここ数年、莫氏としか接見せぬゆえ――」
「妾が王に遠ざけられて、悋気で虚言を吐いたと?」
水廌家の鞭が激しくしなったが、戎家は冷静に部下に命じる。
「本件の事件性については、いま少し論議が必要と見える。後宮の封鎖は引き続きぬかりなく。誰ぞ、折を見て、游仙宮へ上がり、不祥があったゆえ、今宵の讌はお取り辞めなさるがよろしい、とだけ華公主へお伝えせよ」
おそらく、と李翰は思う。
耕穡家と戎家が、水廌家をことさら玩弄してみせたのは、期待の裏返しだ。もし水廌家の憶測が、莫を断罪しうる整合性を持ち合わせていれば、その虚言に乗ってやってよかったのに。そんな目の色だった。
倒莫の機は未だ訪れず、莫の恐怖統治は続く――先の見えない閉塞感を紛らわせるべく、李翰は戎家におどけてみせた。
「まことに王は、莫至人に執心なのですね」
「それがしが伝え聞くところによれば、」
戎家は面白がるように小声で言った。
「華公主は、肌を合わせず、膝枕ひとつで王を籠絡するそうだ」
「なんと」
「まさに不射の射でござろう? 我が娘子軍に入隊してくれたら、戦略の幅が格段に広がるのでござるが……」
戎家は冗談とも本気ともつかない顔で、游仙宮を眺めていた。
◇◇◇
麟後宮では、有事の際は、内六部の全尚書職が集い、善後策を講じるそうだ。
刑部尚書の水廌家が礼宮へ呼び出されたのはそのためで、記録官である李翰も流れで同席した。
莫はやはり欠席。王に髻を切り落とされた侍女だけが、泣きながら帰ってきた。まあ、王と莫の蜜月も、未だ世継ぎのない麟後宮としては歓迎されてしかるべきかもしれない。
李翰は肉を喰い。王との不仲を指摘されてなお憤懣やるかたない様子の水廌家は戎家と口論。耕穡家は野良歌交じりに帳簿を修正中だ。讌の中止は後宮財政には吉報である。
「――何だって? 脩身家が?」
四刻の後、最後の尚書・星躔家がようよう現れた。
むせて喀血しているので、誰も、遅参を責めがたい。
厳かに天を仰ぎ、脩身家の冥福を星に祈り終えた星躔家に、
「お体のほどはいかがですか、昨日も耕穡家から、何か本草を購ってらしたみたいですが」
さっそく心配顔を装って、李翰は水を向けた。
情けをかけられた星躔家から、狷介そうな睥睨が返ってきた。それでも何か気にかかることがあったらしく、
「少しいいか、この件に関係あるかわからないが……」
恂恂と切り出した。こういうとき、線の細い星躔家のつくる表情の陰影はわけもなく深刻さを醸す。
「こうなってしまったから話すが、実は昨日、私は礼部同僚の誼で、本草の代理購入を依頼されたんだ――脩身家に。本人からは、太医院(後宮内病院)に行くと話が大きくなるから内密に、と言われていてな。脩身家は殺されたのではなく、体に問題を抱えていたのかもしれない」
得意先の発言に、耕穡家が瞠目して帳簿から顔を上げていた。
「驚いた、まさか昨日の一件、脩身家の買い物だったのかあ!」
続いてその場の一同が、いかにも心得た様子でざわつくのを見て、星躔家だけが、とても不愉快そうにたずねた。
「耕穡家、何か心当たりがあるのか?」
耕穡家は言葉を選ぶように目を左右に泳がせ、
「星躔家の代理購入した品は、当帰だの生薑だの、貧血と冷えに効く本草だあ。女衆にはよくある訴えだから、圃でも多めに作ってる。珍しいもんではねえ。気になったのは、同時に買っていった月宮草だあ」
月宮草の名を聞いて、不快そうに星躔家は眉を寄せた。
「そういえば購入時も、くどいほど訊いてきたな。本当に買うのか、と。結局、あの月宮草というのは何だったんだ?」
「星躔家は異国人だからなあ。知らずとも無理はねえ。月宮草は麟の女子には憧れの草だあ。伝説によれば、麟の始祖の母となる娘は、麟水のほとりに生じる月宮草を踏んだとき、始祖を身ごもったそうだあ。転じて、月宮草の意匠物を妊婦が窓辺にかけておくと安産になる、とか、恋が成就する、なんて言われててなあ」
