第330話 大人になりたい
僕はお金が好きだ。
なんでかというと僕の価値を数字で示してくれたから。
ロージア先生のありがたい教えは僕を救ってくれた。
世の中のほとんどのことは金と引き換えにできる。
僕が印刷屋から買ったように、時間すら金で買える。
でも知れば知るほど、僕はお金というものの無力さに打ちひしがれる。
お金ならいくらでも稼いできてやるよ。
でもいくらお金があっても、すでに失われたものは取り戻せないし、誰かの心を救うこともできないのだ。
お金に救われることもある。
僕自身がそうだったように。
だけどお金では救えないこともたくさんあるんだ!
咲良社長の部屋を後にした僕はタクシーを捕まえて浅草のビジネスホテルの名を告げた。
すっとタクシーはスムーズに走り出す。
あまりにも軽やかで加速したことすら感じなかった。
僕はしばらく走り去る東京の景色を窓から眺めて、何を考えればいいのかも分からない、このぐちゃぐちゃの感情と向き合っていた。
放っておいたら涙が流れてきそうだ。
救いたい。
なぜとか、なんのために、とか、そんなのは全部いらない。
僕はそうしたい。
白河ユイも、九重ユラも、親という存在に振り回される子どもたちを、あと鳴海カノンの親にも一言くらいはもの申していいかもしれない。
いくら成人済みの戸籍を買ったところで、僕はやっぱり子どもで、お金があっても、レベルがあっても無力だ。
でも咲良社長のあの慟哭にも似た叫びを聞けば嫌が応にも分かる。
分かってしまう。
大人になったから何でも解決できるわけじゃないんだ。
大人は大人で藻掻いて苦しんで、そうやって僕らの前では平気な振りをしている。
僕は、大人になりたい。
彼らと対等に立てる人間になりたい。
そのためには何が足りない。
今の僕に何を足せば大人になれる。
きゅっと強めのブレーキでタクシーは止まる。
ここまで車に乗っていることすら忘れそうなほどだったのに、体が少し前に揺れる。
「あれ、ここ――」
僕が告げたビジネスホテルの前じゃない。
それどころか全然違う、都会っぽさの無い住宅地の一角だ。
「あの、運転手さん」
「違うぜ。戦友だろ」
「あっ!」
思わず声を上げてしまう。
九重ユラの事情で頭がいっぱいで全然気付いてなかった。
さっきのタクシーの運転手さんだ。
「思い出せなくても仕方ねぇや。まだ解決はしてないんだろ。俺は言ったもんな。解決してから思い出してくれって。つまりはよ、今夜はまだ終わっちゃいないってこった」
そう言ってタクシー運転手さんはドアを開けて車を降りる。
いま、ドライブはまだ終わってないみたいに言ってなかったっけ?
「降りな。兄弟。あんたから金は取らない。だから俺もあんたを目的地には連れて行かねえ」
それは良くないよ!?
それでもこの人に付き合わなければ話が進まなさそうだ。
僕は自分の手でドアを開けてタクシーを降りる。
「こんなところに駐めていいんですか?」
「あぁ、ここらは住宅地内で私道だからな。駐禁は切れねえよ。ついてきな。すぐそこさ」
本当に少しだけあるいて角を曲がったところ、街灯の当たらないところに赤い光が淡く灯っている。
赤提灯。
移動式の屋台だ。
現代の東京にこんな屋台が?
「じいさん、やってるか?」
「見りゃわかんだろ。ついに年が目に来たか?」
「うるせー。誰だって年を取る。イヤでも年老いて、死ぬんだ。あんたのほうが黄泉路にゃ近いだろうに」
「ワシが近付くと河原の子どもたちが怖がっちまうからな。もっとヨボヨボになるまで三途の川にゃ近寄れんのよ」
「じいさんの強面じゃ鬼も逃げ出すだろうぜ。客も逃げちまってんじゃねーか? いっつもガラガラじゃねーか。知ってる? SDGs。食材を無駄にしちゃいかんよ」
「SDGsにゃ飢饉を無くしましょうってのはあっても、食品ロスの項目はねぇよ」
「いーっつもこれだ。兄弟、さっさと来いよ。廃棄直前の食材を無駄にしない協力をしてやろうや」
「ついに頭がイカれたか。孫でもおかしかない年だろう。そっちの子は」
謎の展開に僕が困惑していると、屋台の向こう側のお爺さんは強面の皺を深くした。笑おうとしているけど、あまり上手じゃない感じだ。
「お座んなさい。おでんは好きかな?」
「好きですけど、夏ですよ……」
「夏だからと言って食べちゃいかんことはあるまいよ」
「暑くはないんですか?」
「さあねえ、年を取ると暑さが分かりにくくなんのかもね。やっぱり大根から行くかい?」
「適当に出してくれりゃいいよ。あ、アルコールは抜きな。仕事……は、別にどうでもいいけど、車だからよ」
まあ仕事中ではないですよね。
目的地とは全然違いますもんね。
「アルコール抜きはこれしかねぇよ」
木の丸椅子に座った僕らの前にドンと置かれたのは瓶の、なにこれ?
