幸せを掴むために
「…………フィル?」
テレンスの足元には、息も絶え絶えなフィルが横たわっていた。
テレンスは剣に付いた血を丁寧に布で拭った、その布をフィルの近くに放り投げると、アナスターシアの腕を掴んだ。
「さあ、帰るぞ。変な気を起こすんじゃないかと思っていたんだ。そう簡単に公爵邸から出られるわけが無いだろう。お前たちは馬鹿だな」
そう笑うテレンスと前回のテレンスが重なり、アナスターシアはあの屈辱を思い出した。
しかし怒りよりも、悲しみが先に来た。
「……人を痛めつけて楽しいの?」
今にも泣き出しそうな妹の顔を見て、テレンスは掴んでいた腕を離し、屈んで彼女に目線を合わせた。
「私がどれだけ心を痛めているか、お前には分からないだろう」
そう言ってテレンスはアナスターシアの頭を撫でたが、アナスターシアにとって彼の一挙一動が癇に障った。怖気立った。赦せなかった。
「わかるわけないでしょ!!私を凌辱しておいて、よくそう振る舞えるわね!」
「りょ、凌辱……?なんてことを――」
アナスターシアはテレンスが次に言葉を紡ぐ前に、テレンスが持っていた剣を奪い取ろうとした。しかし、テレンスはアナスターシアの腕を再び掴んだ。
「何をしようとした?」
アナスターシアは兄の鬼気迫る表情にあの夜の恐怖を思い出してしまった。彼女は腰が抜けて、地面に倒れ込んでしまった。
立てなくなってしまった彼女を、テレンスは軽々と持ち上げた。アナスターシアは抵抗する気力もなくなって、フィルの遺体を名残惜しそうに見ていた。
彼女は18歳になるまで離れに幽閉された。
何度も自殺しようと思ったが、前回は死ななかったのにも関わらずまた時が戻った。つまり、卒業パーティーの次の日には時が戻るということである。
無駄に痛い思いをしなくて済むのだと分かった彼女は、フィルを想いながら魂が抜けたように日々を過ごした。
また目が覚めた。
アナスターシアは目覚めて早々ベッドから飛び降り、走り出した。
向かう先は、父の執務室だった。
切羽詰まったような大きなノックの音に、書類に目を通していたバルフォア公爵は動きを止めた。
いつものように、可愛い一人娘がおねだりをしに来たのだと思った。
しかし、扉が開いた瞬間、その愛娘は床に膝を付いて土下座した。
「お父様、私をバルフォア公爵家の籍から外してください」
彼女を説得する前に、公爵はみっともない格好をした彼女を立たせた。
彼女の顔は真っ青で、手は震えていた。
「どうしてそんなことを言うんだい?」
「…………理由は、言えません。いいから、お願いします」
余裕のない彼女を見て、公爵はこのお願いは到底叶えられないなと思った。ただならぬ理由なのだろうが、いかんせん彼女は箱入り娘だった。理由を聞き出したところで、大したことない理由だと思われていた。
「アナスターシア、それだけは駄目だ。籍を外したら、きっと君は生きていけないよ」
彼女はその返答を聞くと、覚悟を決めたかのように虚ろだった目に光を宿した。
アナスターシアは、公爵の部屋にあるはずの小さなナイフを探し始めた。
「アナスターシア、何を……」
公爵の執務室の机の中にあるナイフを取りだしたアナスターシアは、迷わずその刃を腕に当てた。
公爵の息を飲む音が聞こえた。
「アナスターシア!」
声をかけられても、血が止まらなくても、彼女は己を傷つけるのをやめなかった。
公爵が彼女の手を掴み、自傷を辞めさせようとしたが、彼女は持てるだけの力で暴れた。
「お願いします!お父様、もうこんな所にいたくありません!」
アナスターシアはそう言うと、泣き始めてしまった。公爵はそんな彼女にどう接すればいいか分からなくなってしまっだが、それでも彼女をしっかりと抱き締めた。
泣きじゃくる彼女が落ち着き始めた頃、侍女を呼んで傷の手当をさせた。
侍女はアナスターシアの様子をみてギョッとした。瞳孔が開ききって、一目見ただけでおかしいとわかる程であったからだ。
公爵はわざとその侍女に口止めしなかった。
第二王子との婚約を辞退する時に役立つと思ったからだ。アナスターシアが正気を失ったと知れば、王は婚約を諦めるはずだと公爵は睨んだ。
「アナスターシア、君がどれだけ本気かは分かったが……本当に籍を外さないといけないのかい?社交界から離れるのじゃ駄目かい?公爵領で暮らすのはどうだい」
アナスターシアはハッと顔を上げた。
「離れられるなら、どこでも……」
焦燥しきった彼女が、希望を取り戻したかのように微かに微笑んだ。公爵は、そんな彼女の様子を見て余計なことを言うのは辞めた。
「今すぐ、今すぐお願いします。学園は辞めます。辞めさせてください」
可哀想な我が子の頼みを断れるほど、公爵は残酷ではなかった。
そうして、アナスターシアは王都の公爵邸から離れ、公爵領の屋敷へ向かった――もちろん、フィルを連れて。