6
「うちの近くで死んだ、動物の霊……?」
「そう」
数日後の日曜日、積とことみは、公園に絢を呼び出していた。
積はピアスをいじりながら、プリントアウトした当時の新聞記事を絢へ渡す。絢はそれへ目を落とし、顔をしかめた。
「ひどい……」
「ほんとにね」
「でも、どうしてわたしが……?」
顔を上げた絢は、涙ぐんでいた。積は肩をすくめる。「一般論だけど、そのひとが霊を成仏させる力があるかどうか、動物霊にはわからない。でも、優しくて、自分達を助けてくれそうなひとだから、すり寄っていく。そういうことはあるよ」
「わたし、優しくない……」
絢の声は震えていた。ことみはそれを、険しい顔で見ている。
積が記事をひきとり、トートバッグへしまった。「君の家に集まってる子達は、俺が浄霊しようと思う。ただその為には、君の家に這入らないといけない」
「でも……」
「絢さん」ことみは真剣に云った。「匡人くんのことに、支障が出たら、困るでしょ。ご両親もわかってくれるわ」
「でも、わたしが引き寄せちゃったんでしょう?」
「匡人くんが困るかもしれないの」
ことみの言葉は、絢を動かしたようだ。彼女は逡巡を見せたが、二分程して、頷いた。「わかった……わたしの部屋なら、大丈夫だと思う」
積を見るや、絢の母はいやな顔をした。
「あら、またお友達?」
「うん……」
「絢、あなた、大学へは勉強へ行ってるのよね」
いやに棘のある言葉だ。絢はとり繕うように云う。「お部屋で、お勉強するから」
「ああ、辞めて頂戴。今は高山先生がいらしてるでしょう。騒いで匡人の邪魔をするつもり?」
絢の母はそう云って、積にもことみにも挨拶らしいものはせず、ひっこんでしまった。絢がはずかしそうに顔を伏せ、リビングを示す。「どうぞ」
「お邪魔します」
積とことみの声が揃った。
リビングに這入ると、キッチンで作業している絢の母が目にはいる。カウンターに、ケーキの皿がのっていた。匡人と高山青年に出すのだろう。
「ママ、ここでお勉強してもいい?」
「騒がないならね」
絢の母はとげとげしく云って、ケーキの皿と紅茶のマグをのせたトレイを持って、廊下へ出た。
ことみは積を見る。積はにやにやしていた。「ビンゴ」
絢はソファで小さくなっている。今にも消えてしまいそうだ。
積とことみは、絢の淹れてくれた紅茶を飲んでいた。積が顔をしかめ、金のピアスをいじる。ピアス穴にかすかに血がにじんでいた。
ことみはそれを見ながらもうひと口紅茶をすすって、顔をしかめてマグをソーサーへ戻した。積が顔をしかめた理由がわかる。紅茶は妙な味がした。血のような味だ。
「おいしくない?」
「え?」
絢が心配そうに訊いてきた。ことみは頭を振る。「そうじゃなくて……」
「ごめんなさい、さっき、分量を間違ったかも。わたしって、なにをやってもだめなの。こわがりだし……あ」
絢がかたまった。
怯えた顔で、ぐいっと天井を見る。積が云う。「どうかした?」
「……いつもと違う声になってる……」
あしおとがして、絢の母が戻ってきた。トレイを持ったままだ。いらだたしげに、ケーキを流しへ叩きこみ、マグもそうする。がちゃんがちゃんと食器の割れる音が続いた。絢がびくっとして、立ち上がる。「ママ? どうしたの?」
「匡人の成績が落ちた理由がわかったわ!」
どたばたと、高山青年と匡人が走り込んできた。「奥さん」「ママ」
「出ていってください、高山先生!」絢の母は金切り声を出す。「あんなものを持ちこむなんて! 動物なんて、飼ってもなにもいいことなんてないんです! 不潔だし、いきものだから死んでしまうわ! そうなったら子どもの心が傷付きます」
「しかし、匡人くんは」
「絢!」
絢の母の怒りの矛先は、高山青年から絢へとうつった。絢はぶるぶる震え、涙を目にいっぱいためている。たった今、子どもの心を云々した母親は、絢に向かって険しい表情で怒鳴った。
「あなたが猫を持ちこんだり、この間も動物を寄せ付けたりして、匡人にまでそれが移ってしまったじゃないの! 匡人があんたみたいに解剖をいやがったらどうするの! おじいさまが匡人には外科のお医者さまになってほしいって云ってるのに、あんたみたいに血がこわいなんて云いだしたら」
「だってママが」
絢が喘いだ。「だってママが……」
やばいな、と積がささやく。
音をたてて、照明が弾けとんだ。
