第八話
人通りが少ない路地裏で、馬車が止まった。
「ここからは、歩いて行く」
侯爵が、マントのフードをかぶりながら辺りを見回した。
それはそうだ。
せっかく見た目を変えたのに、侯爵邸の馬車で市街地まで行ったら、大騒ぎになってしまう。
ヴァルサタ帝国は、豊かな大帝国に見えるが、一方で貧富の差が激しい国として知られている。
皇室や上級貴族の力が強いお陰で、他国に搾取されることはないが、明日の食糧すら確保できない庶民からしたら、憎しみの対象にしかならない。
彼らには、国の仕組みを学び、理解する余裕などないのだ。
私は、今自分が着せられている『庶民風の』スカートを眺めた。
茶色く、地味なデザインだが、しっかりとした生地が使われていて、清潔な石鹸の香りがする。
初めてこの馬車に乗った時には、不衛生で、穴だらけの布を纏っていたくせに…。
侯爵がマントをはためかせ、馬車から飛び降りた。
「手を」
侯爵は、あの日と同じように、完璧な所作で手を差し伸べてくれた。
お前は、汚い、書斎のネズミ。
貴族に手を引かれ、馬車を降りるなんておこがましい。
マリアの声がした気がした。
ルネは馬車から飛び降りた。
あの日と同じように。
もしかして、馬車を降りる所作を知らないのだろうか。
俺は、差し出した手の行場に一瞬困ったが、平然と歩き出すルネのあとに続いた。
「人が多い場所を目指して進めばいいですか?」
「ああ」
ルネは、キョロキョロと辺りを見回しながら、好きなように歩いた。
初めての場所に臆することなく、当然のように、俺の前を進んでいく。
立ち並ぶ店を覗き込んだり、漂う匂いを嗅いだり、恐る恐るつついてみたり。
本当に、愛らしく、勇敢なネズミのようだ。
目を輝かせ、一体何を考えているのだろうか。
覗いたところで、頭の良いルネの思考にはついていけそうにないが。
忙しなく動き回るルネを眺めていると、あっという間に市街地へとたどり着いた。
「おっと、そこまでだ」
私は走り出そうとしたルネを、後ろから腕を回し押さえた。
「人にぶつかっては危ないからな」
ルネは、ハッとした表情で俺を見上げた。
「申し訳ありません」
細く、華奢な肩だった。
「ここからは、私が案内しよう」
「はい」
俺は、そっとルネの手を取った。
緊張を悟られないように、あくまで自然に、紳士的に。
小さなルネの手は、再び冷たくなっていた。
「…」
ルネが何も言わないので、自分だけが恥ずかしい気持ちになる。
俺はルネの顔を見る勇気が出なくて、無言で歩き出した。
「アイザックの手は…いつでも温かいのですね」
名前を呼ばれ、心臓がキュッと縮まる。
自分で頼んでおいて、情けない。
「いつでもと言うほど、私に触れてはいないだろう」
「あ、そうですね」
…違う。
いつもと言えるくらい、ずっと触れていてほしい。
ずっと触れていたい。
本当は、そう伝えたいんだ。
ルネへの想いを自覚してから、どんどん欲深くなっていく自分が恐ろしかった。
結局俺は、母に対してそうであったように、ルネの愛情を渇望してしまっている。
拒絶された時の絶望感を、嫌と言うほど味わったというのに。
だが、認めるしかない。
自分の愚かさを。
「…ルネ」
俺は、少しだけルネの手を引き、一歩踏み出すように促した。
書店の入口で、ルネは呆けたように立ち止まってしまったからだ。
大きな、両開きのドアの前で、『ルル書店』と書かれた控えめな看板を見つめるルネ。
「念願だったのだろう?」
俺はルネの両肩に手を乗せ、後ろからそっと押した。
カランカラン
ドアに取り付けられたベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
一瞬で、真新しい紙の香りに包まれる。
侯爵邸の書斎とは違った活気が、その空間には存在した。
入ってすぐ目に飛び込んできた飾り棚は、まるで劇場の舞台のようだ。
色とりどりの表紙をまとった新刊たちが、我こそはとアピールしている。
定番の書籍達は、カテゴリー別に整然と並べられ、自分の出番をじっと待っている。
広々としたフロアのど真ん中には、美しい螺旋階段が設置されていて、ルネにとって楽園のようなこの空間が、上にも続いていることが分かった。
ルネは、両手を胸の前で組んで、固まっている。
緩んだ口元から、よだれでも垂らしてしまいそうな勢いだ。
まばらにいる客たちは、各々気になる本を手に取り、じっとその場で文字を追っている。
「気になる本があったなら、手に取って読んでみなさい」
「帰れなくなってしまいます」
ルネは、どこか一点を見つめながら、ボソりと答えた。
「それは困るな。では、すべての本を買い取ろう」
「それは困ります」
ルネが眉を下げながら俺を見上げる。
「困るのなら、好きな本を遠慮なく選びなさい。何冊でも構わない。これはそなたの働きに対する正当な対価だ」
「ですが…恋愛小説を探しに来たのでは?」
「心配するな。恋愛小説代は経費として、全て調査団へ請求しよう」
ルネは目を丸くし、その後口元を押さえて吹き出した。
「あは。そんな事が可能なのですか?」
「当然だ」
ジャスティンが白目を剥く姿が思い浮かんだ。
「ありがとうございます、アイザック」
ルネは心からの笑顔を向けながら、そっと俺の両手に触れた。
