いわくつき少女と魔導書(6)
「ここがフィーさんのお家かぁ」
「しかし、なんとも不気味な場所ですね……」
「ははっ、確かに不気味だな。だが、その分静かでいいんだよ」
街の最下層にある俺の家は、喧騒とは無縁の場所にあった。
食堂から漏れ聞こえる賑やかな声もなければ、隣近所はほぼ空き家で人の気配すらなく不気味なほど静まり返っている。各家々から立ち上る蒸気もないせいか、街の中心に建設された昇降機が、各階へと往来する動きがはっきりと見えるほどだ。
「男の一人暮らしだから、お世辞にも綺麗とは言えないが。まぁ、好きに使ってくれ」
「それでは、お言葉に甘えて失礼します」
「お邪魔しまーす」
重たい木製のドアを開けると、年季の入った蝶番がきしんでキキィと乾いた音を立てた。
好奇心旺盛な猫みたいな顔をして、シュイはドアの間から顔だけを覗かせて室内を見渡した。すぐ目の前に広がるリビングを目にしたとたん、シュイは躊躇いなど捨てたみたいな勢いで中に踏み入れた。
「わぁ、見てみて! 壁一面、本棚だよ」
「まるで図書館ですね」
興味津々に眺める2人の後ろ姿を横目に思わず苦笑いを浮かべた。心の中を覗かれているような、なんともむず痒いような恥ずかしさを覚えていた。
リビングといえば、中心に大きなテーブルがあって、家族でゆったりと座れるような大きなソファが置かれているのだろうが、俺が使っているリビングはすべての壁が本棚になっている。中央には煙突つきの薪ストーブを置き、その傍に一人掛けのソファを一脚置いているだけのシンプルなものだ。
「フィーさんって、本が好きなの?」
「好きというか、職業柄というか。まぁ、好きではあるかな」
そう答えて間もなく、シュイがくるりと振り返って、どこか申し訳なさそうに上目遣いでこちらを見つめた。
「どうした?」
「ねぇ、フィーさん。本当にお部屋使っていいの?」
「んー……まぁ。こうなったからには、仕方ないだろう?」
遡ること数時間前――〈黒猫亭〉を出てから、俺達はシュイが泊まれる宿探しを開始した。だが、どこへ行っても満室、満室、満室。大きな宿から個人経営の小さな民宿まで当たったが全て駄目だった。どうやら、近くの砂漠で亡霊の目撃情報が相次いだらしく、別地区のエリアから派遣された傭兵達の予約で埋まってしまったらしい。数週間先まで予約で埋まっていると聞き、仕方なくしばらくは俺の家に居候させることになったというわけだ。
「2階の一番奥の部屋は客間として開けてあるから、好きに使ってくれていい」
「フィーさん、ありがとう! しばらくお世話になります」
「シュイ。せっかくですから、バスルームをお借りしては? 2日間もあそこにいたわけですし……おまけに綺麗な髪も砂だらけです」
サナはせわしなくシュイの周りを飛び回った。その度にシュイの髪が揺れ、白金色の綺麗な髪の間からわずかに黄金の砂が舞い落ちている。足元に散らばった砂を見て、さすがのシュイも申し訳なさそうにしていた。
「風呂場なら、廊下の突き当りを右だ。着替えは……何か着られそうなの用意しておくよ」
「何から何まで、本当にごめんね」
「ささ、シュイ。行きますよ」
廊下の奥へ消えていくシュイの後ろ姿を見送り、俺はリビングのソファにどっかりと腰を下ろした。天井をぼんやりと見上げて溜息をつく。何も考えず、ただただぼうっとするこの何もない瞬間が心の底から落ち着く。
「今日は久々にいろんなことがあったな……いや、あり過ぎだな」
目を瞑ると音が聞こえる気がする。
廃墟に行って遺産を掘り起こして、それを買い取ってもらって報酬を得る。代わり映えのしない日々に、突如シュイとサナが飛び込んできた。出会ってから一日と経っていないのに、こうして家に居候することになるなんて、助けた時は想像すらしなかった。
「本当、人生何があるかわからねぇな」
まるで他人事みたいに笑って、ソファの足元に積んであった本を1冊手に取ってページをめくった。
それからどのくらい経っただろうか――薪ストーブにくべた薪がパチチッと弾ける音に重なるように、ふわりと石鹸の香りが鼻先を掠める。ストーブの前で胡坐をかいて本を読んでいる俺の背後から、ヒタヒタと近づく足音につられて振り返った。
