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第七話

 目が回りそうだ。

 机上に置かれた分厚い書類に目を通しながら、チラリと周囲を確認する。

 大蛇のように、決裁待ちの行列が伸びていく。

 執務室を飛び出し、豪華絢爛な皇室の廊下にまで…。

 今朝、突然早馬で、カロン侯爵邸から休暇の申請が飛んできた。

 カロン侯爵に何かあったのかと焦ったが、使用人はニコニコするだけで、その理由については語らなかった。

「アセリア伯爵。その者の証言ですが…」

「待て。まだ読んでいる途中だ」

「失礼いたしました。カロン侯爵閣下は、報告書を読みながらでも、我々の口頭報告を受けておいででしたので」

 喧嘩を売っているのだろうか。

 誰もが、カロン侯爵のような執務能力を有している訳がないだろう。

 私が見てきた貴族の中で、カロン侯爵は最も優れた男だ。

 細かなミスも逃さず、小さな疑問点も最後まで追求し、一切の妥協も許さない緻密な調査。

 それ故に冷徹な印象を持たれるが、実は誰よりも部下に気を配っている。

 体調の変化はもちろん、気持ちの浮き沈みにまで気が付き、さり気なくフォローする完璧な上司だ。

 そして、本人こそ忌み嫌っているが、容姿も申し分ない。

 女性だけでなく、男でもあの黒髪に憧れているというのに。

(本人に言ったら殺されるだろうが)

 それなのに浮いた話は一切なく、このまま仕事と結婚するものだと思っていたが…。

 まさか、婚約者のために休暇を?

 いや、カロン侯爵に限ってそれはない。

 あの帝国一の美女、マリア・ジェラールからの求婚を断って、よりによって書斎のネズミを連れ帰るほどだ。

 どう考えても、女除けだろう。

 カロン侯爵閣下は、女の趣味がすこぶる悪いと。

 一番の懸念事項だった令嬢たちからの求婚問題が片付いたからか、最近のカロン侯爵は機嫌がいい。

 実務能力が格段に上がっているのが分かる。

 そういった意味では、充分に女除けの役割を果たしているネズミに感謝しないとだな。

 

 長蛇の列の後方から、どよめきが上がった。

「帝国の若き獅子、皇太子殿下にご挨拶申し上げます」

 私は反射的に立ち上がり、頭を垂れた。

 コツコツと上品な靴音を立てながら、両手を後ろに組んだ貴公子が、ゆっくりと執務室へ入ってきた。

 長い金色の髪を一つにまとめ、口元には薄っすらと笑みを浮かべている。

 深海のような深い青色の瞳に、長いまつ毛。

 すっと通った鼻筋に、細い顎先。

 白い詰襟に、皇族の証である青いサッシュを掛けた、我がヴァルサタ帝国の第一王位継承者。

 フレデリック・アウラ・ヴァルサタ皇太子殿下。

 執務室が静まり返る。

「皆顔を上げてください。アイザックはどこに?」

 カロン侯爵をファーストネームで呼ぶのは、先代侯爵夫妻が亡くなった今、皇太子だけだろう。

「本日は、休暇の申請を出されておいでです」

「休暇?アイザックが?」

 皇太子は、目をまん丸に見開いた。

 そして周りを見渡し、白い歯を上品に見せた。

「だからこんなに大盛況なわけですか」

 笑顔だが、思い切り皮肉られていることくらい、私にも分かった。

「お恥ずかしい限りです」

「君も良くやっているよ」

 皇太子は、私の肩をポンと叩いた。

「ありがとうございます」

 皇太子は、私の机上に積まれた報告書を手に取ると、つまらなそうに眺めた。

 私は、執務室に並んでいる調査団員達に目配せをし、廊下に出ているよう指示をした。


「ジャスティンは、アイザックの婚約者にもう会ったの?」

「はぁ。会っておりませんが」

 唐突に婚約者の話を振られて、気の抜けた返事になってしまった。

「何だ。興味ないの?アイザックが見初めたって噂だけど」

「カロン侯爵のことですから、その噂ですら意図的なものかと…」

「やっぱり女除けか。つまらないな」

 皇太子は、手に持っていた報告書を机に投げ置いた。

 分かっているくせに。

 皇族の人間は、皆掴みどころがなくて苦手だ。

「だが、あのアイザックが他人と同棲しているなど、考えられないな。よほど女としての魅力が無いのかね、書斎のネズミは」

「殿下。お言葉が過ぎます」

「失礼」

 皇太子は両肩を軽く上げると、ソファーのど真ん中に腰を下ろした。

「相手がたとえ絶世の美女だったとしても、アイザックは女を愛せないよ。なんせ母親に愛されてこなかったんだからね」

 またこの話か。

 皇太子とカロン侯爵は、乳母兄弟だ。

 カロン侯爵の母上は産後の肥立ちが悪く、精神的にも不安定であったことから、幼いカロン侯爵は、一時期皇室の乳母に預けられていた。

 皇太子は、カロン侯爵が実の母親に虐げられていた頃の話を好んだ。

「可哀想なアイザック。せめて夜だけでも慰めになるような婚約者を選べばよかったものの」

「殿下」

「失礼。でもそうだろ?真面目すぎるんだよ。アイザックには幸せになってもらいたいんだ。乳母兄弟として」 

 白い歯がのぞく口元からは、さっきまでの上品さが消えていた。

 

