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絢は台所で、紅茶を淹れている。カウンターキッチンというのか、ことみが座っている場所からそれが見えた。
「ごめんね、ママ、この間の足跡のことで凄くぴりぴりしてて」
「ううん」
「昔から嫌いなの、動物が。だから、わたしが猫を隠れて飼おうとした時も、凄く腹をたてて」
絢は顔をしかめる。「居なくなってた。いつのまにか。わたしはなんにもしらなくて……」
呆然としたような口調だ。ことみはなんとも云いかね、別の話題をさがす。
「いいお家ね」
ことみが云うと、絢は小さく苦笑する。声に力が戻った。「弟が生まれる少し前に、建てたの。こうやって、キッチンが見えたほうが、子どもの教育にいいんですって。家族の絆が深まるんだって、ママが云ってた。家族仲が好いと、成績も上がるし、情緒も育つし……」
「ふうん。よくわからないけど、素敵ね」
実際、室内はどこもかしこも完璧に整っていて、散らかったところはひとつもない。まるで、住宅会社が展示用に建てた家のようだ。冷蔵庫にメモが貼り付けられていることや、TVの前のローテーブルに車の雑誌が斜めに置いてあることくらいしか、生活感がない。
絢は紅茶をことみの前へ置くと、大きなフランス窓から外へ出て、洗濯ものをとりこんできた。とりこんだものをソファへ置いて、窓をきっちりと閉て、洗濯ものをたたむ。「手伝おうか?」
「ううん。たたみかた、違うと、パパが怒るから」
「そっか……ねえ、つみくんに見せたいから、ちょっとだけ撮影してもいいかな」
絢はことみを見上げ、こっくり頷いた。
ケータイで、一階の幾つかの場所を写真に撮った。それから、動画をまわす。
絢の部屋は二階だから、二階も見せてもらいたかったのだが、絢が拒んだ。
「どうして?」
「弟が……今、家庭教師のひとが来てるの」
「ああ」
あの革靴は、家庭教師のものなのだろうか。それとも、サンダルのほうかな。
絢の弟の邪魔をするのは忍びないし、絢がどうにもいやがっているようなので、ことみはひきさがった。
絢は紅茶を淹れ、戸棚からクッキーをとりだすとお皿にのせ、それらをトレイにまとめて二階へ運んでいった。すぐに戻って、リビングを動画に撮っていることみに並ぶ。
「ごめんね、いろいろ、あれはだめこれはだめって。腹がたつでしょう?」
「ううん。どこのお宅にもいろいろあるし、わたし達もお仕事ってことじゃないから、できないことも沢山あるしね」
絢はなんだか不満そうに唇を嚙んで、軽く俯いた。
「絢さん?」
「……お祓い、できない?」
「やだ、そういう意味じゃないのよ」
ことみは慌てて云う。絢はぎゅっと、椅子の背凭れを掴んでいた。手が白くなっている。
唐突に耳鳴りがはじまった。ことみは顔をしかめる。
「絢さん?」
「弟、中学受験があるの」
ことみは口を噤む。絢の声は、どうしてだか恨みっぽい。「わたしは、医学は肌に合わなくて。血がこわいの。どうしても血がだめで、解剖図も見ることができなくて。ママもパパも、わたしに失望してる。弟は、お医者さんになれそうで、わたしは邪魔しちゃいけないのに、弟が大事な時期に幻聴なんて、パパ達を困らせて楽しいのか、嘘じゃないのかって……」
「絢さん」ことみはきっぱりと云った。「それは幻聴じゃないと、わたしは思ってる。つみくんも、多分。ご家族になにかある前に、知り合いでもないわたしに勇気出して相談して、絢さん偉いと思うよ」
俯いている絢が、すんと洟をすすった。ことみは顔を背け、ケータイを仕舞う。「キッチン、かりていい? トースト食べたくなっちゃった。絢さん、甘いの嫌い?」
「……好き」
「じゃあ、おいしいのつくれるんだけど、食パンある?」
絢は涙のういた目でことみを見、こっくり頷いた。耳鳴りがすうっとひいていく。
「お姉ちゃん……」
「匡人、お勉強は?」
廊下から顔を出したのは、ことみが考えていたよりも小柄な少年だった。そろそろ中学受験と聴いているから、小学六年生か五年生なのだろうが、その子は130cmそこそこしかない。
その後ろから、顔付きは若いのだが白髪交じりの男性が顔を出した。こちらはひょろりと背が高い。「絢さん、今日の分は終わりました」
「あ、高山先生……」
絢の弟、匡人が、青年の腕をひっぱってリビングに這入ってきた。絢ははにかんで笑い、手にしていたトーストをお皿へ置く。「いい匂い」
「お姉ちゃんのお友達が、おいしいトーストをつくってくれたの」
「匡人くんも食べたい?」
ことみが無遠慮に訊くと、匡人はちょっと驚いたみたいだったが、すぐににっこりして頷いた。ぐいっと家庭教師の腕をひっぱる。「高山先生も食べてよ」
