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 翌日、ことみは積と一緒に、女子寮の事務室に居た。

 俺ひとりじゃ確実に断られるし、と、積に応援を頼まれたのだ。ことみは今日、午后しかとっている講義がなので、積を手伝うことにした。

「足跡の写真、多分これにはいってると思う」

 ふたりにお茶を出して、事務室中をがさがさ調べていた用務員さんが、振り向いた。手にはSDカードがある。ふたりは揃って頭を下げた。「ありがとうございます」

「いやいや。野生動物の研究をしてるなら、興味はあるでしょう」

 中年男性の用務員さんは、嬉しそうにSDカードをラップトップにさしこみ、写真データを開く。

 積は、大学校内に這入りこむ野生動物を調べて、この辺りの野生動物の生態系調査をしている、と、堂々と口から出任せを云って、例の壁の足跡のデータを見せてほしいと頼んだのだ。積がよほど、言葉巧みなのか、用務員さんのひとがいいのか、こうやってまんまと写真を見せてもらえている。


 ことみはラップトップの画面を見て、呻きそうになってこらえた。「どうやってつけたのかなあ。不思議だよねえ」

 椅子に腰掛けた用務員さんが、のんびりと云う。積が、そうですね、と応じていた。

 そこには、女子寮の壁が映し出されていた。その壁にくっきりとついた、猫か犬のものらしい足跡が。

 黒っぽい泥でつけられた足跡は、見たところ乾燥はしておらず、湿った感じがある。足跡をつけた直後、という感じだ。壁に下のほうから、上へ向かって歩いていっている……と、見えた。一階か、二階の中頃辺りで、ぷっつりと途絶えている。

「これって、誰が見付けたんですか?」

「陸上部の子がね。朝練に行くのに寮を出て、なんの気なし振り返ったらあったらしいよ」

 ことみは目をこらす。そういえば、背景に映り込んだ空がうすぐらい。朝はやい時間帯のように思える。

 積は平然と質問を重ねる。「もしかしたら、狢やいたちかもしれませんね。なにか、匂いはしました?」

「さあ……」

 用務員さんは腕を組み、うーむ、と唸った。それから、積に顔を近付けるようにして、低声(こごえ)で云う。「あのねえ、僕はそういう匂いを嗅ぐ機会がなかったから、わからないんだけど」

「はい」

「これを見付けた、陸上部の子のうち、何人かがね、血の匂いがするー、って、怯えちゃって。もしかしたら、動物が怪我をしてるかもしれないって、みんな手伝ってくれて、この近辺をさがしたんだけどね。僕らが騒いだから、驚いて、逃げちゃったのかなあ。なんにも居なかったよ」

 用務員さんは姿勢を正し、困ったみたいに眉を寄せる。「もし、怪我をしてるなら、可哀相だから、なんとか見付けてもらえないかな?」




「ほんとに血の匂いがしたの」

 陸上部の朝練はまだ終わっていなかった。グラウンドの近くへ行って、マネージャーらしいジャージ姿の学生に声をかけ、動物の足跡のことで、と切り出すと、足跡を発見した学生のうちのひとりが、すぐに来てくれた。ことみや積と同学年の子だ。

 彼女は汗を拭いながら、かすかに顔をしかめている。

「わたし、昔ジャックって犬を飼ってて、お父さんが散歩させてる最中に、その子がバイクにはねられて……無事だったんだけど、首輪に、血の匂いが染みついててね。それに似た匂いがしたから、もしかして怪我してる子が居るんじゃないかって、不安になって」

 それなりの早口で云った後、彼女は不意に口を噤む。積が云った。「その時の血の匂いがしたの?」

「うん……似たような匂いがね。動物が怪我をしてる感じだった」

「そっか。ありがとう」

「佐伯くん、どうしてこんなこと訊きに来たの?」

 ふと、不思議に思ったのだろう。彼女は小首を傾げた。積は苦笑いになる。

「俺の家、ここの裏にあるだろ? 最近動物がうろうろして、お供えものを荒らすんだ」

「ああ……ねえ、見付けても、保健所に連絡したりしないであげて。こんなこと云える立場じゃないんだけど、あれだったら、うちでひきとるから。ジャック、去年死んじゃって、お母さんもお父さんも淋しそうだから。十六歳まで生きたのよ、凄く大きな怪我までしたのに」

 彼女はちょっと哀しそうに微笑んで、実家の電話番号を書いたノートの切れ端を積に渡した。


「動物霊?」

「かな。動物の姿を真似する動物じゃない霊は見たことがあるけど、匂いまで再現することはめずらしい」

 ふたりは今朝、積の姉とことみが一緒につくったお弁当をひろげていた。構内の遊歩道の途中にあるベンチだ。甘味噌を塗って揚げたとんかつと、刻んだ大葉とごまをまぜこんだたまご焼きがメインのおかずで、ミックスベジタブルをバターで炒めたものと、人参のぬか漬け、梅昆布が隅に詰めてある。

