第六話
「…ん」
腕のあたりに、重みを感じて目が覚めた。
身体が、動かない。
強い光に刺激され、一度閉じた瞼を恐る恐る開くと、カーテンの隙間から、線のように何本もの日差しがさしているのが分かった。
空気中の細かなホコリに反射し、キラキラと輝いている。
穏やかな朝。
いや、日差しの入る角度からして、もう太陽はかなり高く上がっている。
どうして、今日は誰も起こしてくれなかったんだろう。
はっと、その理由に行き着いた。
そうだ。
私は昨夜、侯爵の部屋で…。
反射的に起き上がろうとするも、がっしりとした侯爵の腕に捕らえられてしまう。
侯爵は、私を背中から、枕のように抱きしめている。
首筋に、静かな寝息を感じて、息を止めた。
手を繋ぎ、目を閉じ、私達はたくさん話しをした。
侯爵が、若くして当主になった理由。
戦地から戻り、対面したご両親の、亡骸の冷たさ。
悲しみよりも、安堵の感情が先に来た罪悪感。
「当主であろうともがけばもがくほど、私は敵を増やし、孤独になっていった」
握られた手に、力が加わる。
侯爵の胸の痛みが、伝わってくるようだった。
「侯爵閣下。私は一日中書斎におりますが、そのお陰で分かったことがあるんです」
「なんだ」
「メイド達が、よく書斎を訪れているんです」
「メイド達が?」
「はい。彼女達も、本を読むんですよ。何のためか分かりますか?」
「検討もつかないな」
「ふふ。ではヒントです。あるメイドは、花の図鑑を」
「…ふむ」
「あるメイドは、脳に関する文献を」
「…脳?」
「あるメイドは、紅茶に関する歴史書を」
「…」
沈黙。
侯爵は、何となく気付いたようだ。
「侯爵邸のベッドで初めて眠った日、寝具から香るラベンダーの香りにとても癒されました。ラベンダーにはリラックス効果があるそうですね」
急に、侯爵の枕から漂うラベンダーの香りが濃くなった気がした。
「そして朝、メイドが窓を開けるタイミングが完璧で驚きました。眠りについている時、人間の脳内では、深い眠りと浅い眠りを波のように繰り返しているそうです。浅い眠りのタイミングで目覚めると、何のまどろみもなく、スッキリと目が覚めるそうです」
自ら調べた知識を誇らしげに披露する、メイド達の愛らしい笑顔を思い出した。
「いつも様々な紅茶を出してくれるのに、夕食後の紅茶はいつも同じものですよね。紅茶に含まれる成分には、睡眠を妨げるものもあるようなんです。確か、カフェインという…」
「なんてことだ」
「はい。私も知らない知識ばかりでした。彼女達は、侯爵閣下の苦しみに気付き、彼女達なりに、寄り添っていたのです」
「…なんてことだ」
誰かのために学ぶということは、その誰かを愛するということ。
私は、そのことを知っている。
父の書斎に置かれた、ボロボロの医学書を思い出した。
「それと、執事長のモリーもよく書斎に来るんですよ」
「モリーが?モリーは一体どんな本を読むのだ」
「執事長は、書斎の本は読みません。私に、幼い侯爵閣下の姿絵を見せに来てくれるのです」
「んな!」
「ふふふ」
執事長は、様々な姿柄を持ってきては、その日起きた出来事を楽しそうに話してくれる。
絵師の隣には、幼い侯爵をじっと我慢させるために、好物のケーキが置かれていたこと。
本当は白色のスラックスを履いていたはずなのに、侯爵が落書きをしてしまった為、絵師が泣く泣く黒色で上塗りしたこと。
モリーの優しい眼差しからは、侯爵への愛情が伝わってくる。
私は、モリーと話をするのが大好きだ。
「侯爵閣下は、使用人達を、とても大切にしています。それが、みんなに伝わっているということです」
孤独だなんてとんでもない。
彼らは心から侯爵を愛し、役に立ちたいと願っている。
「彼らの気持ちは、とても良く分かります。私も、侯爵閣下のお役に立ちたいと、常に思っています」
「そなたは、よくやっている」
「いいえ」
ヴァルサタ帝国では、女性が職に就くことは難しい。
侯爵が胸を張って、私を調査団に迎え入れられるよう、もっと知識をつけなくては。
「私、もっと努力します。そして、侯爵閣下に婚約を破棄してもらえるように、頑張ります」
「…」
「おやすみなさい」
「…ああ」
結局、私が一方的に決意表明をして、スッキリした気持ちで眠ってしまった。
でも、侯爵も眠れたようで安心した。
もう少ししこのまま…
…ん?