耕穡家は窗枠で切り取られた青葉すがしい圃を顎でしゃくった。
あまり草丈のない白の花叢が広がっている。どの宮にいても畝が見える後宮ってどうなの。
「ほう、あれが月宮草か。初めて見たな。花弁がどことなく星に似ていて好感が持てる」
「月宮草は自然下では絶滅種だあ。古い祭祀構から見つかった貴重な種を、後宮で目下復元中なんだ。今はせいぜい後宮の需要を満たすのが精一杯だけどなあ。だからまったく先日はたまげた。あの星躔家についに甘酸っぱい春が、って皆ざわついて――」
「もういい」
星躔家は異常なほど頬を痙攣させ、顔を赤らめている。
耕穡家は深刻そうに議場を見渡した。
「なあ。この件もしかすると――これ以上暴くのはよしたほうがええでねえだか?」
女子公主一同のけわしい沈黙が、見事に同調していた。
「どういうことだ? この際全部言ってくれ」
星躔家が自棄ぎみに容喙する。
やむなく、と言った調子でこの大口顧客に、耕穡家は説明した。
「普段使わねえ臓腑の動きがにわかに活発になると、血がそのぶん余分に必要になる。ところが血は急には増えねえ。すると、貧血と冷えが来る。貧血と冷えを訴えていた脩身家は、月宮草も買っていった。脩身家は王と密会してもいた」
まさか、星躔家が顔を赤青させて血を吐くように呻いた。
「脩身家は妊娠していた。相手は王かも……」
李翰が明確に言葉にすると、室内は深山のように音をなくした。
「ご一同、黙している場合か! ことは重大だ!」
戎家の拳が興奮で壁にめりこんだ。
「犯人の狙いは脩身家ではなく、その腹中の大王の子だった――となればこれはいつもの後宮人の小競り合いでは済まん。国家反逆罪でござる!」
公主たちは指甲花がはじけたように騒ぎ出した。
浩蕩王にはまだ子がない。
脩身家の子は第一子となる。
大麟では長子男子相続が慣例だが、女王が立ったこともある。つまり子が男女のどちらでも暫定の世継ぎの誕生だ。太子の母ともなれば、ないがしろには扱えない。後宮内の力関係は一気に覆る。
血の近い浩蕩王と水廌家が許婚の関係であることからわかるとおり、王と長公主の婚姻は上流階級では驚きなく迎えられる。王家の富と権力を守るための一つの方策だからだ。
その点、王と脩身家の恋愛関係は血縁がないだけ健全ともいえる。
李翰は全員に聞こえるようにつぶやいた。
「たしか庸夫子は、亡国・塢の公主――生来の王族ですよね?」
脩身家の血統の良さは長公主一だ。
「それなら、王さえ望めば、庸夫子は橘黄色の羅紈を着ることになるのでは?」
橘黄色の羅紈は王后のみが躔う衣。王の正妻の出現は、王妹にすぎぬ華公主の立場を羽毛より軽くする。
「もう間違いないわ――権力の弱体化を危惧した莫が、脩身家を害したのよ」
水廌家の言葉は、今度こそ重みを持って公主たちの耳に留まった。
「耕穡家、いかにや。脩身家はまことに妊娠していたのか?」
耕穡家はしばし脩身家の体に触れたのち、わからん、と首を振る。
「家畜でも人でも、妊娠極初期だと判じが難しいんだあ、おまけに死体ときてる。腹を割いてみるわけにもいかねえし」
麟では、肉体損壊は大罪とされる。それが死者であってもだ。
脩身家は塢人なので、そういう文化圏の人ではないが、現在の立場は麟公主だ。ゆえにその場の誰も、妊娠の真相に達することはできなかった。
つまり――それは。この一件はどのようにも解釈できるということだ。
「さしあたり、本件は自然死として処理する。華公主莫氏の関与の可能性に関しては箝口令を敷く。ご一同も、後宮の安寧を第一として、ゆめ口外なさらぬよう」
戎家はそう念押ししたが、日が傾く頃には、脩身家の死が殺人であることと、脩身家の妊娠と、莫犯人説は、後宮中に広まっていた。
一切示し合わせをしなかった有力公主たちが、無意識的に倒莫へ向き直った証だった。