「いや、僕は」
「先生甘いもの好きだって云ってたじゃん」
匡人が口を尖らすと、高山青年は苦笑いして、匡人に促されるままカウンター席へ座った。
ことみは四枚切りの食パンに簡単に切れ目をいれ、オーブントースターへ放り込む。室温に戻したバターとはちみつをまぜた。
トーストがある程度焼けたところで一旦とりだし、バターとはちみつをまぜたものを少しだけ塗りつけて、もう一度焼く。こんがりしたらとりだして、お皿にとり、バターとはちみつをたっぷりのせる。
お皿を持っていくと、匡人は大喜びで、口のまわりをバターとはちみつだらけにしてトーストを食べた。高山青年も、遠慮しつつ、おいしそうにぱくついている。絢はふたりにあたたかい紅茶を淹れ、しあわせそうに微笑んで、高山青年に清潔なハンカチをさしだした。「先生」
「ああ、すみません」
高山青年ははにかんで笑い、ハンカチで口のまわりを拭う。高山青年と絢の目が合い、さっと逸らされた。
「匡人のお勉強、どうですか? その子、数学が苦手だから」
「大丈夫ですよ。最近、匡人くん頑張ってます」
「がんばってるよ」
匡人がトーストを口いっぱいに頬張って、胸をはる。「もうちょっとしたら、面接だもん」
小さな子どもににつかわしくない言葉が出てきた。ことみはぎょっとしたが、絢は微笑んで頷く。高山青年は、少しだけ哀しそうだ。
匡人はソファに座って、TV画面をくいいるように見ている。ただし、うつっているのは子ども版組やアニメーションではなくて、教材だ。匡人は家庭教師に教わるだけでなく、通信教育もうけているらしい。
高山青年は、お皿を洗って帰っていった。絢は彼が洗ったお皿を大切そうに拭いて、食器棚へしまう。「匡人、なに食べたい?」
「お寿司」
「じゃあ、小関寿司さんの上でいい?」
「うにがはいってるのやだ」
「ぬいてもらえばいいのね?」
匡人は頷いて、膝にのせたノートになにやらメモしている。
絢が固定電話の子機をとりあげた。「あ、ことみさん、お寿司大丈夫?」
「え……大丈夫だけど、戴けないわ」
「ううん、是非。匡人があんなに嬉しそうだったの、久し振りだもの。お礼と思って」
絢が今までにないような笑顔でいうので、ことみは断り切れず、頷いた。絢は寿司屋に三人前の出前を頼み、子機を架台へ戻す。
ことみは低声で訊く。
「面接って……今からあるの?」
「うん。わたしは、だめだったんだけど」
絢は一瞬、淋しそうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。「匡人なら大丈夫。……入学の一年くらい前から、何度かあるのよ。面接。学力だけじゃなくて、学校にあった子かどうかも見るんですって。幾ら成績がよくても、生活や態度が乱れている子はだめなの」
「へえ……」
ことみは大学二年生だから、就職活動はまだまだ先のような気がしているのだが、匡人はまだ小学生で、それに近いことをするらしい。口ぶりからすると、絢も経験があるようだ。
絢は顔を曇らせる。
「わたし、だめな子だから、血が苦手なんて理由で医学の道も断念してしまったし。匡人がパパやママの期待に応えてくれて、助かってるの。匡人にばかり大変な思いをさせている気もするけど」
ことみがなにかいう前に、寿司の出前が届き、絢が対応した。
匡人はまだ、ノートにメモしている。
「お寿司、おいしかったの」
「うん。絢さん、特上頼んでくれたの。いくらがぷちぷち弾けて、数の子もあって、新鮮ないわしが最高だった」
「俺も行けばよかったな」
積はそう云って、甘い炭酸飲料を飲む。
ふたりは幡多神社の境内に居る。手水舎のすぐ近くの楠に寄りかかっているのだ。
「写真、見た? 動画も」
「見たよ。凄い家だね。人間が暮らしてると思えない」
積はそれなりに辛辣な調子で云い、炭酸飲料の壜をからにする。
ことみはそれに云い返せない。だから、尋ねる。
「原因、わかった?」
「どうかな。でも、面白いものは見付けたよ」
積はケータイを操作し、こちらへ向けた。古い新聞記事のようだ。「……犬の死体?」
「七年くらい前から、五年くらい前にかけて、彼女の家の近くで沢山の動物が死んでる」
積が画面に触れ、写真を出した。個人のブログだ。飼い猫が死んでしまって、お葬式をしたという。「あ」
「うちで出したお葬式だったよ」
写真には、幡多神社の手水舎が映り込んでいた。
「七年前なら、彼女は中学受験に失敗した後だ」
「ねえ、つみくん、まさか、彼女が殺した動物が……なんて、云わないよね?」
積は謎めかして微笑んだ。
「ことみ、俺からも見料とる?」
ことみは頭を振る。
占ったのはふたつだ。それで、絢が真実を云っていないとわかった。