高山青年が絢に飛びつき、倒れた。高山青年に照明の欠片が降り注ぐ。絢の母が目を瞠っていた。
「ことみ、伏せて!」
ことみは積の声に即座に従った。その場で姿勢を低くし、鞄で頭を庇う。
絢が悲鳴をあげた。それにかぶさるように、猫や犬の声がする。威嚇するような、怒っているような声だ。それはどんどん高くなっていった。
ことみはトートバッグの向こうで、絢が上半身を起こすのを見た。彼女は泣いている。「ママが云ったんじゃない! ママが! うちでは猫は飼えないからって、絢に猫を殺しなさいって云った! あんなことしたくなかったのに!」
フランス窓が、外からなにかにぶつかられたみたいに割れた。
実際、なにかにぶつかられたのだろう。
それはことみには見えないものだった。だけれど、そこに存在する。
割れた照明やがらすを、それはおしのけながら移動していった。絢の母が悲鳴をあげる。言葉にならない、獣のような叫び声だ。
絢が泣き喚いて、高山青年が絢を抱きしめている。「絢が殺したの……!」
「ことみ、鞄」
「はい!」
鞄を積へ投げた。積は動物の声や、打ち付けてくるような風をまったく気にせず、まっすぐに立っている。「なあ、話し合おうぜ」
ことみには見えないが、感じられた。なにかが積にぶつかった。積がよろける。だが、彼は動じない。
「いい加減にしろよ。お前達が助けたい人間は、絢さんだろ」
積の手が、金のピアスに伸びる。「絢さん、こわがってるじゃないか。これ以上こわがらせるなら、俺もしたくないことをしないといけなくなる」
絢が悲鳴をあげた。積は溜め息を吐いた。
「しょうがないな。俺、動物といまいち話が通じないから、苦手なんだよ……」
彼は云いながら、ピアスを外した。
絢が座りこんで泣いている。高山青年がそれを抱きしめて、なだめていた。傍には匡人が立っていて、やはり姉を気遣っている。「お姉ちゃん、血が出てるよ」
ことみは積と一緒に、絢の母をソファに横にさせたところだった。あれだけの騒ぎを起こしたのに、隣近所から誰かが様子を見に来ることもない。おそらく、外の人間にはなにも聴こえていないのだろう。
積はピアスをつけなおして、あいたソファに腰掛ける。「寿司くいたい」
「つみくん」
呆れ声が出てしまった。積はぐったりと、ソファに沈みこむ。
高山青年が綾を立たせ、椅子へつれていった。匡人がキッチンへ這入って、がらすのコップに水を汲む。「お姉ちゃん、はい」
「うん……まさと、ありがと……」
「ことみさん」
高山青年がやってきた。気を失ってぐったりしている絢の母を見て、ひっと息をのむ。ことみは溜め息を吐く。「はい?」
「あ、ああ……あの、彼は?」
「普通の男子学生です」
積がふざけた調子で云い、しかし溜め息を吐いた。「彼女のお母さんなら、多分大丈夫ですよ。まあ、大丈夫じゃなくても、自業自得というか……」
「え?」
積は傍らに落ちたトートバッグを示した。なかには、例の、動物の死体が見付かったという記事をプリントアウトした紙束がはいっている。
それに、動物の餌や、おもちゃも、幾らかはいっていた。ふたりで数日かけて、当時ペットを殺された家をまわり、そこで飼われていた動物の好物や、好きだったおもちゃを訊きだし、集めておいたのだ。供養につかえるかもと積が云ったから。
殺された動物は、野良猫や野良犬ではなく、近隣のペットも含まれていた。どういう理由かは知らないが、絢の母は動物という動物を毛嫌いしていたようだ。
積はピアスをいじる。あれは、彼の母親が特別につくったものだ。積が余計なものを見ないよう、余計な音を聴かないよう、力を制限させるものである。
「お供えしておいてください」
「……あの」
「ことみ、帰ろう」
「うん」
ことみは高山青年を見る。「絢さんのこと、頼みます」
高山はこっくり頷いた。
絢が休学した。
「お庭に、沢山、動物の骨が埋まっていて……」
大学の傍の公園で、三人はまた集まっている。絢はベンチに腰掛け、ことみはその横に座り、積はブランコを立ち漕ぎしていた。
絢は、意識して嘘を吐いた訳ではない。ただ、記憶に蓋をしていた。隠れて飼おうとした猫が母に見付かり、自分の手で殺すよう命じられ、逆らえなかったという思い出を、封じ込めていた。
