第635話 【ヘルミヤ】はツケを払う
日の沈む直前、空が真っ赤に燃える時間帯のことだった。
パンとスープで食事を済ませようとしていた私のところにカズヤが現れたという急報が入ったのは。
それも布告に従い、装備も道具も持たずに現れたらしい。
私は一口も手を付けられなかった食事に後ろ髪を引かれながら、現場に急いだ。
「騎士たちに伝えろ。領主様の館周辺で厳重警戒だ。カズヤには仲間がおり、そいつらはカズヤの道具を持っている可能性が高い! 衛兵も呼べ! ネズミ一匹見逃すなよ!」
正直なところカズヤが現れるかどうかは賭けであった。
それはカズヤがヴィーシャにどれほど執着しているかという感情に委ねられているからだ。
武器も道具も持たず、敵地にやってこいというのは見え透いた罠である。
その状態で無事に帰られるとはカズヤでも思っていないだろう。
それなのにカズヤは要求に従って現れた。
さぞ美しい娘であったのだろうな。
今では見る影もないが、カズヤは鏡の製法をヴィクトルに譲ってまで、ヴィーシャの身を欲したという。
羨みと哀れみと、そして仄暗い満足があった。
私は醜女というほどではないが、社交の場では歓迎されない。
レベルが60もある女など、誰も相手にしたくないからだ。
当然のように行き遅れているし、それ自体は仕方がないと思っている。
だがヴィーシャはカズヤの仲間によってパワーレベリングを受けていた。
カズヤの周りにはレベルの高い女性ばかりがいるから、彼は女性がレベルを上げることに抵抗がないらしい。
そうやって愛されていること、受け入れられていること、望みを叶えてもらえること、そしてそれらがすべて失われるだろうことに、私は複雑な感情を抱かずにはいられないのだ。
さて、カズヤはどんな準備をしてきたであろうか。
まさか無策ということはあるまい。
おそらく市内に潜伏した仲間がなにかを仕掛けてくる。
ヴィーシャの安全を確認し、カズヤとともに脱出する、というのが彼らの目的となるだろうが、考えが浅いとしか言い様がない。
カズヤの道具が仲間も使えるとしても、カズヤの近辺に私が付いて回れば、少なくともカズヤは無事ではいられない。彼のレベルは40少しのはずで、私とはあまりにも差があるからだ。
アーリアの貴族街への入り口、南側のそれにカズヤはいた。
こうして直接目にするのは初めてだが、噂に聞いていたよりもずっと小さく、細い体つきをしている。
もちろん見た目で判断するのは愚か者のすることだ。
だがレベルが上がって得られるのは基本的に補正値のため、素の身体能力は決して無視できない。
それなりに鍛えているようだが、それなりを越えるほどではない。
少なくともレベル60の私の相手ではないな。
カズヤは衛兵たちに槍を向けられていたが、拘束はされていなかった。
衛兵たちではカズヤを制圧することは無理だろうから、妥当な判断だ。
「はじめまして。カズヤ殿。私はアーリア騎士団の団長を務めているヘルミヤという。この度の出頭要請に応じてもらえたことに感謝する」
「構いませんよ。そちらからテーブルを用意していただいたのであれば、座らないわけにはいきません。僕は商人ですから」
まったく物怖じしていないことにまず驚いた。
状況からしてカズヤが無事に帰られる算段は少ない。
私が現れた時点で、それはほぼ確定した。
それなのに怯えや恐れがまったく見えないというのはどういうことだ?
つまりそれだけの準備を整えてあるということだろう。
それがこの時間まで出頭できなかった理由に違いない。
「交渉はどうやりますか?」
「領主様はおまえと直接話がしたいとお望みだ」
危険はある。
だがエインフィル邸は貴族街でも中心部にあるため、カズヤの仲間がなにかをしようとしても守りを固めやすい。
カズヤ自身については私が離れなければいつでも拘束できる。
少なくとも武器も道具も持っていないカズヤが、こちらを傷つけるということは難しいだろう。
それに鏡の製法ともなれば、他人の口を介することはできない。
秘密は知る者が少ないほどいいのが当然で、それはまず領主様と私に限られるべきだ。
「わかりました。ヴィーシャさんは無事なんですね?」
「無事だ」
ともかく生きているというのを無事だというのなら、だが。
こちらにはまだ二つの道がある。
カズヤと交渉して鏡の製法を聞き出すという道と、カズヤを拘束して鏡の製法を聞き出す道だ。
前者は失敗しても後者に移行できるため、まずは前者を試すのは当然だと言える。
「では領主様のところへ案内する。粗相の無いようにな」
「保証はできませんが、努力はしましょう」
得体の知れない男だ。
いや、まさしく得体が知れないのだ。
我々は彼がどこから来て、なぜあんなに美しい鏡を定期的に運んでこられるのかまったくわかっていない。
ただ定期的にやってきて金の卵を産む鳥だからと、下手な手出しをせずに見守ってきた。
利益を優先して、深入りを避けてきた。
そのツケをいま支払わされている。