腰に、何か当たってる。
私はもぞもぞと身体をひねり、片手をその『硬いもの』に伸ばした。
「…!」
少し触れただけなのに、侯爵の身体が大きく跳ねた。
これは、もしかして…。
「な、何をしている!?」
侯爵が飛び起きた。
何だか、頭のシルエットがおかしい。
顔を真っ赤にして、小動物のように怯えている。
「レ、レディーが何てモノを掴んで…」
「あ、申し訳ありません。何か腰に当たっているなと思って確かめたのですが、侯爵閣下の」
「よい!もうそれ以上は申すな!…これは自然現象であって…」
慌てふためく侯爵。
なぜだろう。
何も、おかしなことではないのに。
「もちろんです、侯爵閣下。睡眠不足は男性ホルモンを低下させるという報告書を読んだことがあります。なので、私は嬉しいのです!侯爵閣下の…ふがっ」
侯爵に口を押さえられ、そのまま押し倒されてしまった。
ぐっすり眠れたという証拠なのに。
「頼む、ルネ。もう許してくれ」
真っ赤な顔で懇願する、ボサボサ頭の侯爵。
ぼやける視界で下から見上げると、どことなく幼くて、不思議と胸が高鳴った。
可愛らしいと言ったら、また叱られてしまうだろうか。
ガチャ
「おはようございます、侯爵閣下、ルネ様。素敵な夜を過ごされましたことを…」
「…」
「…」
いつも私に付いてくれている三人のメイド達は、表情を変えることなく、静かに扉を閉めた。
「…なんてことだ」
侯爵の顔から血の気が引いていく。
「ふふっ」
「ルネ、笑っている場合ではない」
「なぜです?侯爵閣下、私達は婚約者同士のはずですよ」
自分で決めた設定まで忘れてしまうなんて。
一体何にそこまで動揺されているのだろう。
「…そうだったな」
「ふふふふっ」
笑う口元を隠した私の手が、昨晩と同じように絡め取られてしまった。
侯爵は、まじまじと私の手を見つめ、宝物を扱うように優しく、両手で包みこんだ。
「あたたかい」
「寝起きですから。眠る前が一番冷たくなってしまいます」
「…」
侯爵は、しばらく考えてから口を開いた。
「婚約者同士が、同じ寝室を使い続けるのは、まずいだろうか」
私の冷たい手を気に入ってくれたのだろうか。
それとも、まだ心配してくれているの?
