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第五話

 どうされたんだろう。

 月明かりの下、目を凝らすが、ぼんやりと侯爵の顔が白く浮かび上がっているだけで、その表情をうかがい知ることは出来ない。

 もう少し近づけば、また、金色の瞳を見つけられるかもしれないけど。

(そなたに、一つ聞きたいことがある)

 そう言ったきり、沈黙が続いている。

 また何か、粗相を犯してしまったのだろうか。


 カロン侯爵は噂とは違い、とても温かい人だった。

 私のような私生児とも、真っ直ぐに視線を合わせて話をしてくれる。

 そして、世間知らずな私の言葉を、真剣に聞いてくれる。

 人と話すのが、こんなに楽しいだなんて、知らなかった。

 誰かの役に立ち、感謝されることが、こんなに幸福なことだなんて、知らなかった。

 この方の役に立ちたい。

(そなたの能力を見極め、必要だと判断した際には婚約を破棄し、調査団へ迎え入れよう)

 この世に存在していることが罪だと、ほんの少し前までは本気で思っていたのに。

 調査団に入りたい。

 カロン侯爵は、私に生きる目的を与えてくれた。


「侯爵閣下…」

「…っ」

 ピクリと、目の前の白いモヤが動く。

「私は、侯爵閣下からの質問をお待ちしております」

「あぁ、そうだったな。その…」

 言いづらいことなのだろうか。

 珍しく歯切れが悪い。

「そ、そなたは、高まった体温が下がる瞬間、人間は眠りに落ちやすくなると言ったな」

「はい。言いました」

「その…」

 侯爵の様子がおかしい。

 もしかして…!

「安心してください!本当にトカゲを首に巻いて頂くわけではありませんから!」

「…」

「…」

「すまない。私は時に、そなたの言葉がすんなりと頭に入ってこないことがある」

「どうか謝らないでください。理解するということは、情報を素早く把握し、その上で理解を深める必要があるんです。受け入れる情報によっては、時差が生じるのは自然なことです」

「…そうか」

「はい」

「…」

「…」

「で、トカゲとは何だ」

「え?侯爵閣下は、アジオの入眠方法についてご存じで、戸惑っておられたのでは?」

「いや。そうではない」

「そうでしたか」

「…」

「…」

「あ、トカゲというのは、爬虫類という種類の動物で、身体に鱗や甲羅があるのが特徴です」

「鱗…?」

「はい。ヴァルサタ帝国ですと、蛇が爬虫類に分類されます」

 ブルっと、侯爵が震えた気がする。

「トカゲというのは…そうですね。蛇を太らせて、短い手と足をくっつけたような見た目をしています」

「ひっ…」

「?」

「…続けなさい」

「はい。アジオはとても暑い国です。氷や冷たい水はとても貴重です。トカゲは常に体温を低く保つことができ、更にほとんど動きません。なのでアジオでは寝苦しい夜に…」

「すまない。説明は、よく分かった」


 侯爵に話を遮られたのは、初めてだ。

 かなり古い文献だったけど、応用できると思ったのに…。

 また、不快な思いをさせてしまったようだ。

「…」

 悔しくて、鼻の奥がツンとする。

「しかし…首を冷やすというのは、わが帝国ではあまり馴染みがない方法だな。額を冷やすことはあるが…」

 侯爵が、いつもの調子で尋ねてくる。

 怒ってない?

 安堵感から、私の声にも張りが戻る。

「人間の首元には、二種類の太い血管が流れています。一つは脳へ、一つは心臓へ向かっています。しかも、皮膚に近い場所を通っているので、首元を冷やすということは、効率よく体全体を冷やすことになるんです。」

 アジオはとても小さな国だが、生活の中に知恵と工夫が散りばめられている。

 文化の違いに驚かされ、その理由を調べると、なるほどと感心させられる。

 そんな感動が、本の中にはいくつも散りばめられているのだ。

 外国語を解読することは、私にとって、その国を旅することに等しかった。


「それで、蛇…のような生き物の代わりに、何を使うつもりだったのだ?」

「あ、これです」

 私は、両手を差し出した。

「何も無いが?」

「いいえ…」

 私は、そっと両手で侯爵の首筋に触れた。

 ピクリと、侯爵の首が強張る。

 筋肉量が少ない成人女性は、手や足先がとても冷たくなってしまう。

 中でも私は、幼い頃から外出すらしていないため、物心ついた頃には自分の手足の冷たさに気付いていたほどだ。

 体温が低い動物と聞いて、真っ先に自分のことが思いついた。

「んな!何だこれは!!」

 侯爵が、私の手を握りしめながら起き上がる。

「え、あ。勝手に触れてしまい、申し訳…」

「そうではない!!!なぜこんなに手が冷たいのか聞いている!」

 侯爵が声を荒げているところを見るのは、初めてだ。

 どんな表情をしているの?

