第447話 闇の反対側には闇
僕は汗の滲む手を服に擦りつけて、スマホを取り出す。
心を止めるな。前に進め。
僕にはやるべきことがあるだろ。
気持ちを切り替えろ。
まずは空売りのポジションを解消しよう。
このままでは日々、株を借りている分の金利を取られてしまう。
五星JF証券の和気さんに連絡して、TAKAメディアHDの株を買い戻すことを伝える。
すでに15時を回ってしまったので、今日の取引は終了している。だから実際の決済は明日以降ということになるだろう。
『かなりの損失が出ることになります。TAKAメディアHDの株価が跳ね上がりますが、お客様の目的に適うでしょうか?』
「ええ、構いません。もう用は済んだので。預けているお金で足りますか?」
『絶対とは言い切れません。売ったときと同じようになりゆきだと足りなくなる恐れもあります。期間はどの程度をお考えですか?』
「急ぎではありません。できるだけ預けているお金で足りるように終わらせてください。今のところはそれだけで十分です。もし資金が足りないようならご連絡を」
『承知しました。では出来高加重平均取引にできないか上と相談させてもらいます』
「出来高加重平均取引、ってなんですか?」
知らないことは知らないと伝えるのが一番だ。
大抵の相手は喜んで教えてくれる。
『簡単に申し上げますと、お客様の取引結果のリスクを当社が引き受けるということです。もちろん手数料はいただきますが、取引を明日の出来高加重平均の価格に寄せることができます』
「それって結果的に必要以上の損失をする可能性がありますよね?」
『結果的にロスカットされ追証がかかる恐れが減ります』
うーん、なるほど。
手数料は取られるけど、損切りの幅をある程度調整できるということでいいのかな。
「わかりました。お任せします」
電話を切った僕は、テーブルの上に置いていた豚のスマホを手に取ってパスワードを解除する。
自分が映っている画像を削除し、その先を確認した。
「ああ、胸くその悪さが解消されてしまいそうだ」
画像データをスクロールした僕はそう呟く。
あいつは死んで当然だ。死ぬべきだった。そう確信を抱くようなデータの数々が収められている。
これじゃ人間を拷問して死に導いたことが、まるで正しい行いであったかのようじゃないか。
目を逸らしたくなるような陵辱の記録をスクロールしていく。
勘違いするな。と自分に言い聞かせなければいけなかった。
悪を叩くことは、イコールで正義ではない。それは理屈が通っていない。
そうだろ?
悪を叩くのは正義じゃなくてもできる。
むしろ悪は悪同士で潰し合っていることのほうが多いんじゃないか?
悪同士とは、同じ利益を奪い合う敵同士だからだ。
都合が悪いから攻撃される。
僕だって、邪魔にならなければ殺さなかった。
自分の利益のために他人を害するのは、つまり悪だ。
「こいつ、社内資料とかもスマホで撮影してるな。これが流出したらTAKAメディアHDの株価は暴落間違いなしじゃね?」
僕の後ろからスマホを覗き込んでいた代筆屋が言った。
さすがは元警察官。いたいけな少女たちの陵辱画像なんかは見慣れてしまっているのだろう。そこには触れさえしない。
忘れてはいけないが、彼は鳴海カノンを借金で苦しめた反社とも繋がりがある。
真っ当そうに見えるが、それは裏社会に根ざした真っ当さだ。
僕と同じで正義の側に立っていない。
「なのでその前に株では損して終わらせておかないといけません。利益を狙って情報を漏洩させたと思われたくありませんから」
まあ、基本的にこれが問題になることはない。
情報漏洩自体を起こさせないからだ。
「このまま反社に渡すととんでもなく悪用されるだろうな」
「釘を刺しておきますよ。このスマホの情報を悪用すれば地の果てまで追うと」
「もう慣用句だとは思えなくなっちまったなあ」
失礼な。僕が実際に刺したのは縫い針だよ。
だけど次は釘も用意するかもしれないね。
「というわけで、このスマホ、バックアップ取っておいてください。こちらでもデータを押さえてなければいけませんから」
コピーも取らずに反社にスマホを渡すほど僕の頭はお花畑ではない。
なんならこちらでバックアップしてあるという証拠がスマホに残っていいくらいだ。
たぶん、そういう履歴ってスマホの中に残るよね。
そうすれば反社の連中もこのデータを使って悪戯がやりにくくなる。僕の利益とかち合う可能性があるからな。
連中が僕のことを恐れているのは間違いない。
爆弾の導火線に触れようとはしないだろう。
「俺がやんの!?」
「別に代筆屋さんにデータを保管しておけとは言いませんよ。SSDとかにパソコンからでも見られるデータにして入れてくれるだけでいいですから」
「そういうのは印刷屋のほうが得意なんだが、あいつは純情なとこあるから、さすがにこれは見せらんねぇよな。じゃあ、預かるぞ」
運転免許証からパスポートまで偽造する男が純情とな?
