第九話
アイザックが案内してくれたのは、街の中心地ある、こぢんまりとしたカフェだった。
レンガ造りの壁は、一面に青々としたツタが伸び、ピンク色の小さな花で覆われている。
店先にも沢山の花が植えられていて、まるで森の中の、小さな教会のようだと思った。
そんな可愛らしい外観に、私でさえも、どことなく童心をくすぐられた。
かなりの人気店のようで、若くて綺麗なご令嬢方が日傘をさし、店の外にまで並んでいる。
その誰もが、突然現れたアイザックに目を奪われた。
背が高く、陶器のような肌を持つ貴公子は、たとえフードを被っていようとも、街に溶け込むには眩しすぎるようだ。
「待っていろ」
そう言って店に入って行くアイザックを、令嬢たちの熱い視線が追いかける。
誰も、私なんかの事は気にしていない。
召使だと思われているのだろう。
何となく、胸の奥にヒュッと冷たい風が通った気がしていると、アイザックが戻ってきた。
「ルネ」
アイザックが私の隣にならび、そっと腰に手を添えた。
その瞬間、アイザックに釘付けだった令嬢たちの熱い視線が、冷たい氷の槍に変わり、一斉に私に突き刺さった。
痛い。
建前上、夫婦を演じさせて頂いているだけです。
申し訳ありません。
人懐っこい笑顔の店員は、私達を二階の部屋に案内した。
賑わっていた一階とは違って、テーブルの間隔が広く余裕がある。
客層を見るに、貴族専用のフロアだと分かった。
一番奥にあるテラス席に着くと、アイザックは、丁寧に私の椅子を引いてくれた。
とても自然で、スマートな仕草だ。
アイザックは席につき、フードを下ろした。
茶色い髪が、風になびく。
アイザックは、店員に短く注文を告げた。
私は、娯楽に関する知識がほとんどない。
スイーツの名前など、無縁の世界にいたからだ。
アイザックは、私に何が食べたいか、あえて聞かないでいてくれる。
そんな細やかな気遣いに、私は幾度となく救われている。
大きな権力を与えられているヴァルサタ調査団を率いるのは、想像を絶するプレッシャーだろう。
恐らく、アイザックの不眠の原因の一つになっているはず。
それでも、使用人達にまで気を使うお方だ。
当然、部下のケアも怠らず、信頼され、頼られ…。
そして、自分の首を絞めていく。
この方を支えたい。
この気持ちは、感謝から来るものなのか、同情から来るものなのか…。
尊敬、憧れ…。
どれも正解なのに、しっくりこない。
「お待たせいたしました」
店員が、三段重ねになっているお皿を持ってきた。
一番下の段にはサンドウィッチが。
二段目には焼き菓子が。
三段目には何とも繊細なケーキが乗せられている。
そんな夢のようなタワーに釘付けになっていると、店員が手際よくティーカップに紅茶を注いだ。
「ごゆっくりお過ごしください」
「食べないのか?」
「あ」
アイザックの声で、我に返る。
「あまりの美しさに、見惚れていました」
「二段目の、スコーンが評判の店なんだそうだ。あたたかいうちに食べなさい」
スコーンと呼ばれた、パンのような焼き菓子の隣には、オレンジのジャムと、白くもたっとしたクリームが添えられている。
私は、スコーンを一つ手に取り、半分に割ってみた。
芳醇なバターと麦の香りが、食欲を刺激した。
小さなスプーンで、ジャムとクリームをスコーンに乗せ、口へ運んだ。
「っ!!!」
「気に入ったか」
「美味しすぎます」
「また妙な表現をする」
アイザックは、前髪をかきあげながら、目を細めた。
狭い馬車の中、初めて向かいあって座ったあの日。
何の感情も読み取れない、冷徹で無慈悲な侯爵は、もういない。
今、私の目の前に座っているのは、大きな責任に、皆が押しつぶされないよう、一人で戦う、心優しい青年だ。
カフェを出ると、アイザックはもう一か所寄りたい店があると言い、私を案内してくれた。
アイザックが寄りたい店とは、どんなところだろう。
そんな気持ちでついて行ったが、そこは眼鏡店だった。
「いらっしゃいませ」
仕立ての良いベストを着た紳士が、上品に挨拶をする。
白髪交じりの髪は綺麗に整えられ、顔に馴染んだ、細いフレームの眼鏡をかけている。
「以前話した、私の連れた」
アイザックが、当然のように話を進める。
「あ、あの。アイザック…」
「どうした」
「もしかして、私の眼鏡を新調しようとされてますか?」
「そうだが?」
「私は大丈夫です。書店に連れて行って頂けただけでも、胸がいっぱいです」
ただでさえ、返せるものがないのに。
これ以上、恩恵にあやかるわけにはいかない。
「その眼鏡は、度数が合わないのだろう?」
「え?」
どうしてそれを、知っているの?
