第十三話
雲一つない夜空を見上げる。
冷たい空気のお陰で、星屑までもがはっきりと見える。
本格的に、冬支度を始めなくては。
今年はルネ様がいらっしゃるから、薪も多めに仕入れ、本棚も新調し…。
顎髭を撫でながら考えを巡らせていると、遠くから蹄の音が聞こえてきた。
「おかえりなさいませ、侯爵閣下」
「モリー、ルネはどうしている」
「…」
ルネ様がお倒れになってから、一週間が経とうとしております。
それでも、アイザック坊ちゃまは、お帰りになると開口一番にこの質問をなさいます。
「本日も月の間で静養され、今はぐっすりと眠っておいでです」
「そうか」
いつも通りの無表情でお答えになられておりますが、『今日もルネ様にお会いできなかった憂い』と、『仕事の邪魔をして回る皇太子殿下への憤り』がにじみ出ております。
ルネ様が伯爵邸に来られてから、坊ちゃまは変わられました。
いえ、心を取り戻したとでも言いましょうか、昔の様に、気持ちを顔に出されるようになりました。
ほんの僅かな変化ですので、新米の執事達には分からないかもしれませんが、長年坊ちゃまに仕えてきた、執事長の私には分かります。
それに、ルネ様に向けるあの眼差し。
我々の前では体裁を保っておいでですが、坊ちゃまはルネ様を心からお慕いしているのでしょう。
私は、邪魔にならない程度に、こっそりとお二人のやり取りを見守っております。
初めてルネ様をお見受けした日、それはそれは酷いお姿をされておりました。
ジェラール伯爵邸では、自分が仕えているご令嬢に対して、なんてひどい仕打ちをなさるのでしょうか。
同じ使用人として、強い憤りを感じました。
メイド達の報告では、栄養どころかまともに水分も与えられていない状態で、肌や爪は乾燥し、ひどく痩せ細っておられたようです。
お召し物も穴だらけで、眼鏡のレンズは曇り、ご自身で補修された跡もある始末。
それでも、ルネ様はとても聡明でいらっしゃいました。
様々な事を驚くほどよくご存知で、我が邸宅の建築士を言い当てた時には、久しぶりに胸がときめくような喜びを感じました。
屈託のない笑顔と、誰に対しても嘘偽りなく真っ直ぐに接するお姿に、誰もが魅了されていきました。
ルネ様を喜ばせたい。
ルネ様と話をしたい。
これは決して、同情から来るものではありません。
我々使用人はみな、心からルネ様の人柄に惹かれているのです。
アイザック坊ちゃまが、毎日のように街で有名なスイーツを買って来てはルネ様にお与えになられておりましたが、実は我々も、坊ちゃまが不在の隙に、ルネ様に様々なお茶菓子をお出ししておりました。
そのお陰で、ルネ様はみるみるうちに健康的なお身体となり、そのハツラツとしたお姿は、我々を安心させました。
ルネ様の専属メイドである、ジュリア、マリアンヌ、リリーの三人は、ルネ様を妹のように甘やかし、同時に、親友のように心を寄せています。
ルネ様は、帝国一の美女と呼ばれる、妹のマリア嬢に負けず劣らず、素晴らしい美貌の持ち主です。
ダイヤの原石を見つけた三人のメイド達は、それはそれはルネ様を磨き続けました。
日に日に美しさを増すルネ様を、アイザック坊ちゃまが常に目で追っているのを、我々は知っております。
あの日、お二人がどのような夜をお過ごしになったのかは、私が立ち入る事では御座いませんが、まさか坊ちゃまが『月の間』をルネ様にお与えになるとは思いませんでした。
月の間は、我が邸宅で最も素晴らしい寝室であると同時に、坊ちゃまにとって、最も辛い記憶がある場所でもあります。
実の母親に拒絶されるという経験はあまりに残酷で、幼い子供の人格形成において、破滅的な影響を及ぼしました。
月の間の前で、毎日のように涙を流す坊ちゃまの姿が、忘れられません。
そんな部屋に、今はルネ様が居ます。
その事実だけで、あの部屋がアイザック坊ちゃまにとって、心安らぐ場所になる。
本当に、ルネ様は素晴らしいお方です。
感謝してもしきれません。
本当に、我が邸宅にいらしてくださって、良かった。
アイザック坊ちゃまの事ですから、何らかの意図があってルネ様をお連れしたことは、使用人全員承知しております。
ですが、我々としては、ルネ様を侯爵夫人としてお迎えしたいと本気で思っております。
何としてでも。
「ジュリア、ルルはまだ来ないのですか?」
ああ、ルネ様。
いけません、その様なワクワクとした愛らしい表情をなさっては。
「まもなくいらっしゃるかと思います」
「そうですか!楽しみです」
ご主人様がそのお顔を見たら、あの店員は間違いなく出入り禁止となることでしょう。
ルネ様がお倒れになられてから、一週間が経とうとしております。
ルネ様は、引きこもり場所を書斎から月の間へと移されました。
いいえ、もはやここが書斎になりつつあります。
ルネ様がお倒れになった翌日、街の書店からそれはそれは大量の本が届きました。
こちらとしましては、書斎へ行きたがるルネ様を止める手間が省け、大変助かっておりますが。
更にご主人様は、ルネ様の為に、毎日書店の店員をお呼びになります。
ルルガノ・ブルックス氏。
スラッとした体型と、子猫のようにフワッとした髪質のせいでとてもお若く見えますが、年齢は三十二歳だそうです。
