第593話 毒を食らわば兎まで
バニーさんに密着されて硬直している僕を、その場にいる全員が温かい目で見ている、ような気がする。
「ミーちゃんはあれか、童貞か?」
「僕には妻がいるわけですが」
「別に結婚してるからってセックスしなきゃいけないわけではないだろ」
「一応、性交渉は婚姻関係の継続要件に含まれているんですけどね」
正当な理由の無い性交渉の拒絶が続く場合、真っ当な婚姻関係が継続されていないと見なし、離婚の理由にすることができる。
つまり結婚とは子どもを作ることを前提とした契約関係であり、夫婦はセックスしろと法は言っている。
「真っ当な結婚ならそうだが、ミーちゃんのは違うだろ」
まあ、そう言われたらそうだよね。
僕が樋口アナスタシア恵里と婚姻しなければならなかったのは、彼女の戸籍上の親がロシアの工作員である可能性が高く、その戸籍から切り離したかったからだ。
ちょうどいい年齢の日本人で白人女性の戸籍が他になかったから、必要に駆られてそうした。
それはそれとしてメルと結婚できるからしたという側面も否定はできない。
「僕らが愛し合っているのは明白だと思いますけれど」
「甘酸っぱい純朴なプラトニック恋愛模様にも見えるんだよなあ」
まあ、メルはこのバニーさんみたいにベタベタと僕にくっつくようなことはしないからね。
傍目にはそう見えるかもしれない。
普通にやることはやってるんだけどな。
そこはなんというか基準が違うというか。
「なにより反応が童貞っぽい」
それこそ本当に基準の違いだよ!
「女性に慣れていないのは認めますが、慣れるのがいいこととは限らないでしょう?」
「そうかあ? なんでもやってみたらいいとは言わんが、ミーちゃんはコミュ障こじらせてるタイプだろ」
「そう見えます?」
かつての僕はそうだったけど、今は簡単に見抜かれないくらいには偽装できていると思ってたんだけどな。
「コミュニケーションを言葉によるやりとりだと思ってないか?」
「そうではないことは理解しているつもりですが……」
コミュニケーションが他人との意思疎通なのだとすれば、その大半は言語ではなく、それ以外の部分で行われる、というのは有名な話だ。
例えば誰かと会話している間、相手がずっとスマホを見ているのだとすれば、こちらの話題、あるいは僕に興味が無いという言外の意図が伝わってくる。
相手の目を見て話しなさい。と子どものころに言われると思うが、それは礼儀のためというよりは、私はあなたの話を聞いています、という会話の大前提を成立させるためだ。
とはわかってはいるんだけどね。
「言語化というのをひとつしてやろう。ミーちゃんの隣にいるダリアちゃんだが」
源氏名じゃん。完全に源氏名じゃん。
「ミーちゃんのことが気に入っている。興味がある。自分は触りたいし、触ってもいいよと体を擦り付けることで言外に訴えているわけだ」
「それ言葉にしないとちゃんと同意が取れてるか確定してないじゃないですか。僕が触った途端にセクハラだって訴えられる可能性もあるでしょ。触りませんけど」
「言葉にしたところで確定はしないだろ。録音するか、書面にしないと法の場では水掛け論だ。触ったという事実で負ける」
「負けるんじゃないですか……」
「だが普段からありとあらゆることで書面による契約を結ぶのか?」
「そういうわけにはいきませんが、今の社会情勢を汲んでください。相手がセクハラだと思ったらセクハラな世の中なんです」
「そんなだから少子化するんだろうに」
それには僕も同意だけどさあ。
「相手に好意を持たれていると勘違いして、大失敗なんてよくある話じゃないですか。特に男は女性にちょっと触れられるだけで勘違いするんですから」
「かんちがいじゃないよ♡」
いちいち耳元で囁かないでほしいなあ!
「大体、あなたもあなたです! 僕とは初対面でしょ! そんな相手にこんな風にベタベタくっつくのはおかしいです!」
「じゃあ、まん♡いん♡でんしゃにのってるひとはみぃんなおかしいんだぁ」
それは議論の余地があるな。
ワンチャン、満員電車に平気で乗ってる人は頭がおかしくなってる説はある。
それはそれとして満員をえっちな感じで発声しないでほしい。
僕の頭までおかしくなってしまう。
「いい加減にしてください」
「だってぇ、きみ、かわいいんだもん。おクチではそう言っても、ふりほどかないんだね♡ そうだよね。おんなの子の肌きもちいいもんねえ」
それは、そうなんだよなあ。
なんかこの人の肌ってもちっとしてて、メルとは感触が全然違うっていうか、マシュマロみたいに柔らかいんだ。
決して太っているわけではなくて、どちらかと言えばスレンダーな体型。一部分を除く。
それが触れててめちゃくちゃ気持ちいいと言えば、気持ちいいのは事実なわけで。
「そもそもお話があって呼ばれたのだと思っていましたけれど!」
無理矢理に思考を仕事へと切り替える。
「ミーちゃんさあ、空気読めないとか言われない? 物と金が動けば仕事だけどさ、それを繋いでいるのは人間なんだぜ」
「健全な社交ならお付き合いしますが、これは駄目です」
「わかってねぇなあ。駄目だからいいんじゃあねえか。外に漏らせない秘密を共有し合えば共犯だ。口約束なんかよりずぅっと信用できるようになる。違うか?」
「この共犯関係は僕にだけリスクがありませんか?」
「そんなこたぁねえだろ。どうしてわざわざこんな船の上でこういうことやってると思ってんの? チクられたら終わりなのはオレも同じ」
「それ自白していいんですか?」
「船から下りてスマホで調べりゃ、オレが恐妻家なことくらいすぐわかる」
あー、著名人のつらいところだよね。
「さあ、これでオレが一方的に不利になったわけだが、どうすんの?」
「限度ってもんがありますからね!」
「やん♡」
僕はバニーさんの腰に手を当てて抱き寄せた。
……これは僕が船を下りてから知ることになるのだけど、先に言っておく。
北森源治郎は未婚であり、配偶者などいない。
なお認知している愛人の子はたくさんいる……。
僕が「あのクソジジイ!」と叫んだのは言うまでもない。




