第496話 会場を満たす音
そして観客が無言で熱狂する中、曲が終わる。
僕はまだ感動に打ち震えていた。
こんな形は想定していなかった。
橘メイならなんとかするかもしれないとは思っていたけど、まさかステラリア全員で盤面をひっくり返すとは思っていなかった。
僕はみんなに申し訳なく思った。
つまるところ僕はみんなのことを信じていなかったのだ。
できるわけがないと思っていた。
事前に報道された内容から、今日のライブを成功に導くことができるとすれば橘メイの力によるもの以外にありえないと思い込んでいたのだ。
仮の、とは言え、マネージャーとして申し訳なく思う。
誰よりも彼女たちを信じているべき立場だったのに。
そんなことを思う空白があった。
あれ、と思う。
いまのは三曲続けて歌う一曲目だったはずだ。
本来であれば次の曲が流れ始めていなければならない。
『トラブル発生、音源流れません。機材を再起動しますので30秒引っ張ってください』
インカムからそんな報告が流れてくる。
ステージに向けてスタッフがカンペを出すのが見えた。
このタイミングで機材トラブルだなんて運が悪すぎる。
だけどアドリブMCなら橘メイの独壇場だ。
迫られると弱いけど、アドリブは強い。
メンバーも当然そのことはわかっている。
橘メイに場を譲るようにそれぞれが立ち位置を変えたときだった。
「しょせんは枕で仕事とってるレベルだよな」
客席からそれは聞こえた。
小さな声だったと思う。
だけど機材トラブルで音のない会場で、観客たちが感動に打ちのめされ身じろぎすらできない静寂の中、その声は驚くほどはっきりと聞こえてきた。
「そういやあの写真のマネージャーって今日来てるわけ?」
「社長がアレなんだから、所属アイドルもそうなるよな」
あちこちから囁き声が耳に届く。
それぞれは小さな声だ。
普段なら、ざわざわとした喧噪とか表現してしまいそうな、それは個々の会話の端切れのようなものだった。
だけどステージの袖にいる僕の耳にまで届いた。
[聞き耳]スキルは発動していない。
なら、この声はステージに立つ彼女たちの耳にも届いたのでは?
「都合のいいとこだけ見てって感じだよな」
「彼氏の影響だろ」
それぞれは観客同士の些細な会話なのだろうと思う。
すべてが聞こえてくるわけではない。
だけど草むらで不意にトゲが刺さるように、チクチクと耳を刺してくる。
僕に向けられた悪意なら耐えられる。
だけど彼女たちにこの悪意を向けられるのは耐えられない。
出て行ってやる。
全部、ぶち壊してやる。
そう思って一歩目を踏み出そうとしたところで、再びメルに腕を掴まれた。
そんな僕の視線の先で、橘メイが足を振り上げ、そして全力で踏みならした。
だぁんと鳴った、それは大した音ではなかったけれど、マイクが拾うには十分すぎるノイズだった。
ざわざわとしていた客席が静まりかえる。
観客の注目はステージ上でマイクを持ち上げた橘メイに集まった。
ダメだ。橘メイ!
君はいけない!
橘メイはいわば当事者だ。写真を撮られた張本人だ。
その彼女がなにを言ったところで、火に油を注ぐだけだ。
僕が傷つくのはいい。けれど君が傷つくのは見たくないんだ!
だけどそんな僕の心の叫びは当然橘メイには届かない。
すぅ、と橘メイは息を吸い込んだ。
「おめぇらふざけんじゃねぇ!」
思ってた以上に口が悪い!
「好き勝手に言いたい放題言いやがって! そりゃ私はアイドルだよ! みんなに夢を見せるのが仕事だ! だけど人生全部売り払った覚えはねぇよ! 私たちが見せる夢だけ見て満足してろよ! それ以外を、ほら、なんつーか、無理やり見つけて文句をつけんじゃねーよ! おめぇらが私の何を知ってるんだ! 枕営業? 馬鹿か! そんなふうにクソおっさんに媚び売ってりゃここじゃなくて、隣のドームでライブやっとるわい! おまえ! そこのおまえ! さっきなんつったおまえ! 知らん顔しててもちゃんとわかってるぞ!」
そう叫び散らすや否や、橘メイはステージから客席へと飛び降りる。
いくらなんでもマズい。
そう思って僕はメルの手を振り払おうとしたのだけど、ステータスの差で振り払えない。
戦士として鍛えてきたメルと、斥候として鍛えてきた僕では筋力に差がありすぎる。
僕の代わりに警備の腕章を付けた自衛隊の人が走って行ったので任せるしかない。
「おまえだ! おまえ! うちの社長が枕やってたから? そのあとなんつったーおめー!」
そうしているうちに橘メイは目当ての観客のところに辿り着いてしまう。マイクの電源を入れたまま、叫び散らかす。
「その、だからステラリアも枕してるだろうって言いました」
観客のほうも橘メイの勢いに圧されて素直に答えてしまう。
「してるわけねーだろーが! そもそも社長が枕やってた? んなわけあるかい! 38であの美貌だぞ! 枕で仕事取ってたら今頃大女優だぞ! それがなんだ! ちんけな芸能事務所の社長でしかないだろ!」
やめてあげて。咲良社長が泣いちゃう!
「枕営業してたとして、それでも成功できなかった社長が私らにそれをさせるか? そんなわけねーだろーが! 論理的に考えろや。頭つかえ! それからそっちだ!」
ずかずかと橘メイが移動するので、自衛隊の人も右往左往だ。
なにせアリーナはいっぱいの客席で移動も楽ではない。
「私が処女じゃないんじゃないかって? んなことおまえになんの関係があるんだよ。私が未経験だったらワンチャンあるってか? あるわけないだろ! 鏡見て風呂入ってタイムふろしき使ってから出直してこい! そもそも私の経験の有無とその可能性に関連性はなにひとつねーよ!」
タイム……、タイムふろしきってなに?
「そもそも女子が恋愛に興味ないわけがないだろーが! もし、もしも本当に恋愛に興味なかったら、それこそおまえらこそノーチャンスだからな! 夢見たかったらこっちの恋愛も認めろや!」
アイドルによる恋愛させろ発言に会場内がざわつく。
メル、流石にこれは止めたほうがよくない?
だけどメルは首を横に振る。
「うるせぇ! 誰かを好きになるのなんて止めらんねーだろーが! 好きになっちゃったらどうしようもねーだろ! でもそいつ女がいるんだよ! 全然割り込めそうにないんだわ! 告る前から私がノーチャンスでーす! 初恋終了。はい。処女です。よかったねー!」
がぁんと客の椅子を蹴ったところで橘メイは自衛隊の人に抑え込まれ、マイクを取り上げられる。
良かった。いや、良くない。
もう手遅れだよ。
僕が空いた手を額に当てて、天を仰ぐと、破裂音のようなものが聞こえた。
銃声かと[鷹の目]を発動させて周囲を確認する。
だがそれは銃声ではなかった。
連続する破裂音は徐々に膨らみ、会場中を満たしていく。
これは、拍手だ。
観客たちは総立ちに鳴り、連行されていく橘メイに拍手を送っている。
誰かの口笛が甲高く鳴り、会場は万雷の大喝采だ。
ええ、なんでこんな盛り上がってんの?