いつも黒色のエプロンをなさっていて、商売人らしからぬ柔らかい雰囲気の方です。
ルネ様は、ブルックス氏がいらっしゃるのを心待ちにしています。
お二人の会話は、正直聞いていてもよく分かりませんが、とても楽しそうです。
ルネ様を男性にしたら、ブルックス氏の様な方になるのではないかと思います。
ですが、我々メイドとしては気が気ではありません。
ルネ様が、無愛想なご主人様よりも、ブルックス氏に心を寄せてしまうのではないかと心配なのです。
いっそのこと、ご主人様の手で出入り禁止にして頂いたほうが良いのかもしれません。
ご主人様は、間違いなくルネ様に惹かれておいでです。
ルネ様と初めて朝食を共にした朝の、あの表情。
我々メイド達の目はごまかせません。
テーブルに膝をぶつけるご主人様を見たのは初めてでした。
冷徹侯爵と呼ばれるご主人様ですが、それは、いつもご自身を犠牲にし、誰もやりたがらない仕事を、お一人で背負ってきた結果に過ぎません。
ご主人様は、我々使用人の名前を全て覚えておいでで、その家族の状況まで把握されています。
私の父が体調を崩した時には、私が言い出すより先に長期休暇をくださり、お医者様の手配までして下さいました。
本当に、心優しい方なのです。
それなのに、重圧に耐え、自己犠牲を当然のように受け入れるご主人様を、我々使用人は見守ることしかできませんでした。
そんなご主人様が、一人の女性に惹かれ、日常に小さな喜びを見出していく様子をお見受けする日が来るとは。
我々使用人からすると、奇跡のような変化なのです。
ですので、ルネ様がご主人様の寝室へ向かわれると聞いたあの夜、我々は持てる技術の全てを出し尽くし、ルネ様を送り出しました。
「ご主人様ったら、意気地なしね」
マリアンヌが、熱にうなされるルネ様のお着替えを手伝いながらつぶやきました。
お倒れになったルネ様のお身体は、まっさらで、痣一つありませんでした。
一夜を共にしたとはいえ、どうやらお二人の仲は、まだそこまで深まっていないご様子。
ですが、諦めるには早すぎます。
我々、ルネ様の専属メイドの力で、ご主人様の初恋を実らせてみせます。
何としてでも。
「ジャスティン・アセリア伯爵、後は頼んだ」
カロン侯爵が帰った執務室。
時計を見ると、既に日付けが変わっている。
今日も、ここへ泊まるか。
覚悟を決め、ネクタイを外す。
私が侯爵邸へ押しかけた日から、カロン侯爵は休むことなく、遅くまで仕事をしてくれている。
元々、責任感の強いお方だ。
泊まり込んで仕事をすることは良くあった。
だが今は、どんなに遅い時間になっても、侯爵は必ず邸宅へ帰る。
理由は、ジェラール伯爵令嬢だろう。
俺は、下から見上げる、緑色の瞳を思い出した。
まさか、書斎のネズミがあんなに美しい女性だったとは。
『ジェラール伯爵邸には、妹の美しさに嫉妬した醜い私生児が住み着いている』
『皇室医師であるジェラール伯爵でも治療ができないほと、酷い精神病にかかっている』
『書斎から一歩も外に出ない、書斎のネズミ』
私が聞いていた噂の、どれにも当てはまらなかった。
あの美しさなら、侯爵が見初めるのも無理はない。
それに、お心もとても広かった。
胸に秘めたときめきを味わっていると、突然ドアが開いた。
「アイザックは居る?」
年代物のブランデーを手に、皇太子がニコニコしながら入ってきた。
「帝国の若き獅子、皇太子殿下にご挨拶申し上げます」
「あれ、ジャスティンしか居ないの?」
「カロン侯爵は、既に退勤なさいました」
「えー、いつもだったら泊まっていくのに」
皇太子は不思議そうに首を傾げた。
「まぁいいや。ジャスティン、付き合ってよ」
「ありがとうございます」
最悪だ。
今何時だと思っているんだこの男は。
自分だけは、晩餐も入浴も済ませて。
私は笑顔でグラスを受け取り、ブランデーを空きっ腹に流し込んだ。
「ジャスティンがアイザックを連れ戻したんだってね」
「連れ戻しただなんて、とんでもございません。私の不出来を憂いて、戻ってきてくださったのです」
「そんな謙遜する必要ないよ。アイザックよりも優秀な成績で卒業したんだからさ」
また始まった。
このお方は、カロン侯爵の足を引っ張ることに、なぜこうも情熱的なのだろうか。
カロン侯爵の評価されるべき功績を逆手に取り、冷徹侯爵という印象を世間に植え付けたのも、皇太子殿下だ。
「そういえば、書斎のネズミには会ったの?」
まずい。
カロン侯爵が、ジェラール伯爵令嬢に本気だということが知られては、どんな嫌がらせをされるか。
「いいえ。お会いすることは叶いませんでした」
「そうなんだ。見舞いにでも行ってみようかな」
「なりません、皇太子殿下。皇族が私生児を見舞うなど、前代未聞です」
「…冗談だよ。随分必死だね、ジャスティン」
ギクリと肩が揺れる。
「失礼致しました」
「いや、いいんだ。どうせ近々会えるからさ」
「それは一体…どういうことでしょうか?」
皇太子が、ニヤリと口角を上げた。
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