第641話 【ヴィーシャ】は幸せだった
怖い人はいなくなって、わたしの周りにはやさしい女の人だけになった。
いたいことも、きもちわるいこともされなくて、ずっとこの時間がつづけばいいのにと思ってしまう。
だけど、そうはならないんだろう。
きっとまた、あの人がやってきて、わたしに怖いことをする。
それを考えるとわたしは動けなくなる。
なにもできなくなる。
ベッドの中でシーツにくるまって、だれの声も聞こえないフリをする。
女の人たちはわたしにしてほしいことはないか聞いてくるけれど、わたしのしてほしいことはひとつだけ。
なにもしないで。このままずっと、なにもしないで。
だけど声にならなかった。
枯れるまで叫んだのどは、もうなんの音も出ないみたいだ。
そうしてどれくらい時間がすぎたんだろう。
もう何年もこうしてベッドの上にいる気がする。
ねむっているのか、おきているのか、自分でもよくわからない。
よくわからないままでいたい。
このままなにもわからなくなりたい。
だけど、きっと、それを望んだから、そうなっては、くれないんだ。
ガチャリと音を立ててドアがあいた。
わたしの体はビクリとふるえる。
入ってきたのがおとこの人だったからだ。
だけどあの怖い人ではない。
よろいを着たその人は、いつもただ立っているだけ。
わたしがなにをされても、どうなっても、そこに立っているだけだ。
そう、思ったから、そう、ならなかった。
その人はベッドの近くにきて、ひざをついて、わたしの目をじっと見た。
怖い。怖い。怖い。怖い。
おとこの人が近くにいるのも、見られているのも怖い。
だけどこの人はわたしを見下ろしてはこない。
おなじ高さで、目線を合わせてくれている。
「お嬢さん。君を迎えに来た人がいる」
むねのあたりがびくっとなった。
しんぞうがばくんばくんと鳴っている。
お父さんだろうか。
お母さんだろうか。
助けにきてくれたのだ。
わたしがどうされたのかは言えないけれど、きっと家に帰れるんだ。
「付いてきてくれるかい? この部屋の使用人たちも一緒でいいよ」
わたしはコクンとうなずいた。
ここから出れるのなら、なんでもよかった。
この人はちょっと怖いけれど、わるい人ではない気がする。
「では着替えを。私は席を外そう。終わったら声をかけてくれ」
女の人たちはうなずいて、おとこの人が出ていくとわたしをきがえさせた。
まるでわたしのためにあつらえたような、キラキラしたドレス。
おおきな帽子はわたしのかおをすっぽりとかくしてしまいそう。
これならちょっとこわくないかもしれない。
わたしのじゅんびができると、おとこの人がまたやってきて、わたしのすこし前をあるいていく。
あの人に見つからないかな?
だいじょうぶかな?
わたしがキョロキョロとしていると、前をあるいているのに、その人はわかったみたいだった。
「パトリック様なら謹慎です。つまりご自身の部屋から出てくることはありません」
しんぱいがへって、わたしはうれしくなる。
ほんとうにお家に帰れるんだ。
もういたいことにはならないんだ。
そしてしばらくあるいたところで、おとこの人はドアをノックした。
「お連れしました」
「構わん。入れ」
おとこの人はドアに手をかけると、ゆっくりと開けた。
その中にいたのは、
お父さんでも、
お母さんでもなくて、
ひゅっと喉が鳴って、息を吸ったきり、吐けなくなる。
私は胸を押さえ、その場に蹲る。
そこにいたのはカズヤさんだった。
私の夫になる予定だった人だ。
形式上の、ではあるけれど。
膝に顔を埋める。
涙が溢れる。
顔が上げられない。
一瞬喜んでしまった自分がいて、
一瞬の後に自らに刻まれた傷のことを思い出し、
「ううっ」
言葉が出ない。
息ができない。
もともと穢されていた私は、それが生温く感じるほど徹底的に汚泥の中に沈められた。
体の外も内も汚れてしまった私が、どうしてカズヤさんの前に顔を出せるだろうか。
この額には消えない言葉が刻み込まれてしまっているというのに。
「ヴィーシャさん!」
カズヤさんの声が耳朶を打つ。
私の名前を呼んでくれた。
ただそれだけで私の人生は満足でした。
そういうことで終わらせたい!
私は苦しい体に鞭打って、手の前のテーブルに飛びつきました。
豪勢な晩餐が並んだテーブルにはカトラリーがあって、肉を切り分ける用のナイフがありました。
誰も私がこんな凶行に出るとは思っていなかったのでしょう。
傍にいた騎士の男性ですら間に合いませんでした。
そして私は手にしたナイフで、
自分の首を切ったのです。
最後に思ったのは、このドレスが赤色で良かった。