 とても怒っているのは分かる。

 説明しないと。

「あっ…手だけでなく、足先も…」

「なんだと!」

「きゃっ」

 侯爵は勢いよくシーツをめくりあげ、私の両足首をつかんだ。

 スルスルと、ネグリジェの裾がめくり上がる。

「閣下っ」

 羞恥心で、顔が熱くなる。

 私は必死でスカートを押さえるが、侯爵は私の足首をつかんだまま固まっている。

「なんてことだ。まるで死体のようだ…」

 侯爵の声が震えている。

「あの…」

 ガバっと侯爵が立ち上がる。


「医者だ!医者を呼ぶ!」

 侯爵はベッドから飛び降り、裸足のままドアの方向へ走っていく。

 ガチャガチャ

「んな!鍵だと!?なぜだ」

 ガチャガチャガチャガチャ

「モリーめっ」

 ガンガン

「誰かおらぬか!?開けろ」

 ガチャガチャ

 ガンガン

「くそっ…。そうだ、バルコニーから下りれば」

 バタバタバタバタバタ

 バンッ

「しまった。ここは三階だったか。おい!誰かおらぬかっ!おーいっ」





「………ぷっ」

「ルネっ!どうし…」

「あはははははははははは」

「…?」

 


 なんてこと。

 あの、完璧な侯爵が…。

 裸足で。

 何故か執事に閉め出されて。

 大声で騒ぎ立て。

 この部屋が何階にあるか、忘れてしまうほど…





 …私を心配してくれている。





「あははははははは」

 戻ってきた侯爵の重みが、ベッドに加わる。

「ルネ、どうしたのだ。直ぐに医者を呼んでくる」

「あははははははは」

「ルネ…。なぜ泣いているのだ」

「あはははっ。なぜって…あははっ。ふぐっ。あはは…」

「ルネ。泣くな。そなたに泣かれると、私はどうすれば良いか分からぬ」


 生まれて初めて、誰かに心配してもらった。

 声を震わせ、ただの役立たずのようにあたふたする貴方の姿が嬉しいだなんて、言えるはずない。

 身体の奥が震え、涙が溢れ出てくる。

「侯爵っ閣下…。私はっ…大丈夫です。ぅう」

「しかし、そなたの手足は…氷のようだ」

 本気で心配してくれているのが、痛いほど伝わってくる。

 優しい御方。

 きちんと説明しなくては。

 私は、ゆっくりと呼吸を整えた。

「命に関わるような病気ではありません」

「しかし…」

 私は、きゅっと握られている侯爵の拳に、氷のようだと言われた自分の手を添えた。

「本当です。私は元々手足が冷たいのです。死に向かっている訳ではありません。信じられないようでしたら、侯爵閣下の体温を分けてください。温めれば、血の巡りが良くなりますから」

「…」

「…っ」

 侯爵は、私の指と指の間に、自分の指を滑り込ませた。

 ぎゅっと私の手を握り、ゆっくりと口元に運ぶ。

 ちゅっ

 水音を立て、私の手の甲にキスを落とした。

「分かった」


 ぶわっと、顔に熱が籠もる。

 なに?

 手の甲へのキスは、レミラン帝国では挨拶の意味だ。

 それなのに、なぜ私は、こんなにも恥ずかしい気持ちになるのだろうか。


 侯爵は私をベッドに寝かせると、隣の椅子に座って手を握った。

「…侯爵閣下。これでは死に目に立ち会われているような気分です」

「そなたが、手を温めるように言ったのだろう」

「先ほどのように横になってください。私が侯爵閣下の首筋に触れていれば、侯爵閣下の体温は下がり、私の手は温まる。お互いにとって良い作戦だったのです」

「そうむくれるな。そなたを蛇の代わりにはできぬ」

 蛇じゃなくて、トカゲなんだけど…。


 侯爵が優しく私のおでこをかき上げる。

 温かい。

 じんわりと、心が満たされていく。

 渇望していた、父親からの愛情を、母親の温もりを、この手は与えてくれているような気がした。

「もう、そなた…なのですね」

「どういう意味だ」

「先ほどは…ルネと…」

「…っ」

 ゴホンっと咳払いをうち、おでこの手が引っ込められる。

「すまない。許可もなく女性の名を」

 私は、ゴホンと咳払いをうち、侯爵を真似た。

「隣に寝てくだされば、許しましょう」

「…ふっ」

 侯爵は、やれやれと立ち上がり、ベッドに入ってきた。

「そういえば、湯に長く浸かるように言ってたのは…」

「アジオの人々は、眠る前に必ずお湯に浸かる習慣があるそうです。体温よりも熱いお湯に入り、強制的に体温を上げる。とても効率的です」

「…そうか。ははは」

「侯爵閣下?」

「なんでもない。緊張がとけたんだ」

「??」

 侯爵はシーツの下で、ぎゅっと私の手を握った。


 私は、陽だまりのような侯爵の瞳の色を思い出し、静かに目を閉じた。

 ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。

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