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ユニークスキルで異世界と交易してるけど、商売より恋がしたい ー僕と彼女の異世界マネジメントー  作者: 二上たいら
第8章 輝ける星々とその守護者について

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第347話 契約書に判を突かせる

 ウイスキーを一杯やっただけで、もう足取りの怪しい神立さんを連れて、僕は水之江家までタクシーで移動した。


 先日訪れた時はその異様な雰囲気に気圧されたが、こうして見ると普通の一軒家だ。

 見た目だけならこの住宅地の中に埋没して、表札が無ければ迷ったかもしれない。


 あの時は家に入るのに恐れすら感じた。

 強い怒りで乗り越えたが、それが必要だった。


 あの雰囲気が喪われたのはおそらく白川ユイの不在によるものだ。


 とっくに火の消えた囲炉裏のようだと僕は思った。

 形だけが残っていて、もう温もりはどこにもない。


 僕がチャイムを押して名を告げると、玄関の鍵が開く音がして、白河ユイの母親が姿を現した。


「お待ちしておりました。どうぞ中へ」


 先日と打って変わって白河ユイの母親はごく普通の洋服を着ていた。

 これは僕の予想だが、先日着ていた和服姿は娘を支配するための装備だったのだ。

 その娘がいなくなったことで武装を続ける意味が無くなった。


 だから家に鍵も掛けるし、服装も洋服に替わった。

 支配の監獄だった水之江家は、今やごく普通の、ただの家に変わった。


 和室の居間ではなく、テーブルのあるダイニングに案内される。

 そこでは私服姿の白河ユイの父親が待っていた。


 室内着ではなく、外出着ではあるが、和装の時に感じた威厳のようなものはもう欠片も残っていない。

 そこにいるのはごく普通の中年男性で、そのことが逆に恐ろしくなった。


 この男は、このどこにでもいそうな男性は、娘を金で売ったのだ。


「こんばんは」


 僕が感情を覆い隠し、笑顔を貼り付けてそう言うと、彼は飛び上がるように立ち上がった。


「三津崎さん、いらっしゃったということは、その荷物は……」


 期待を隠し切れない目。

 金の亡者の目だ。


 僅かに持っていた希望が消えてなくなるのを感じる。


 僕はまだどこかで期待していた。


 白河ユイの両親が娘の喪失を後悔し、反省し、この取引を破談にできないかと相談してくることを。

 それを僕が受け入れるかどうかは別にして、彼らにはそうなっていてもらいたかった。

 それを願っていた。


 だってそうじゃないと、白河ユイは彼らにとって鵜のようなものだったということになる。

 それは首に縄をかけられて、魚を捕まえるだけの哀れな鳥だ。


「先に契約書を完成させましょう。なにせこれは二億円が動く取引ですから」


 そう、たった二億円だ。

 僕にしてみればそうだ。


 だけど彼らにとっては違った。


 そうだ。

 金で買えないものと同じくらい、買えてしまうものも多い。


「そ、そうですね」


 気もそぞろと言った様子で白河ユイの父親は同意する。

 しかし見知らぬ男が僕に同行していることがどうしても気にかかるようだった。


「それでこちらの方が弁護士の?」


「夜分遅くに失礼いたします。私、司法書士の神立と申します。いやあ、法曹崩れで申し訳ない。こんな案件ですから名刺はありませんが、こちらをご確認ください」


 そう言って神立さんは一枚のカードを提示した。

 ちらと横から見ると、どうやら顔写真付きの身分証明書のようだった。


 へぇ、司法書士ってそういうのがあるんだ。


「この通り、バッジもあるんですがね。弁護士のは皆さんご存じだが、司法書士のはあまり知られていなくね。これだけ見せても効果が無い! ははは!」


 そう笑って神立さんはスーツの胸の辺りを親指で指した。


 そういえば弁護士バッジみたいなのをつけてるね。

 これ司法書士の証だったんだ。


 弁護士はなんか丸い花なのかな? みたいなのだよね。


「まあま、一旦座りましょう」


 家主ではない神立さんがそうやって着席を薦め、僕らはテーブルに着いた。


「というわけで、私は代理人になったりはできませんが、法的な書類の作成はできます。今回の売買取引についても契約書を作成してきました。その他の手続きに必要な書類もです。こちらです。ご確認ください。ここ、今回は販売者であるあなたを甲、三津崎湊さんと乙として表記していますが、他意はありません。あ、お名前は空けてあるので、あとでご記入願いますね」