血が苦手になったのも、一因はそれだろうと、精神科で云われたという。それがすべてではない。母親が庭に這入りこんだ動物をスコップでたたきのめすのを、絢は何度も目にしていた。絢の母は、絢の父や匡人にはそう云った姿を見せなかったのに、絢にだけは見られても気にしなかった。猫を殺した過去のある絢が口外しないだろうと思っていたのか、それとも自分に逆らって動物を家にいれた絢に対する長期にわたる罰だったのか、絢の母がなにも認めていないのでわからない。
絢の母は、藤総合病院の系列の精神病院で、療養中だ。絢の父は絢の話を聴き、業者を手配して庭を掘り返させ、動物の骨を回収させている。すでに、近隣のペットを失った家邸にも、謝罪をはじめていた。
「ママ、犬や猫をひいてたこともあったみたいで」
「え」
「バイク、何度も塗装してて、その会社のひとが、おかしいって思ってたけど、誰にも云えなかったって、この間パパが」
ことみは積と顔を見合わせた。あの陸上部の学生の話を思い出したのは、ことみだけではないだろう。
絢は項垂れている。
「匡人がこわい思いする前で、よかった」
「……そうね」
「ママ、おじいちゃまやおばあちゃまから、どうしても子どもをお医者さんにって云われてて、それが悪かったんじゃないかって。結婚する時にも、看護師となんてって云われて……」
たしかにそれはプレッシャだったのだろう。だが、庭に這入りこんだ程度の動物を殺す理由にも、猫を飼いたいとこっそり世話していた娘に猫を殺させる理由にも、ならない。
絢は両手をこすりあわせるようにする。
「わたしが、猫を殺しちゃったのは、本当のことなのよね。わたしが。だから、わたしが恨まれて、動物の霊が集まってきたのよね」
「絢さん」
積がブランコを飛び降りた。とぼとぼとやってくる。
「あのさ、あれ、一般論だから」
絢が不思議そうに積を見る。
積は肩をすくめる。「ほら。動物霊がどうしてよってくるのかってやつ。嘘じゃないけど、絢さんにはあてはまらない」
「……ええっと」
「あの動物達はさ、絢さんをまもりたかったんだ。絢さんと、絢さんが大事にしてる匡人くんを」
絢が口を噤んだ。不可解そうな顔をしている。
積はピアスをいじる。
「多分、あの子が絢さんがかくまってた猫だろうけど、絢さんがストレスを感じたり、こわい思いをしたりすると、まわりを見境なく攻撃しようとしてた。足跡も、絢さんに会いたくてなんだよ」
「……そうなの?」
「いろんな動物が、あの猫の云うことを聴いてた。絢さんが優しいのは、あいつらにはよくわかってたんだ。だから、絢さんのストレスがもの凄く大きくなって、あいつらが暴走しはじめた」
「ストレス……」
「お正月に、なにかあったんじゃない?」
絢はしばらく黙っていたが、ぽろりと口に出した。
「お正月に、親族で集まったの。匡人が中学受験をするからって、みんなで匡人に頑張れ頑張れって云ってて。わたし、自分が受験した時のこと、思い出してた。緊張して、なにも喋れなくて、ママに凄く叱られた。匡人も気の強い子じゃないから、あんなふうになったらどうしようって」
「それだね」
積はくいっと肩をすくめ、云った。「絢さんを恨んだり、絢さんに悪いことしようとして来たんじゃないんだよ、あいつらは。だから、絢さん。できたら、あいつらの供養をしてあげて。それで、絢さん自身がしあわせになって。そうなったら、あいつらは満足すると思う」
絢はぽろりと涙を流した。
泣きやんだ絢を、高山が迎えに来た。彼は医大生だそうで、将来は獣医を志望しているらしい。
ふたりは積とことみに頭を下げ、ゆっくりと歩いていった。それが、あのふたりのペースなのだ。絢の母は、絢を急かしすぎた。ゆったりと、静かに、こつこつと物事を積み上げていく子なのに。
ことみは積を振り返る。「あれ、本当?」
「本当」
積は溜め息を吐く。「動物は人間の決まりも、なにも、わからないからな。一途に絢さんを思って、暴走したんだ」
「……浄霊、できたの?」
「大半はね。でも、あの猫はまだ残ってる。あいつは絢さんに優しくされた分、恩を返さないと、あの世には行かないってさ。さっきも彼女の傍に居たよ。もう暴れるなって云っておいたから、多分大丈夫」
積はポケットに手をつっこみ、ちょっと考えるみたいにしてから、頭をかいた。「ことみ、寿司くいに行かない? 回転してるやつで悪いけど」
「うん」
「割り勘でも?」
「いいよ。つみくんと一緒なら、おいしい」
積がにやっとした。
ことみは積の手をとって、公園を出た。