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絢は午后、授業がないという。泣き出してしまった彼女をなだめ、とりあえずロビィのソファで待っててと食堂を追い出して、ことみは残りの酢豚とお握りをかきこみ、食器とトレイを返却して、ロビィへ走った。途中、ケータイをとりだし、電話をかける。
留守電につながった。
「あ、つみくん? ことみ。なんかまずいっぽい子が居るから、手があいたら折り返して」
ケータイを鞄へ戻し、息を切らしてロビィへ辿りつくと、絢がソファにちょこんと座ってハンカチを握りしめていた。ショールが肩からずり落ちそうになっている。
「ごめん、お待たせ」
「……あ、ことみさん」
ことみは絢の隣に腰掛けた。今の時間帯、ロビィは閑散としていて、ひとに会話を聴かれる心配はほとんどない。
ポケットティッシュをさしだすと、絢は礼を云って、可愛らしくはなをかんだ。「ごめんなさい。いきなり、泣いちゃって」
「ううん。あの、ざっくりでいいから、どうして呪われてると思うのか、教えてくれるかな」
「うん……」
絢が異常を感じたのは、今年にはいってすぐだった。
絢は、大学の寮にはいっているが、夏休みや正月には市内にある実家へかならず戻っていた。特に正月は絶対に戻っている。絢の誕生日があり、パーティをするからだ。
今年も、十二月の終わりには実家へ戻り、母親と一緒におせちをつくった。年の離れた弟の勉強をみてもいたと云う。
「あの子、数学が苦手で、それで……」
絢は恐怖が大きいようで、肝腎の「呪い」まで、なかなか話が至らない。ことみはじりじりしていたが、頷いたり、時折相槌を打ったりして、絢が口を噤んでしまわないように心を砕いた。
絢は怯えた目で、床を見ている。
「いつだったかは、ほんとに、はっきり覚えてなくて。ただ、三日に、家族でお参りに行ったの」
「神社?」
「そう。幡多神社。わかる?」
こちらを向いた絢に、ことみは頷いた。
「ここの裏手にあるよね」
「そう……うちからは、はなれてるんだけど、そこの氏子だからって、毎年お参りするの」
ことみはまた、頷く。幡多神社は小さいが、市内で一番古い神社のひとつだ。毎年、初詣でにぎわい、月初めには甘酒接待もしている。ことみはたまに、手伝いに行っていたので、よく知っている。
絢は宙を見た。
「それで……帰り道でね、猫の声がしたの。だから、寒いのに猫ちゃん元気だねって」
「……うん」
「でも、家族には、それが聴こえてなくて」
ことみは頷いた。それから慎重に、言葉を選ぶ。
「あの。たとえばだけど、ひとが多くて、たまたま王子さんにしか聴こえなかったってことはない? ほら、よくあるでしょ。まわりが煩いと、たまたま聴こえやすい位置に居たひとだけに聴こえるって。それに、王子さん以外がお喋りしてて、そっちに夢中だったってこともあるよね?」
「わたしもそう思ったの。わたし、家族で一番、耳がいいし、また自分にだけ聴こえたんだって」
ことみは微笑みをうかべる。「そういうのは、よくあるよね」
「でも、それだけじゃなくって、その日から毎日なの」
「毎日?」
「今も聴こえるの。今は、鳥の鳴き声」
ことみは唾をのみ、絢の手を軽く握った。絢は震えている。
「あのね、王子さんを困らせたり、哀しませたりするつもりはないんだけど、いいかな」
「病院なら、もう行ったの」
拍子抜けして、ことみは目をしばたたいた。「ええと……」
絢はすがりつかんばかりの表情で、ことみを見詰めている。
「冬休みの間中、いろんな動物の声がして、お風呂場とか、寝室でもそういうのがやまなくて、わたしずっといらいらしてて。あの、父が藤総合病院に勤めてるから、精神科のお医者さまにみてもらおうってことになって、行ったの。幻聴だって云われて、お薬戴いたから、服んでるんだけど……」
「……効果がないの?」
「もう、二回もお薬、かえたんだけど、全然きかなくて」
ことみは顔をしかめ、あいた手で髪をかきあげた。
この手の相談をうけたことがない訳ではない。だが、大概は当人の思い込みだったり――最近台風で自転車が飛ばされたり、その自転車で転んだり、怪我の治療費が凄く高くなったりしてついてないから、なにかのたたりじゃないか、なんてもの。台風で調子の悪くなった自転車にそのままのっているのが悪いのだ――、考えすぎだったり――友達が別れたばかりの男の子と付き合うことになっちゃって、それは凄く楽しいからいいんだけど、付き合いはじめてから成績が落ちたから呪われてるかも、という類。恋愛に重きを置いているのだから、成績が落ちても仕方あるまい――、実際にはなにもない場合がほとんどだ。
ことみは「占いで安心させてあげる」ような高度なテクニックは持ち合わせていないから、そういう場合にはずけずけと思ったことを云う。それで解決することは多い。
勿論、絢のように本当に怯えきっている相手には、そういう強い態度には出られない。だから、精神科や心療内科をすすめるようにしていた。ありもしない呪いに怯えて自殺でもされたら、寝覚めが悪い。
ただ、ことみがどれだけ受診をすすめてもいやがるひとが居る。そういう時の、つみくんなんだけど……今回はまじかも?
「ことみさん?」
「あ。えーと、もう、お薬は、服用してるんだったよね」
絢はこっくり頷いて、泣くような顔で云う。「車の運転はだめだって云われちゃうし、友達にも説明できないから、ご飯も一緒に食べたくなくって。わたし、どうしてこんなことになっちゃったんだろうって考えちゃう」
「そっか……」
「あの、ことみさんは、超能力で、呪いをなんとかしてくれるって聴いたの」
絢の目がきらきらしていた。ことみは目を逸らす。透視パフォーマンスをしたり、占いのブースを出しているので、何故かことみに超能力があると勘違いしている学生が多いのだ。
ことみにはその手の力はない。ないから、超能力開発研究会にはいっている。透視パフォーマンスも、成功率は60から70%程度で、あてずっぽうとさほどかわらない。
占いも、ことみは特殊な力に頼っている訳ではない。ただカードや象徴の意味を丸暗記し、出たカードをそれらしくつなげてストーリーをつくっている。だが、占いなんてそんなものである。特別な力を持っているひとが居るのは事実だろうし、そういうひとが占いをしていることもあるだろうが、世のなかの大概の占い師は努力で的中率を上げている。
絢が不安そうになってきた。
「ことみさん?」
「あの、申し訳ないけど、わたしにそういう不思議な力はないんだ」
絢があからさまな落胆を見せた。眉がさがり、溜め息を吐いている。
ことみは付け加える。
「ただし、そういう子なら知ってる」
「……え?」
「その子なら、王子さんの相談にのれると思う。さっき留守電いれといたから、授業終わったら連絡来ると思うんだけど」
絢が口を開いて、おそらく礼を云おうとした。が、それに、掠れた声がかぶさる。
「また、厄介ごと?」
ことみと絢は同時に振り向いた。ふたりの座るソファの後ろに、男子学生が立っている。彼は浅黒い顔に笑みをうかべた。