 そして神立さんは契約の最初のページを指差した。


「ここです。第一条 甲は乙に対し、甲の所有する以下の権利を売り渡し、乙はこれを買い受けた。売買代金は総額二億円也とする」


 ごくり、と白河ユイの父親が喉を鳴らした。


「第2条 乙は、この代金を現金で支払うものとする。第3条 甲は二〇二三年八月二〇日までに、乙に対してこの権利が移譲されたと認めたものとする。とりあえず重要なのはここですね」


 神立さんは第3条の条文を指先でトントンと叩いた。


「なにせお嬢さんの身柄は20日の夜からここにないわけで、この日付にしないと三津崎さんが誘拐犯になってしまうわけです。それでどうしたというわけでもないですが、こちら、同意いただけますよね?」


「代金の支払期限の日付が書かれていないようですが?」


 気になるのはそこか。

 まだ先の条文だぞ。

 この守銭奴め!


「今のところ空けています。三津崎さんは本日現金を持ってきているので、本日、つまり二二日にしておくのが、一番無難ですね」


「そうか。では記入を」


 拙速さすら滲ませて用意してあったペンに手を伸ばした白河ユイの父親に、神立さんは一瞬何かを言いかけたが、それを飲み込んだ。


 うっかり出そうになったんだろうね。

 ちゃんと文面を読めよ、とか、そんな言葉が。


 うまく隠しているけれど、やっぱり酔いが残っているんだろう。

 そうでなければ彼なら隠し切れたはずだ。


 僕はそう思うくらいには神立さんのことをもう信頼している。


「――分かりました。印鑑はお持ちですか?」


「実印がいいだろうか?」


「そうしてもらえるとありがたいですが、印鑑証明はお持ちですか?」


「用意してあります」


 この用意の良さが腹立たしい。

 印鑑証明だってロハじゃない。

 手に入れるのに大した金額ではないが、手数料がかかるし、手間もかかる。


 娘の売り上げ金を準備万端待ち構えていたってわけだ。


「では先に空欄に記入していただいて――」


 神立さんが手際よく指示して、契約書が完成していく。


 淀みなく進むそれに、僕は神立さんという司法書士が白河ユイのことを知らないにせよ、この契約に怒りを覚えていることを悟った。


 心底善性の人間が、その善性を保ったまま闇に踏み込んでいる。


「はい。それではこちらに実印を、あ、朱肉はこれをお使いください。下にマットを引きますね。ここと、ここです。それから捨て印をここに。それから割り印をしてください。ここと、ここです。ありがとうございます。これがもう一通あります」


 泥に塗れても、彼の中にはちゃんと輝きがあって、分かる人が見れば分かる。


 僕や咲良社長のように、そうならざるを得なかった人とは違い、彼はそうなることを選択して汚泥に手を突っ込んでいる。

 自らは溺れないようにちゃんと自分のリスク管理もして、それでもいくらかのリスクを負って。


 きっと彼は救い手ではない。

 汚泥の奥深くにまでは手が届かないだろう。


 だけど僕らのような汚泥に身を浸して、その奥まで掻き分けていく人間には必要なのだ。

 彼のような要救助者を受け渡せる誰かが。


「ありがとうございます。これで売買契約書は完成です。では付随書類として親権の放棄と、未成年者後見人の指名申立書です。これらは実際に家裁に提出をします。まあ、却下されるでしょうが、申立は通します。窓口でかなりごねられるでしょうが、申請があったという事実は確実に残します。私のちっぽけなプライドに賭けて、家裁に審査させる」


 神立さんの強い言葉に白河ユイの両親は少し飲まれたように怯んだ。


「ああ、すみません」


 神立さんは自分がいきりたっていたことに気付き、すぐに口調を改めた。


「確実に却下はされます。というか、わざと審査を引き延ばして親権の消滅を狙ってくるかな。家裁ってそういうとこあるんですよね。なあなあにしたがるというか。なんで、まあ、どうなることもないですよ。児相の相談員だって来やしないでしょう。ご安心ください。そもそも契約はもう成立しています。三津崎さんはちゃんと二億を払いますよ。ですよね?」


「もちろん。ちゃんと用意してきました。銀行で引き出した、正真正銘の二億円です」


 僕はテーブルの下で、怒りにいつの間にか握りしめていた手を、ゆっくりと解いた。


 貼り付けろ。笑顔の仮面を。

 僕はいま取引が成立した商人なのだ。


 何気ない風を装って一千万円のブロックをテーブルの上に積み上げていく。

 1個が10センチの厚さだ。


 案外大きくないだろ?

 一千万円は片手で持てる。

 その程度の額だ。


 それが20個。

 流石にテーブルの一角を占拠したが、乗り切らないというほどでもない。


 たったこれだけ。

 これがお前らが娘の人身売買契約書に判を突いて得た金だ!

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