愛するあなたへ
領地での暮らしは快適だった。煩わしい付き合いから離れ、アナスターシアは優雅に日々を過ごしていた。ここまで心落ち着く日が来ようとは全く思っていなかった。
彼女は常にフィルを傍に居させた。フィルは最初こそ全く関わりのない自分だけ連れて来られた事実に戸惑っていたものの、随分と慣れてしまった。
アナスターシアが熱っぽく彼を見つめる度、彼はどうしてもその気持ちに応えてしまいたくなった。
傍から見て二人が想いあっているのは明確であったが、身分を気にしたフィルは一歩踏み出せずにいた。
ある日の夜、フィルはアナスターシアに呼ばれ、彼女の部屋に居た。
「お嬢様、こんな時間に……二人きりというのは、あまり……」
「もうみんな寝ているからいいじゃない、早くこっちに来て」
フィルは彼女に言われるがままベッドに腰掛ける彼女の近くまでゆっくりと向かった。彼女に自分を見上げさせてはいけないと思い、フィルは彼女の前に立つやいなや跪いた。
アナスターシアは、そうやって床に跪いているフィルを見下ろしていた。
「なにか話をしてちょうだい。あなたのことをもっと知りたいわ」
「……わかりました」
アナスターシアはベランダから吹き込む風に髪をたなびかせて、フィルがとりとめのない話をするのを聞いていた。
風が止み、僅かな環境音が消えた部屋の中には静寂が訪れた。
「――お嬢様が、どうして僕を気に入られているのか分かりません」
「知りたい?」
アナスターシアは妖艶に微笑んでフィルの髪を撫でた。
「……はい」
その魅力に魅入られたフィルは、唾を呑み込んで答えた。
「あなたは、私を助けてくれたのよ。覚えていないかもしれないけれど……あなただけよ、辛い時に寄り添ってくれたのは」
フィルは首を傾げた。
「失礼ながら、本当に記憶にございません」
「ふふ、当たり前よね」
アナスターシアはフィルを抱き寄せた。
「お、お嬢様……」
フィルは両腕を持て余し、どうしようかと迷ったが結局アナスターシアの想いに応えた。
「フィル、ずっと一緒に居てくれる?」
フィルは真っ赤になりながらはにかんだ。
「お嬢様が望むなら、いつまでも共に居ます」
二人はお互い抱き締め合いながら眠りについた。
翌朝、二人は清々しい朝の空気と涼しい風に体を撫でられて目を覚ました。
目を覚ますなり、アナスターシアはこれまで自分が経験してきたことをフィルに打ち明けた。
フィルは最初あまり理解していないようだったが、最後まで話す頃には手を口に当ててショックを受けているようだった。
アナスターシアは前回の人生でフィルが死んだことを話してしまったが、フィルはそんなことよりもアナスターシアの心の傷の方が気がかりだった。
彼はそれからより丁重に彼女に接するようになった。しかし、彼女に求められたとしても彼女に触れることは極端に少なくなってしまった。
「どうして私が触っていいと言っているのに遠慮するの?」
「それは……」
兄に犯されてしまった事を知ったフィルは、彼女が男性に触れられることがトラウマになってしまったのかと勘違いしていた。
正直にその事を話すと、アナスターシアは思わず吹き出した。
「あなたはいいのよ」
アナスターシアは、そう言うと呆然としていた彼を引き寄せてキスをした。
日がまだ沈まぬうちであったが、アナスターシアはネグリジェのリボンを解いた。
「――あなただけよ」
アナスターシアは肩に掛かったネグリジェをゆっくりと外し、まだ美しいままの体を晒そうとした。
しかしその手はフィルによって阻まれた。
「そ、そう、いうことは……成人してからの方が良いと思います……」
「だめ?」
「……無責任にあなたを穢したくないのです。もう少し待ってください……僕の心の準備ができるまで」
フィルにとってはその場しのぎの言葉であったが、アナスターシアにとっては十分に生きる糧となりうる言葉だった。
アナスターシアは嬉しさのあまりはだけた姿のままフィルに抱きついた。
彼はまた真っ赤になっていた。
それから何ヶ月か過ぎて、二人はより仲を深めていた。アナスターシアは名前で呼ぶことを許し、フィルは自らアナスターシアへ触れるようになった。
今日は二人で庭園に出ていた。
「今日はいい天気ね」
「アナスターシア、ちょっとこっちに来て」
フィルはそう言ってアナスターシアを呼び寄せると、庭園に咲いている黄色のダリアを数本手折って彼女に捧げた。
「まあ、綺麗ね」
大ぶりなダリアの小さな花束を大切そうに抱えて口付ける彼女は、まるで宗教画のような神聖さがあった。
フィルは愛おしくてたまらなくなって、アナスターシアを抱き寄せて頭に何度もキスを落とした。アナスターシアはそんなフィルを見てくすくすと笑った。
「私、幸せだわ……あなたとこうやって過ごせて嬉しい」
前までの痛ましい彼女は見る影もなく、満面の笑みを浮かべて幸せを享受していた。
「アナスターシア……僕の為に生きて、僕も君のために生きるから」
彼がよく言うそれは、愛の言葉だった。