「かーっ! 縁日の余りだろ、これ。おでんにゃ合わねぇよ」
お爺さんは無言で運転手さんの前から瓶を取り上げる。
「待て待て待て、炭酸だし、用は甘いビールだな。そう思う。思えばいける」
お爺さんの手から瓶を取り戻した運転手さんは、ペリペリとビニールを外す。
「一個一個栓抜きがついてるたぁ、最近のはまったく風情がねぇなあ。こういうのは据え置きの栓抜きを使うのがいいんだよ」
「保健所から衛生面で指導されちまうよ。最近は飲食店の設置物への悪戯の話もよく聞くだろ」
「まあ、そうだよな。時勢ってヤツだ。人間ってのは結局、自分の時代しか生きられねぇのよ。だから時代が変わっていくと置いて行かれたと感じちまう」
「この赤提灯はLEDだぞ」
「皆が皆とは言わねぇけど、未だに東京で屋台引いてる爺という時点で言い訳できんだろ」
「あの、すみません」
僕は意を決して二人の会話に割り込む。
「僕には時間がありません。つまりお二人の会話を楽しむ余裕が無いんです。今は早くホテルに戻って休むか、考えるかしたい。今も、頭の中がぐちゃぐちゃのどろどろで、今にも、溢れてきそうなんです」
「だからだろうが」
運転手さんが僕の肩に手を置く。
強く、椅子に座っていろ、というように。
もちろん本気を出せば振りほどける。
どこか公道に出れば別のタクシーを捕まえられるだろう。
「追い詰められるな。特に自分で自分に追い詰められるな。兄弟が何をそんなに焦っているのかは知らんが、あ、いや、誘拐された子がいるんだったか」
「あー、通報していい?」
「言葉の綾だよ。爺さん。そんなことも分からないくらい耄碌しちまったか? つまりな、誰かは知らんが兄弟は助けたいんだよな。その誰かを」
「はい」
「なら兄弟、なんで溺れてるんだ?」
「はい?」
「当然の話だろ? 溺れている誰かを助けに行くのに、自分が溺れてるヤツがいるかよ。兄弟はどっちかってっと要救助者の顔をしてたぜ。ほら、俺が飛び込んできちまった。お前さんを救いによ」
そう言って運転手さんは僕の肩から手を離すと、瓶を手に取った。
「知ってる? ラムネ」
「これがラムネなんですか」
「まあ、最近は祭りでもあんま見ねぇよな。あってもペットボトルだったりするしな」
「なんの、話ですか? 僕には――」
「これってどうやって蓋してるか知ってる?」
「はい?」
SDGsの12-3には「2030年までに、お店や消費者のところで捨てられる食料(一人当たりの量)を半分に減らす。また、生産者からお店への流れのなかで、食料が捨てられたり、失われたりすることを減らす。」とあるので食品ロスの項目は、あります!
ただ、これの実現方法が全然私には分からない。[食料(一人当たりの量)]という表記も意味が分からない。この表記だと全量とは違うのか? どこからが食品ロスなんだ? 茹でたら皮まで食える野菜を皮むきしたら食品ロスなのか。それとも切れ端は含まれないのか。消費者が食べきれなくて捨てるのは、まあ食品ロスでいいとして、販売店は基本売り切れる量しか仕入れないということか? それって食品転売というものすごい闇を産まない? へいき? 流通から小売りにおいて消費期限手前であっても、陳列旗艦が短いと判断されると切られるみたいなのは止めたほうがいいと思うけれど、――無限に続く。