自惚れかもしれない。
それでも、嬉しく思ってしまう私は、いつの間にこんなに欲張りな人間になったのだろう。
「私は、貴族の体裁だとか、そういったことには疎いので、分かりません」
「そうか…。すまない。おかしなことを聞いた」
侯爵は、私を丁寧に抱き起こし、髪を整え、眼鏡を掛けてくれた。
ぴょんとはねた、侯爵の寝癖と対面した。
はっきりとした視界で見る、寝起きの侯爵はこんな感じなんだ。
いつもより、表情が緩んでいる気がする。
「そなたのおかげで、久しぶりにぐっすりと眠れた。礼を言う」
「とんでもないことにございます。結局、何のお役にも立てませんでした」
「いや。目を閉じ、誰かと話をして、誰かの寝息を聞いて夜を過ごしたのは、初めてだった。そなたの目論見とは違ったようだが、私と共に寝ると言い出してくれて、良かった」
侯爵が、笑っている。
明るい部屋の中で、真っ直ぐに。
侯爵の心からの笑顔は、想像よりもずっと、格好良かった。
サワサワと葉がこすれる音と、鳥のさえずりが、心地よく耳を刺激する。
侯爵と私は、ブランチを共にした。
メイド達は中庭にテーブルを出し、まるでガーデンパーティーのような手の込んだ料理を出してくれた。
何かのお祝いだろうか。
どことなく、メイド達の視線が生温かい気がする。
青々とした木の葉に間引かれた不規則な光が、侯爵の黒髪を照らしている。
愛らしかった寝癖は跡形もなく消え、いつも通りの完璧な侯爵の姿に、何故か寂しさを覚えた。
「外での食事は初めてです。とても気持ちがいいものなのですね」
「そうだな」
「侯爵閣下、本日お仕事はよろしいのですか?」
「ああ…」
侯爵は、執事長をジロリと睨みつけた。
「私の優秀な執事が、わざわざ休暇を申請してくれたからな」
「?」
なぜだろう。
侯爵の起床が遅くなるということを、予想してたの?
本当に優秀な執事だ。
「それにちょうど今日は、そなたの意見を聞きたい案件を持ち帰っていたのだ」
「どういった案件でしょうか」
私はワクワクした気持ちで尋ねた。
「ベルガット伯爵夫人が、使用人のリゼという女を階段から突き落としたんだ」
「その方は?」
「命は助かった。だがリゼは妊娠していて、お腹の子は…」
「そうでしたか。」
「そこでリゼは、お腹の子に対する殺人だと主張し、ベルガット伯爵夫人を訴えると言い出したんだ」
「お腹の子への、殺人…ですか。ヴァルサタ帝国では前例はありませんよね。殺人の客体は、人。堕胎していない子どもが果たして客体になり得るのか…」
「すまない。ブランチの場で論議する話ではなかったな」
「いいえ。しかし、そもそも動機は何だったのでしょうか?」
「ああ。リゼのお腹の子が、夫であるベルガット伯爵の子だったからだ」
「…?」
「…?」
「それで…?」
「それで、というと?」
「お腹の子がベルガット伯爵の子だったとして、それが夫人が使用人を突き落とす動機になりえるのですか?」
「…?」
私の質問の意味が、分からないのだろうか。
侯爵の表情が冴えない。
「貴族にとって重要なのは、当主の血を絶やすことなく、優秀な子孫を残すことですよね。ですが、一人の女性が産める子の数は限られています」
「…?」
「繁殖しようとするのは、男性の正常な生存本能であり、女性にとっても子孫が増えることは、一族の繁栄のためにありがたいことですよね?伯爵夫人がリゼ嬢を突き落とすだなんて。むしろ感謝すべき相手のはずです」
「…すまない。私は時に、そなたの言葉がすんなりと頭に入ってこないことがある」
「大丈夫です。理解するということは、情報を素早く把握し、その上で理解を深める必要があるんです。受け入れる情報によっては、時差が生じるのは自然なことです」
「…」
「…」
「単純に、夫人が伯爵を愛しているがための嫉妬だとは思わないのか?」
「愛しているがための嫉妬?」
本を開き、未知のものに出会ったときの衝撃と似ている。
「どういうことですか?愛というものは、無条件に相手に与えられるものであって、嫉妬などという敵意とは無縁なはずです」
「…」
「…」
「そなたは、恋愛感情というものが分からないのか?」
「もちろん知っています。『恋愛感情』とは、精神科医が定義した精神状態の一種です」
「…」
「…」
「モリー」
「はい」
「出かける準備をしろ」
「かしこまりました」
侯爵が立ち上がった。
急に、どこに行かれるんだろう。
侯爵を見あげていると、そっと手を差し伸べられた。
「街に行く」
「え?」
「このままでは、業務に差し支えるからな。私がそなたに、『恋愛』を教えてやろう」
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
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