 




 ルネと馬車に乗るのは二度目だ。

 ジェラール伯爵邸から、ルネを連れ帰ったあの夜。

(はい。大好きです。本がない人生など、考えられません)

 オレンジ色の街灯りに照らされた笑顔からは、どことなく切なさが覗いていた。

「カロン侯爵閣下!あの回っているものは水車ですか?」

 ルネが丸眼鏡を光らせている。

「ああ」

「わぁ!実物は初めてみました。大きいのですね!」

 色味のない服を着たルネは、長い髪の毛を一束の三つ編みにしている。

 余りにも肌が白いので、メイドが鼻の上にそばかすを描いた。

 どこからどう見ても、お転婆な町娘にしか見えない。

 もう少し、大人びた服を着せるべきだったか。

 ルネは今年で十八歳になる。

 だが、充分な栄養を与えられてこなかったからか、実年齢よりもずっと幼く見える。

 一方俺は、慢性的な寝不足で出来た目の下のくまと仏頂面のせいで、大人びた印象を持たれる。

 ルネと並んで歩いたら、どう見られるだろうか。

 夫婦に…見えるのだろうか。

「侯爵閣下」

 突然呼びかけられ、心臓が飛び出しそうだった。

「次は何だ」

 じっと、丸眼鏡の奥の紫色の瞳に見つめられた。

「今日の侯爵閣下は、とてもお若く見えますね」

「…っ」

 メイド達は俺の前髪を下ろし、染粉で髪色を茶色に変えた。

 いつもの堅苦しい隊服ではなく、シャツにベスト、緩いスラックスにブーツ姿だ。

 目の色は変えられないため、大きなフードが付いたマントを肩にかけて来た。

「そうか」

 俺は、緩んでしまいそうな口元を隠し、顔を横に向けた。

 ルネの一言で、こんなにも嬉しくなってしまうなんて。

 重症だな。

「ところで侯爵閣下は、恋愛にお詳しいのですか?」

「…」

(そなたに恋愛を教えてやろう)

 見栄を切ったが、どうしたものか。

 女性をエスコートする術は、貴族として当然心得ている。

 だが、恋愛となると…はたして正解は存在するのだろうか。

 こんなことなら、ジャスティンの戯言をもう少し真剣に聞いておくべきだった。

 あいつは、女性と交際することを生きがいとしている類の男だ。

 そういえば、戦地で隊員達から取り上げた本は、恋愛小説だったのだろうか。

 パラパラとめくってみたが、ほとんどが性的な描写だった。

 俺は、昨晩のことを思い返した。

 ルネは、まったく『そういう事』に興味がないのだろうか。

 俺は…。

 ベッドの上で、必死にスカートの裾を気にする、ルネの姿が頭に浮かんできた。

 その瞬間、腹の奥に熱が上がってくるのを感じた。

 白く、美しい脚だった。

 あの時は、病でルネを失ってしまうのではないかと必死だったが…。

 頬を染め、必死に抵抗するルネの姿に、今になって欲情を覚えた。

「侯爵閣下?」

 再び心臓が飛び出しそうになる。

 やましいことを考えていたから尚更だ。

「すまない。…教えると言ったが、そこまで詳しいわけではない」

「そうなのですね」

 ルネは、俺が今何を考えていたかなど、想像もつかないだろう。

 俺は背徳感に襲われるも、同時に、キョトンとした顔のルネにキスをしたいと思ってしまう。

「分からないことを調べる術は、そなたが一番良く知っているだろう」

「私は、本から学ぶことしかできません」

「それでよい」

「?」

「まずは書店へ向おう」

「書店ですか!?」

 ルネの顔に、笑顔が花開いた。

「私は、口で説明するのが上手くはないからな。令嬢たちが夢中になっている、恋愛小説にはかなうまい」

 本からでも良い。

 そこから、水車を見つけた時のように、少しずつ現実の感情と結びつけてもらえれば。

「信じられない!書店に行ける日が来るなんてっ」

 ルネは目をぎゅっと閉じ、全身を震わせて喜びを噛み締めてみせた。

 たったこれだけのことで、こんなにも喜んでもらえるとは。

 もっと早くに連れてくれば良かった。

 自然と顔がほころぶ。

「ありがとうございます、侯爵閣下!」

「…」

「侯爵閣下?」

「その呼び方だが、街では目立つだろう」

「では、どのように?」

「ファーストネームで構わない」

「よろしいのですか?」

「ああ。そなたは私の婚約者だからな」

 ルネは、なるほどと一人納得して、私の決死の願いをすんなりと受け入れた。

「分かりました、アイザック」

 ニッコリと私の名を呼ぶ姿に、こっちが羞恥心に耐えきれなくなった。

 口元を押さえて、横を向く。

 ルネに名前を呼ばれるだけで、こんなにも嬉しくなってしまうなんて。

 これは本当に、重症だ。


 

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