噂の真相
アナスターシア・バルフォア
彼女は公爵家の一人娘として生まれた。父親が娶った国一番の美人である母親の血を色濃く継ぎ、顔だけは良い子として、父親に溺愛されて育った。感情的になりやすい所と、あと1つ、何をさせても平凡な結果しか残せないところが欠点であるが、それも些細なことに思えないほど彼女の美貌に皆が骨抜きにされていた。
その彼女が、突然狂ったという。
前触れもなく、狂ってしまった。
「今日もお嬢様が発狂しているらしいわ」
「お嬢様にも困ったものね、彼女、起きている時はずっと叫んでいるらしいわよ」
厨房の中で不用心にもそう話す使用人達の話を聞き流しながら、見事な手さばきで仕事をこなす一人の男がいた。
「フィル!今日もご苦労さん、先に食べてていいぞ」
「ありがとうございます!アンドリューさん!」
下っ端として働く彼の名前はフィル。前々からこの屋敷で働いており、最近になってようやく出世の兆しが見えてきた男である。
「おい、聞いたか?お嬢様が部屋を離れに移されたらしい」
「公爵様も見限ってしまったのか」
またアナスターシアに関する噂が広まっているが、フィルはその噂をてんで信じていない。彼は自分の目で見た事だけを信じる実直な男だからである。と彼は思い込んでいるが、実の所噂が大好きである。
さっさと賄いを平らげ、フィルはその離れに向かった。――彼は若さゆえに怖いもの知らずであった。
ただでさえ誰も近寄らない少し古びた離れに、温室育ちのお嬢様が耐えられるのかと、ただの興味で立ち寄った。
人ひとり居ないのでは無いかと思われるほど静まり返った離れの中に、彼は足を踏み入れた。
埃こそないものの、屋敷の中を歩く度に床の板が軋んで大袈裟な音を立てるほど年月を経た屋敷であった。
言葉にし難いほど、耳障りで不可解な叫喚が屋敷の中に響き渡った。
フィルはその声が大きくなる所に向かって走り始めた。
3階の一番奥の部屋からその叫び声は聞こえていた。フィルはぴったりと閉じられた扉をゆっくりと開け、その中を見た。
そこには、喉を掻きむしりながら発狂するアナスターシア・バルフォアが居た。
侍女どころか使用人すら居ないこの屋敷の中で、悲痛な叫びだけが響き渡っている。フィルはいたたまれなくなって、思い切って彼女の部屋に入り込んだ。
目も当てられないほど可哀想な彼女に近付き、彼女の背中を撫でた。
「お嬢様、大丈夫ですか」
「助けて!助けて!もう痛いのは嫌よ……いや、いや、いやっ!!ああああああぁ!」
言語でない叫びの中に、そう言っているのが確かに聞こえた。
まずは宥めて話を聞こうと、フィルは背中をさすり続けていた。
「僕がいた孤児院では、泣いている子がいるといつもこうやって慰めていたんですよ」
幼子を慰めるように声をかけながら、彼は手を動かし続けた。
しばらくすると、彼女は叫ぶのをやめて泣き始めてしまった。
「……あなた、こんな所で何をしているの」
「お嬢様の声が聞こえたので、参りました」
「ここは私が呼ぶ時以外、使用人は立ち入り禁止よ。知らなかった?」
「…………そう、ですね」
噂を聞いてすぐに飛び出したうえに、何も知らされていなかったフィルは気まずそうに彼女から目を逸らした。
「ふふ、ばかね」
初めて見た彼女の顔は、ボロボロでありながらも美しい輝きを放って、フィルが目を逸らすことを許さなかった。
「あなた、名前は?」
「フィルと申します」
アナスターシアはフィルの顔をまじまじと見つめ、柔らかく笑った。
「あなたにだけ、いつでもこの屋敷の中に入る許可を与えるわ。また、さっきみたいにして欲しいの」
フィルは、有無を言わさぬようなその圧倒的な雰囲気に呑まれ、これが気品かとやけに納得してしまった。
「光栄でございます」
「孤児院の話も、あなたの話も聞かせてほしいの」
「かしこまりました」
「虐められたら、いいなさい。私が退治してあげるわ」
「有難う存じます」
噂よりも柔らかくて、美しくて、可愛らしい人だと、フィルは思った。
言いたいことを全て言い終わったような、満足そうな表情のアナスターシアを見て、フィルは深くお辞儀をして部屋を出た。
フィルは不思議とお仕えしたいと思う、あの美しい彼女の笑顔を思い出しながら足取り軽く持ち場に戻った。