くるりとスカートを靡かせ、本棚へ駆け寄って行くルネの姿を見送り、俺は店の奥へ向かった。
「お決まりですか?」
俺は、緩やかにカーブを描く、珍しいデザインのカウンターに手をかける。
小さなピエロのぬいぐるみが置かれている。
「店主と話をしたいのだが…」
「私がこの店の責任者です」
店主と呼ぶには若すぎる、清潔感あふれる好青年がそう答えた。
シワのない白色のシャツにループタイ、黒色のエプロン姿の店主は、私が貴族であることに気付いているようだ。
「活気があって、良い書店だ」
「ありがとうございます。帝国民が何に関心を持っているのか、常に意識しておりますので」
その目は自信に満ち溢れていた。
「あそこにいる、丸い眼鏡をかけた女性が私の連れだ」
「はい」
「彼女が手に取り、三ページ以上中を確認した本を、全て売ってくれ」
「え?は、はい。かしこまりました」
「それと、この店にある恋愛小説を全て二冊ずつ売ってくれ」
「え?恋愛小説ですか?若い女性が好んで読む?」
「そうだ」
俺は咳払いをしながら答えた。
「ありがとうございます!ですが、かなりの量になるかと…」
「ここへ運んでくれ。もちろん馬代も併せて請求してもらって構わない」
俺はカロン侯爵家の印章をカウンターに置いた。
「カッ…!」
印章を確認した店主は、バチンと音がなるほどの勢いで、自分の口を塞いだ。
見開いたままの目で店内をぐるりと確認し、ふぅと小さく深呼吸をした。
「ルルガノ・ブルックスと申します。当店を選んでいただき、光栄にございます」
媚びるわけでもない、気持ちのいい謝辞だと思った。
ルネは真剣な顔をして、ゆっくりと進みながら、本のタイトルを追っている。
その後ろを、さらに真剣な顔で、バインダーを持った店主が追っている。
そんな追いかけっこが、かれこれ一時間ほど続いている。
集中しているルネは、店主が後ろにいることにすら気付いていないだろう。
なぜなら店主は、ルネが本を選ぶ邪魔にならないよう、適度な距離を保っているからだ。
死角に入るその姿は、まさにネズミを追う猫だ。
俺は壁に寄りかかりながら、そんな二人を眺めている。
不思議と、全く飽きない。
ルネは突然立ち止まり、上を見上げたかと思うと、キョロキョロと辺りを見回し、何かを探し始めた。
「お客様?」
店主が声をかける。
「あ、すみません。何か踏台をお借りできますか…」
俺はルネの後ろから手を伸ばし、一番上の棚にある本に右手を掛けた。
「これか?」
目線を下げると、俺のマントの中にスッポリと収まったルネが俺を見上げていた。
「アイザック」
その笑顔には、まるで知らない土地で、偶然知人に出会った時のような安堵感が入り混じっていた。
本に夢中で、俺の存在など忘れていたな。
「ありがとうございます」
ルネは本を受け取ると、パラパラと内容を確認した。
店主の目が光る。
ちょうど三ページ目に差し掛かった所で、店主が素早くペンを走らせた。
「はぁ」
ルネがため息をつきながら本を閉じた。
「アイザック、どうしても決められません。どれもとても興味深くて…」
「では、書店ごと買い取ろう」
店主の毛が逆立つ。
「アイザック!」
「冗談だ」
店主が止めていた息を吐き出した。
「案することはない。時間はあるからな。少し休憩しよう」
「はい」
俺はルネの手を引き、店の外へ出た。
静かな書店とは別世界のように、街は様々な音で溢れている。
ルネが、行き交う人々を目で追っている。
ふと、ルネの視線が止まった。
ルネと同じ年頃の少女達が、店先のテラス席で談笑している。
そのうちの一人がルネの視線に気付き、ニコリと笑顔を送った。
ビクッと、ルネの肩が跳ねる。
ルネも、ぎこち無い笑顔を送り返した。
「私が、本の中で読んだ城下町の雰囲気と、随分違っています」
ルネの前髪がサラリと靡く。
「どう違っているのだ?」
「国民一人ひとりに、余裕があるように見えます。戦時中ですよね?」
どうやらルネは、時代感覚ですら伯爵邸の書斎に閉じ込められているようだ。
「ヴァルサタ帝国は、今戦争をしていない」
「え?」
「我が帝国が戦地とならずとも、戦争を行えば帝国民が飢えるからな」
「ですが、ヴァルサタ帝国は土地柄物資が少ない国です。輸入に頼らなければ国を支えられません。軍事力が、最大にして唯一の武器のはずでは…」
「それは今も変わらない。だから、『軍事力』を輸出して、物資や技術を輸入しているのだ」
「?」
「皇帝陛下は、それを『平和協定』と名付けた」
「…協定を結んだ国とは、戦争をしないことを約束した…ということですか?」
「ああ。更に、他国から攻め入られた時に、協定国を守るとな」
ルネの目が輝いた。
「そんな事が…。素晴らしいです!物資が豊富な小国は、搾取の対象になってしまう。ヴァルサタ帝国と平和協定を結べたらどれほど心強いか…」
「はは」
「アイザック?」
「いや。私にも、そなたに教えられることがあったとはな」
風が吹き抜け、ルネが呆けた顔をした。
「そんな。私は、アイザックに教えてもらってばかりです。」
ルネが珍しく俯いた。
「例えば何をだ」
「…例えば…マカロンの美味しさです」
「では今から、とっておきを教えてやろう」
ルネがパッと顔を上げた。
「はは。」
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