「めずらしいってことは、ないことじゃないの?」

「うーん。ほとんどないね。ゼロとは云えない」

 積はご飯をぽいっと口へ放り込み、ゆっくりと嚙んだ。「……彼女の家族構成、聴いた?」

「お父さまと、お母さまと、弟さん。お父さまは藤総合病院にお勤めですって」

「何科?」

「そこまでは」

 頭を振る。積はケータイをとりだして、片手で操作した。藤総合病院のホームページを見ているらしい。

「内科だ」

「ふうん」

「……ああ、彼女の母親も藤総合病院に勤めてるのかな。第二病棟の看護師長が、王子って名字だ」

 ことみは自分に向けられた画面を見る。写真こそのっていないが、たしかに「王子みどり」と名前が書いてあった。

 王子という名字はめずらしい。藤総合病院は市内でも古くからある病院だし、そこの病棟師長なら、ある程度のキャリアがある人物だろう。絢くらいの子どもが居る年齢でおかしくない。医師と看護師の結婚も、不自然ではないだろう。

 ケータイをポケットへいれ、積は一回、欠伸をした。「ことみ、絢さんに連絡とれる? もしできるなら、彼女の家へ行ってみたい」




 午后五時、三人はまた、大学近くの公園で集まっていた。積が、絢の家を見たい、と云いだすと、絢は困ったような顔をする。

「あの……」

「今日じゃなくてもいいんだけど。あ、男の子つれていくの、まずい?」

 ことみの問いに、絢は小さく頭を振る。だが、申し訳なげに云った。

「男の子をつれていくのは、大丈夫なんだけど……佐伯くん、ピアス、外してくれる? あの、母がそういうの、いやがって。今日は居ないと思うんだけど、居たら、あの」

「ああ」

 積は耳へ手を遣ってから、手をおろし、にこっとした。「じゃあ、ことみが見てきてくれるかな。俺は別のとこ、あたってみる」

「え?」

「わかった」

 積はにこにこして、手を振りながら走っていった。ことみはなんとなく手を振り返す。

 ことみが腕をおろすと、絢が心配そうに云った。

「あの、わたし、失礼なこと云っちゃったかな」

「ううん。つみくん、ひとのお家尋ねるの、あまり得意じゃないから。それに、女の子同士のほうが変に思われなくて、丁度いいんじゃないかな」

 ことみがそう云うと、絢はちょっとほっとしたらしい。


 絢の家は大学からさほど離れておらず、歩いて充分通える距離だった。どうして寮にはいっているのだろう、と、ことみは少しだけ不思議に思う。寮と違って、他人に気を遣うこともないのに……。

 絢の家は、まだあたらしい、白い壁の一軒家だった。洋風の建築だ。瀟洒な玄関扉は、古い時代の少女漫画のような雰囲気がある。

 二階のバルコニーもそういう雰囲気だった。花が咲き乱れたプランターが置いてある。いかにも、上流階級の、お上品な、素敵なおうち、という感じだった。庭はひろく、きちんと植物が手入れされ、花が咲き乱れ、果樹も散見された。車が一台、バイクが二台停まっている。

「ただいま」

 絢が怯えたような、小さな声を出しながら、玄関の扉を開けた。三和土はひろくて、華奢なサンダルが一足、子どものものらしいスニーカーが一足、大人の男性のものらしい革靴が一足、綺麗に揃えて置いてある。残りは、白い靴箱にしまっているらしい。

 絢は返事がないことにほっとしたみたいで、あがり框にあがり、靴を揃えた。「お邪魔します」

 なんとなく低声(こごえ)で云って、ことみもそうする。

「あら、お客さん?」

「あ、ママ」

 絢が首をすくめた。ことみは立ち上がり、左の廊下から歩いてきた女性を見る。化粧をうすく施していて、今から出掛けるらしく、しゃれたワンピースとカーディガンを身につけ、ストッキングを履いた、隙のない格好だ。鞄が大ぶりで、中身が沢山詰まっているらしいのだけは、なんとなくそぐわない。


 絢は緊張したような声を出す。

「彼女、出海さんと云って、同じ大学で」

「あらそ。出海さん、絢がお世話になってます」

 絢の母はにっこり笑ってお辞儀する。ことみはお辞儀を帰し、微笑んだ。「出海ことみです。こちらこそ、絢さんにはよくして戴いています。連絡もしないでおしかけてすみません」

「いえいえ、ごめんなさいね、わたし今から仕事なんです。お構いもできませんで。絢、出海さんの分も出前とってもいいからね。それから、きちんと施錠して」

「あ……うん。行ってらっしゃい、ママ」

「ねえ、犬猫のことじゃないわよね? わたし、毛のある動物は嫌いなのよ、絢? きたならしいもの」

「勿論、そんなことじゃないわ。お勉強するの」

 絢は焦ったみたいに、靴箱からスニーカーをとりだす母に云う。王子夫人はことみへにこっとしてから、出ていった。

 絢が扉へとびついて、内側から錠をかけた。





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