「いいお湯だったよ。フィーさん、ありがとね」
「そうか、それはよかった」
風呂から上がったシュイは、濡れた髪をタオルで拭きながらリビングへと戻ってきた。
砂だらけの赤いワンピースを着せるわけにもいかず、着替えは俺が昔着ていたシャツを貸したのだが、小柄なシュイには大き過ぎたらしく、裾が膝上あたりまでしっかり隠れていた。そこからスラリと伸びる細い足がしっかり見えていた。
「シュイ、下はどうした? ズボン、用意してあっただろ」
「えっと、お腹のところがゆるゆるで、穿いても落ちてきちゃって。フィーさんのシャツ、丈が長いし、ワンピースみたいで可愛いから大丈夫」
そう言いながらクルリと1回転して見せた。その姿を見た瞬間、言いようのない背徳感が溢れ出して、思わず頭を抱えてしまった。
娘を思う父親の心境で迎え入れたものの、よく考えればここは独り身の男の家だ。野宿をさせられないからと招き入れたが、やはり拙かったのではないか。そういえば、この家に女性を入れるのは何年ぶりだろうか。色々な言葉が頭を巡った。
「フィーさん、僕もいることをお忘れなく」
まるで俺の心の葛藤を見透かしたようにサナの声がした。
驚いて顔を上げると、息を吞むくらいに綺麗な顔立ちの少年が立っていた。透き通るような白い肌に銀色の髪とルビーを埋めこんだような真っ赤な瞳をしている。一瞬、何が起きたのかわからず、その少年を凝視していた。
「うわっ! 誰だ、お前っ」
「サナですよ」
「いやいや、その姿!」
「あぁ、言い忘れていましたね。僕は夜になると人間の姿になれるのです。夜は僕の魔力の源である月の力が強くなりますので、このくらいは容易いです」
「噂には聞いてたが、想像以上だな。さすが古代の魔導書」
「お褒めいただき光栄です。まぁ、僕の力はこれだけではありませんけどね」
淡々と告げると、くるりと踵を返してシュイのもとへと歩み寄った。
手を引いてソファに座らせると、持ってきたタオルでシュイの髪を拭いたり櫛で綺麗にとかしたり。おそらく、普段からそうされているのか、シュイもサナに身を任せて気持ちよさそうにしている。
「シュイ、しっかり髪を乾かさないと風邪をひきますよ」
「うん、わかってるよぉ」
「お風呂上りには水分補給と肌の保湿もしっかりしてくださいね。二日間、灼熱の砂漠で遺跡の穴に落ちていたのですから」
「うんうん、わかってる」
「それから、夜食用にシュイの好きなトマトスープを作っておきました。あとで食べてくださいね」
「わぁ、嬉しい! サナ君の作るトマトスープ、とっても好きなの。ありがとう」
そのやり取りは、主と魔導書というよりは過保護な母親と娘のよう。ふんわりと柔らかな雰囲気をまとうシュイは、サナから見ると危なっかしく見えるのかもしれない。俺が父性を感じたように、ひょっとしたらサナも同じようにシュイを見ているのだろう。
「サナ君。トマトスープ、食べてきてもいい? 安心したらお腹すいちゃって」
「えぇ、もちろんでです。たくさんありますので、お代わりしてください」
「うん、ありがと。フィーさん、キッチン行ってくるね」
ソファからぴょんと立ち上がり、鼻歌まじりに駆けていく。その後ろ姿を愛おし気に見つめて見送り、サナがすっくと立ち上がったかと思えば、スタスタと玄関のほうへ歩いて行った。
「サナ、どこ行くんだ?」
「これから仕事を探してきます」
「仕事? サナが働くのか?」
「こうして人間の姿になれる夜の間だけですがね。シュイの食費がかなりかかりますので、今までも働いて補填していました。シュイの食欲が旺盛なのは、僕にも原因がありますしね」
サナ曰く、シュイとサナは魔導契約を結んでいるため、サナが存在していられるのはシュイが生きているからであり、シュイから魔力を分けてもらっているからだそうだ。不足した魔力を補おうと、シュイは食べることで魔力を補充しようとしているのではないかとサナは言った。
「それで仕事探しか」
「シュイが空腹で命を落とせば僕も消滅しますので、しっかり食べて元気でいてもらわなければ困ります。では、行ってきます」
抑揚のない声でそう告げると、サナは夜の街へと出て行った。仄かに香るトマトスープの匂いを感じながら、再び手元の本に視線を落とした。