第620話 【エインフィル伯爵】は呆れかえる
アーリアに夜の帳が降りようとしている。
夕日はすでに隠れ、窓から見える空は蒼というよりはもう黒に近い。
「パトリックを連れて来い。今すぐにだ」
儂は家令にそう怒鳴りつける。
状況をここまで悪くした原因はわかっている。
しばらくして不機嫌そうな顔のパトリックが乱れた着衣でやってくる。
寝ていたのか、あるいは別のことをしていたのか、それはどうでもいい。
「パトリック、儂に黙っていることがあるな?」
儂は指先でデスクを叩いた。人差し指から小指までダダダとリズム良く。
これは儂の不機嫌さが限界近い時の手癖だ。正しくはそう繰り返すことで周囲にそれとなくわかるようにした仕草だ。
「な、なんのことかわかりません。父上」
「騎士団の知己に婚約者を奪われたことを愚痴ったな。そしてそいつは気を利かせて、“偶然”居合わせた元婚約者を浚ってきた」
「元ではありません! 僕は婚約破棄に同意していない!」
パトリックの言うことは間違ってはいない。
ヴィクトルから婚約破棄の打診を受けたとは言え、決定権はこちらにある。
その儂が婚約破棄を認める前に事が起きたのだから、婚約はまだ有効だ。
「この愚か者が!」
だが儂は婚約破棄に同意するつもりだった。
ヴィクトルはクラッコに顔の利く大商会の会長だ。
エインフィル領が独立すると言っても、彼との関係を悪くするつもりはなかった。
それがこの馬鹿息子の友人がヴィクトルの娘を浚ってきてしまったせいで、ヴィクトルは身の危険を感じたのか、行方をくらませてしまった。
その上、そのことを儂に報告してくるでもない。
儂が知ったのは騎士団長にそのことを報告した騎士がいたからであって、当人たちから報告があったわけではないのだ。
「その娘の身柄はこちらで預かる。まさかもう“壊して”はいないよな」
「ふへ、へへ、まだ、大丈夫だよ、きっと」
こんなのが跡取りだと思うと頭が痛いが、ルリュール王国では長子相続が基本だ。
それに次男以降も出来がいいとはとても言えない。
儂は家令に命令し、娘の確保を命じる。
「扱いはどのようにいたしましょうか?」
「ヴィクトルの潜伏しそうな場所をすべて吐かせろ。方法は問わん。見た目に傷は残すなよ。ヴィクトルとの交渉に使う」
「委細承知いたしました。回復魔法使いを一人お借りいたします」
家令は恭しく頭を下げて退出する。
それを指を加えて見送っていたパトリックは呆然と呟く。
「ああ、あんなに美しかったのに、どうして女性はすぐ醜くなってしまうんだろう。そうだ、父上、僕も力を貸すよ」
「お前は黙ってろ!」
散々“遊んだ”んだろうに、まだ足りないというのか。
別に領民から遊び道具を調達するのは構わんが、今回は相手が悪い。あの娘にはまだ生きていてもらわねば困るのだ。
「パトリック、お前にはしばらく謹慎を命じる。事が落ち着くまで部屋から出ることを許さん。いいか。儂の目の黒いうちは好き勝手できると思うなよ」
「そんな、父上」
「以後、事の収束まで儂の目に触れてみろ。跡取りでいられると思うなよ」
そうだ。長子相続はルリュール王国の慣例であって、独立さえすればそれに従う必要はもうない。次男のセドリックが騎士団でそれなりにやれているようだし、家を継ぐのはセドリックでもいいかもしれん。
パトリックが慌てて部屋から出て行くのと入れ替わるように、先ほど出て行ったばかりのヘルミヤが戻ってくる。
「失礼いたします。閣下! 市内全域に謎の紙のようなものがばら撒かれております。聞いたこともないような怪しい音とともに空から降ってくるとの証言もありました」
次から次へと、今日はどうなっているのだ!
「なんだそれは! 現物はあるのか!?」
「はっ! こちらでございます。すべて同一の図柄が描かれており、文字のようですが、解読ができません」
ヘルミヤが持ってきた紙をデスクに広げてみせる。
確かになんらかの記号が法則性を持って並んでおり、文字が書かれているようにも見えるが、まったく見覚えのない記号ばかりだ。
「誰ぞ、言語に詳しい者には見せたのか?」
「いえ、まずは閣下にお伝えしなければと走ってきたところです」
「わかった。言語学者ではないが、歴史学者がいただろう。アーリアの歴史を編纂しているやつだ。誰か、あいつを呼びに行ってこい!」
儂の怒鳴り声に女中の一人が胸に手を当てて頭を下げた。
「では私にお任せください。すぐに連れてまいります」
「よし、任せた」
女中は一礼して部屋を出て行く。
「ヘルミヤ、これはなんだと思う?」
「紙、にしては薄すぎますね。光が透けて通りそうです」
「そういうことではない。このような誰にも伝わりそうもない紙をばら撒くことの意味だ」
「この行為に意味があるというのであれば、ここに書かれた文字が読める誰かへのメッセージ、ということでしょう。そして市内全域にばら撒かれていることから、その誰かがどこにいるのか、実行者はわかっていないものと推測できます」
さすが騎士団長になるだけあって馬鹿ではない。
「しかし空から降ってくるというのが理解できません。例えばカタパルトでメッセージを飛ばす、というようなことは無いわけではありませんが、ここはアーリアですから」
アーリアは周囲が天然の要害に囲まれていて、カタパルトのような攻城兵器を運んでくるのは難しい。
「紙切れを飛ばすだけの小さなカタパルトであれば用意できるのではないか?」
「市壁を越えて全域に飛ばせるほどとなると、小さい、ということはないでしょう。なんらかの魔法かスキルを使った可能性のほうが高いかと」
だが市内全域に散らせるとなると相当な使い手だし、おそらくすでに市内にいるということになるだろう。
「ふむ、意図はともかく攻撃を受けていると考えた方が良さそうだ。各地に散らせた騎士たちをアーリアに帰還させ、防衛と巡回を密にさせろ」
「良いのですか? 逃げる連中を見逃すことになりますよ」
「構わん。不可思議なことが起きているということはカズヤ絡みであろう。つまりヤツは逃げていないし、アーリアに戻ってこなければならない事情があるに違いない。そこを捕まえる」
「生死不問だったのでは?」
「ヴィクトルが見つからない以上、鏡の製法を聞き出すまでは生かしておかなければならん。必ず生け捕りにせよ」
「はっ! すぐにとりかかります」
なんにせよカズヤが戻ってきているというのであれば都合が良い。
なんとしても鏡の製法を聞き出すのだ。