いや、そんな感じは確かにあるけど。
なんというか、潔癖すぎて逆に堕ちたみたいな。
「よろしくお願いします。僕はメルカリをダウンロードして出品するんで」
それからしばらくの間、僕らは無言でお互いの作業に没頭した。
今すぐしなければならないわけではないけど、反社にスマホを送付する必要はある。
それも僕を監視しようとしている組織らの目を誤魔化して、だ。
ステラリアのところに行けないから、他にすることもないしね。
別に拗ねてるわけじゃないよ。
僕はメルカリのアカウントを作って、マイナンバーカードで本人認証の申請をする。
出品は、まだ無理か。
一応商品画像を確保するためにネットを検索する。
実物は使えない。カラーや傷などで、誰のものか関係者が特定できてしまうかもしれないからだ。
同じ型のスマホが映っていて、拡散されてしまい出元のわからない画像を見つけたので確保する。これなら著作権で問題になる可能性が低い。
僕が作業を一段落させたあたりで、スマホの振動音が聞こえた。
僕のスマホではない。豚のスマホはアーリアで機内モードにしてある。
「もしもし」
つまり代筆屋のスマホだ。
『俺だ。目標が誰かに連れ去られて後が追えない。何か知らないか?』
「それならもう受け取り済みだ。出遅れたな」
『どこだ? 内調か?』
この感じ、警察関係者かな?
代筆屋の昔の知り合いっぽい。
「たぶんな。日本の国益のために動いているとは言っていたぞ」
『ああ、クソッ、まだアメリカに出し抜かれたほうがマシだった』
「お前さんの出世にとっては、な。他国に持って行かれたほうがマシだったなんて、愚痴でも言うな。着火の魔術は確かに【あった】ぞ」
『……恩に着る』
ああ、電話の相手は着火の魔術が実在することは報告できるってことか。
なんだかんだ優しいというか、甘いとこあるよな。代筆屋。
「なんだよ」
僕が見ていることに気付いたのか、代筆屋が眉を顰めて言う。
「いえ、また札を見せてもらいますね」
「好きにしろ。こっちはまだ時間がかかるからよ」
僕は棚から青いフォルダを取って家族用の戸籍を探す。
夫婦の戸籍が揃ってるってことがほとんどないんだよな。
まあ、別に法的な関係がどうのこうのって段階ではないか。
しかし戸籍の安いこと。
樋口アナスタシア恵里はその希少性から値段が異様に高かっただけで、ほとんどの戸籍が数十万から数百万だ。
「なんかまともに社会経験ある人のほうが安いんですね」
就職なんかを考えると社会経験って人間の価値のようなところあるけど、戸籍市場では逆になるらしい。
「そらそうだろ。そいつの存在を買うんだ。元の人間関係が広ければ広いほどリスクが高くなる。同じように写真付きの身分証明書を作った経験があったりすると、価格は下がる。マイナンバーカードができたから、無垢な戸籍の価値は上がり続けるぞ。どう? 投資に買っとく?」
「投資じゃないですけど、自分の身分をもういくつか増やしておいてもいいかな、と」
樋口湊の戸籍はすでにグレーな感じだ。
偽造した運転免許証で探索者証を作ってしまったため、僕の顔画像データは公的機関に残ってしまった。
おそらく最近の動向はすぐに把握される。あるいはもう把握されているかもしれない。警察も、公安も、内調も、そしてさっき現れた謎の男たちも、僕について必死に調べているに違いないからだ。
僕のポカで、柊和也の身分ももう使えない。
オリヴィアチャレンジチャンネルは父さんが登録したアカウントだからだ。
年齢的に息子の僕が疑われ、顔画像でも持って聞き込みされたら速攻でバレる。
「冗談だ。うちで買うのは止めといたほうがいいな。俺も見張られてる。あの反社はうちにも繋がりがあったが、もっと暗い世界とも繋がっているはずだ。そっちを頼れ」
反社よりもさらに暗いところか。
つまり借金で人を絡め取るなんて甘っちょろいことはしない国際犯罪組織レベルの話になるだろう。人間の売り買いではなく、その尊厳を破壊するショーを開催するような悪の胴元だ。
そういう意味ではいま僕のスマホには豚の拷問映像が記録されてるんだよな。
そのまま日本に持って来ちゃったから、中国とかアメリカはこの所業を把握しているかもしれない。
僕は国際犯罪組織にすら嫌がられるかもしれない。
犯罪組織であるなら、すでに国家機関に目をつけられている人間とは取引などしたくないだろう。
となると、別の選択肢も考えなくてはいけない。
元々、僕が取引しようと思っていた相手がいる。
「あるいはその逆ですね」
「逆?」
「戸籍を管理しているのは自治体ですが、法務省も関わってますよね。電子化されたいま、紙で管理していた頃に比べてずっとねじ込みやすくなったはずです」
「ああ、国を相手に取引するならそういうのもできるだろうな。さすがに俺には経験のない話だが」
「なんにせよ国を巻き込むのは想定通りです。予定より早まりましたが、時間を稼いだと思えば悪くない」
「お前、なにと戦ってんの?」
代筆屋に言われて、僕は初めてそれを意識した。
僕の大目的はメルと幸せになることだ。
そこから優先度がひとつ下がって、地球側の世界で運営が引き起こす可能性の高い【イベント】に対抗したい。
僕らNPCの犠牲を減らすために、世界の管理者を敵に回すのだ。
「運営、ですかね」
そうだ。僕は少なくとも二つの世界を管理する運営の思惑と戦うのだ。




