第460話 人は性から逃げられない
僕は答えを知りたくないと思いつつ、言葉を続けた。
「ヴィーシャさん、幼い頃はエインフィル伯爵の三男とよく会っていた。そうですね?」
「ええ、そうだけど」
「彼はあなたになにか性的なことはしましたか?」
「それって抱きしめられたかどうかってこと?」
ヴィーシャさんは本気でそう言っている。
男女の性的な関係が抱きしめられるかどうかしかないのだ。
「そうとは限りません。適切でない場所に触れたり、必要以上に近づいて匂いを嗅いだり、服を脱がす、あるいは脱ぐように言われたことは? 例えば着替えを手伝われたりした、とか」
「どうかしら? 服に飲み物をこぼして着替えを手伝ってもらったようなことはあったかもしれないけど、その場にあの人がいたかどうかはよく覚えてないわ」
なんとも思っていない様子のヴィーシャさんの言葉に、両親はハッとした顔になった。
「口づけはされましたか?」
「種類にもよると思うわ。唇は許していないけれど、頬や手、頭はあったかもしれない」
断言できないのはヴィーシャさんにとってそれが大事ではないからだ。
普通のことだと思っている。
いや、もちろん一般的に健全な男性であれば幼女に欲情はしないから、親愛のキスをすることだって考えられる。
「アーリアでは親愛を示すサインとして頬に口づけをすることはあるんですか?」
地球でも地方によっては頬を合わせる挨拶があったりするから、アーリアでもそういう風習がある可能性はある。僕は見たことないけど。
「……かなり親しい間柄であればそうすることもある」
ヴィクトルさんの組み合わされた手がバキバキと音が鳴りそうなほどに力が込められている。
相当キレてんなあ。
「婚約者だったのだから、相当に親しいと言えるのではないかしら?」
「どうなんですか?」
僕はヴィクトルさんたちに水を向ける。僕も詳しくはないからだ。
「それでもレディが相手でなければ、あまり良い作法とは言えない」
この場合のレディとは成人女性の意味だろう。
つまり幼いヴィーシャさんに男性が頬を寄せるような行為は推奨されない。
「ヴィーシャさんは貴族男性を婿に迎える予定だったわけですが、作法などは学ばせていなかったのですか?」
「それが……」
ヴィクトルさんは言いにくそうにしている。
「幼い頃のヴィーシャは体が弱くて、あまり教育に時間を割けなかったのよ。小回復魔術で落ち着いてから、淑女教育は受けさせたのだけど、その、伯爵の伝手を使ったから……」
エルセリーナさんがしゅんと小さくなって言った。
「三男にとって都合の悪い事実は伏せられていた可能性があるわけですね」
「なに? どういうことなの?」
「ヴィーシャさん、男女が抱き合っても子どもは生まれません」
「嘘でしょ?」
「性的なことはあまりおおっぴらに言うことではないので、後でご両親から聞いて欲しいのですが、ヴィーシャさんが受けてきた教育は間違っていた恐れがあります。というか、性教育は明らかに間違っている」
僕は指先でテーブルをこんこんと叩いた。
「性教育は、特に女性に対する性教育は、年齢や成長に合わせて適切に情報を更新していく必要があります。幼い子には体に触れられることは良くないと、裸を、あるいは肌着を見られることは恥ずかしいのだと教えるべきでしょう。そこから徐々になぜ良くないのか、あるいはそうしていい場面とはなにか、どうすれば子どもが生まれるのか。幼い間に子どもを授かることがどんなに危険かを教えていかなければならない」
ヴィーシャさんはまだよくわかっていない様子だけど、ご両親は僕の言葉に聞き入っている。
「子どもを性知識から遠ざけることは、子どもを危険から遠ざけることにはならないんです。悪い大人はいつだって知識のない子どもを虐待しようと狙っています。そういう悪魔のような大人がいるんですよ」
ヴィクトルさんたちには思いもよらなかった事実かもしれない。アーリアでは情報伝達速度が遅いし、狭い。
事件などの話も伝聞だし、正確な情報など知りようもない。
彼らは世の中にどんな悪意が渦巻いているか、自分たちの知る範囲でしか知らないのだ。
「信じたくはないが、エインフィル伯爵の三男もそうだ、と?」
「そこはわかりません。ヴィーシャさんから話を聞いて判断するしかないですし、そうすることで得られるものもないと思います。相手は領主の息子ですから」
言ってしまえば、ヴィーシャさんが性的な被害を受けていたとしても、それを訴え出ることはできないということだ。
「明確な行為はなかったのだろう。なかったと思いたい。確認しなければならないが、その結果を飲み込むことしかできない、か」
ヴィクトルさんが苦虫をかみつぶしたような顔で言う。
「君はまるでヴィルソーの角笛だな」
それって確かアーリアの迷信だっけ?
悪いことが起きる前触れ、みたいな話を聞いたことがある。
建物の形状とかで偶発的に発生する風の音だとは思うんだけど、アーリアの人は不意に聞こえるその角笛のような音をとても怖がる。
「いいえ、違います。僕は以前からそこにあった隠されたものを暴き立てたにすぎません。あなた方にとって、さほど違いはないのでしょうけど、僕が呼び込んだ凶事ではない。そこはご理解いただきたい」
「そうだな。すまない。訂正するよ。人は悪いことが起こると、つい何かのせいにしてしまう。それは決して問題解決にはならないのだが、心はそう動く」
「わかります。ままならないということは。僕にもありますから、そういう経験が」
篠峰羅鍛のスマホに画像や映像が収められていた少女たちを僕は救うことができない。それこそ時間を超越しない限り無理だ。
運営ならできるだろうけれど、彼らはNPCと関わりを持つことが少ない。あるとしても一方的な告知のみで、会話にはならない。
まるで、いや、まさしく神託のようなものだ。
「ヴィーシャさんと話をしなければならないでしょうし、僕は一旦お暇させていただきます。明後日また伺います」
「ああ、ヴィーシャの話次第では、この子を君に託すことになるかもしれない」
ヴィクトルさんの望む望まないを別に、そうするべき場合もあるだろう。
例えば性被害が本当にあった場合だ。
その場合、ヴィーシャさんをエインフィル伯爵家の領地においておくのは危険だ。三男を婿に迎えるから、黙殺されている可能性もある。
アーリアの感覚では貴族が平民に加害した場合、被害者である平民が後に法で処罰を受ける可能性がある。これはいわゆる三権分立がないからだ。
貴族を煩わせただけで、平民は処刑されてもしかたがない。
だからこそヴィクトルさんが、エインフィル伯爵から打診されたであろう三男とヴィーシャさんの婚約の提案を最初は断ったというのが驚きなんだよなあ。
そんなヴィクトルさんたちだから、ヴィーシャさんが性被害を受けていたとなれば、迷わずに婚約破棄するだろうし、そうでなくともヴィーシャさんがそう望んでいるから、という理由だけでも婚約破棄をするかもしれない。
でもそうなると、三男から性被害を受けていたことを理解しているヴィーシャさんってエインフィル伯爵からするとものすごく邪魔だ。もちろんヴィクトルさんやエルセリーナさんも。
「慌ててなにかしようとしないでくださいよ。僕は魔銀調達の伝手を失いたくないですからね」
一応釘を刺しておく。
もちろん慣用句だよ。