確かに、侯爵邸に来てから、段々と文字が見えにくくなっていた。
誰にも言っていないのに。
「仕事に支障をきたすからな。そなたが気にする必要はない」
「…ありがとうございます」
「では、こちらへ」
店員に促され、店の奥にある椅子に腰掛けた。
目の前の机上には、沢山の眼鏡が置かれていて、それぞれ数字が振られている。
「視力を確認いたしますので、一度眼鏡をお外し願います」
「はい」
私は眼鏡をテーブルに置いた。
すると店員が、ほうっと息をついたのが聞こえた。
指定された眼鏡を着け、手元の文字と、少し離れた壁に貼られた文字を読む作業を繰り返した。
「お疲れ様でした。どうぞお戻りください」
「はい。ありがとうございました」
私が店内へ戻ると、アイザックが腰をかがめ、等間隔に並べられている眼鏡を、真剣に眺めている。
「アイザック?」
「戻ったか。好きなものを選ぶと良い」
どの眼鏡も、繊細で細かな彫刻がされていて、私でも高価な品だと分かった。
「今している眼鏡のフレームで充分です」
「だめだ」
「…ですが。私のような者のために…」
アイザックは、少しためらいながら口を開いた。
「次期侯爵夫人として、身につけるものにも気を使うべきだろう?」
そうだ。
私は今、カロン侯爵の婚約者だ。
たとえ建前上てあっても、召使に間違えられるような姿では、アイザックの威厳にも関わる。
「申し訳ありません」
「いや…そんな事が言いたいのではなくて…。その…」
「いえ。私の役割をすっかり失念しておりました。お心遣いありがたく頂戴いたします」
「…」
私は、並べられた眼鏡を全力で見て回った。
どれも宝石が散りばめられていて、私には派手すぎる気がした。
そんな中、シンプルな金色のフレームが目に止まった。
アイザックの瞳の色と同じ、金色。
陽だまりのような、優しい輝きに惹かれた。
手に取ると、驚くほど軽かった。
「これ…かけてみてもいいですか?」
アイザックは、店内をキョロキョロと見回し、他の客から私の顔が見えない方向に鏡を置いた。
アイザックが、優しく私の眼鏡を外し、金色の眼鏡をかけてくれた。
レンズが入っていないので、アイザックがとんな表情をしているのかよく分からない。
何も言わないけど、変なのかな?
「どうですか?」
「これにしよう」
即答だった。
アイザックは、私の眼鏡を外すと、元の丸眼鏡を掛けてくれた。
金色の眼鏡を手に持ったまま、足早にカウンターへ向かって行ってしまった。
その場に残された私は、目の前に置かれた鏡を覗き込み、改めて自分の顔を確認した。
瓶の底のような分厚いレンズに、時代遅れなまん丸フレーム。
確かに、次期侯爵夫人がこんな姿では、アイザックが恥ずかしく思うのも無理はない。
容姿なんて、気にしたことなかったのに。
鏡の中の、みすぼらしい自分が、憎らしかった。
「お待たせ致しました」
店員が、美しいトレーに乗せられた、美しい眼鏡を持ってきた。
「随分、レンズが薄いな」
アイザックが眼鏡を覗き込んだ。
「はい。ご令嬢が掛けていた眼鏡は、かなり古いものでした。今の技術ですと、同じ度数でも半分くらいの薄さで足ります。それに…」
「?」
「おそらくご令嬢は、視力がわずかに回復されたのではないでしょうか?成長過程にある年少者には、稀に現れる現象なのですが…」
通常、失った視力が自然に回復することはない。
侯爵邸に来てから、きちんとした食事を取っているからか、体調がいいとは感じていたけど…。
まさか視力が回復していたから、眼鏡が合わなくなっていたなんて。
手袋をし、店員が大切に眼鏡を持ち上げた。
ふと、フレームの内側が光ったのが見えた。
ちょうど、こめかみにあたる部分に、小さな透明な石が埋め込まれている。
「それは?なぜ宝石が?それも、フレームの内側に…」
隣に並ぶ、アイザックの肩がピクリと揺れた気がした。
「こちらは、ダイヤモンドと呼ばれる宝石です。ヴァルサタ帝国では、ダイヤが身体に触れていると、幸せになると信じられているのですよ」
店員の目元に、シワが寄る。
私は驚き、アイザックを見上げた。
「十八になる娘に、親が贈るものらしい」
頬を赤らめ、咳払いをしながら視線をそらした。
「…」
「ルネ?」
「…婚約者だけではなく、私の父にもなってくださるのですか?」
「なっ!そういう訳では」
「ふふふ」
分かっています、アイザック。
天国にいる、母の代わりに。
皇室にいる、父の代わりに。
優しいあなたは、私の幸せを願ってくれてるんですよね。
私は、新しい眼鏡をかけ、アイザックへ顔を向けた。
「本当に、嬉しいです」
アイザックは、優しく目を細め、そっと私の目元を拭った。
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